44話 限界

 洗いざらしの青いシャツをゆったりと羽織り、ブラウンの薄コール天のズボンを履いた、身長178㎝、体重61㎏の細長い狼犬のライカン男はうつむいて、黄ばんだシャンデリアの灯り下で片手の掌を握りしめ、パッと開きを繰り返していた。


 その他人から見れば何でもないはずの光景に妻と息子、そして居合わせた双子の娘も驚愕し切った顔で、揃いのブルーグレイの八つの目を剥いていた。


 中年の妻は何とか言葉を紡ぎ

 「あ、あなた?そ、それ……」


 アレクも固まっていたが父親の左半身を指差して

 「パ、パパの手……手が……。ひ、左手が、ある!」


 晴れた空色のワンピースのアンとビスは戦慄していた。


 二人は15年前にあの森でドラクロワと別れてから、三日間続いた高熱が引くと、直ぐにリンドーの王立七大女神寺院に駆け込んで、魔王軍にも邪神軍にも唯一にして最高の対抗手段とされる神聖魔法をマスターし、戦術と高いレベルでまとめ上げるのに、暦から逆算して15年しかないのを知り、夢中で教えを請うた。


 そのうちに、姉には特に神聖魔法の攻撃系魔法、神聖付与魔法に適性があるといわれ、妹のアンには、治療魔法全般にその適性ありと診断され、それら得意分野を意識して伸ばすことになった。

 

 それからというもの、ひたすらにそれらを高僧、勉強会に招かれてきた高レベルの神官戦士などに師事し、神聖魔法と聞けばどこへでも出掛けて行き、およそ神聖魔法いうものは貪り、しゃぶり尽くすように請い求めた15年であった。


 彼女達がある程度神聖魔法を理解し始め、最初に高僧の裾を握りしめ、それこそ食って掛かるように教えを求めたのは勿論、人体の欠損部位の修復である。


 しかし、条件さえ整えば死人さえ蘇らせる、一見万能にさえ見える神聖魔法ではあったが、自ずと怪我の治療にも限界というものがあった。


 打撲による陥没、裂傷、粉砕骨折などは高レベルの神官位を有する者なら、即座に嘘のように治してしまう。

 だがその切断、欠損となれば話は変わってくる。

 まず、その治療にあたっては、欠損先の部位がなければ結合再生は不可能であり、その上、切断されてから一両日中でなければそれは生命力の抜けた、死の神の領域のものとされ、結合しないのである。

 また勿論、頸骨の切断、つまり首をはねらては助からない。


 つまり、蜥蜴の尻尾のように、失った部位をニョキニョキと再生させ、生やすことは出来ないのである。


 これは神聖魔法のレベルや、それを扱う者の才能、徳の高さいかんには関係がなく、正しくここが神聖魔法の限界であった。


 だからこそ、どう考えても15年前にあの深い森で置き去りにされ、とうの昔に腐敗し、動植物、微生物の糧となり、遠い過去に他の物質へと変換された筈の腕など結合は出来ないし、運良くその骨を発見できたとしても再生させることなど、まずもって不可能であった。


 二人の神官戦士となったアンとビスはこの15年という歳月の中で、それこそ数え切れないほどの夜を研究論文、古代の聖典、文献の上で突っ伏してきた。


 結果、双子は行き着いた先、立ち塞がる神聖魔法の限界という巨壁に両(もろ)手をつき、その身をぶつけ、地に崩折れるしかなかった。


 だが……あるのだ。


 目の前に立つ、愛する父親の肩口の先に、義肢ではなく、白い肌の動いている若い左手が。


 当然、アンとビスはそれに魂を凍りつかせた。

 二人は喉が貼り付いたようになり、声が出せずにいた。


 震える母親が、まるでうわ言のように先に聞いた。


 「あ、あなた……。そ、それ、どうしたの?」


 父親は魂が抜けたような声でボンヤリと

 「んー…………。あ、あぁ。付けて、もらった」


 当たり前である。家族が聞きたいのはそこではなかったが、本人も治療院に通いつめ、神聖魔法の限界は知りすぎるほど知っている。

 今、彼の頭蓋内では混乱という嵐が竜巻を伴い、災害レベルで荒れ狂っており、思考は逆走込みの大渋滞、まともな返事など、どうにも出せはしないのである。


 アンとビスは奥のテーブルを大袈裟でなく、ブン!と空気を千切って振り向き、神聖攻撃魔法の聖光の束が迸(ほとばし)るような目で見た。


 アンが震える声で聞く。


 「それ……やったの、奥の人?」


 呆然していた父親が呟くように

 「う、うん。何か杖を持った可愛いお嬢さんが……木の箱を男の人から渡されて、それを開けると、なぜか俺の腕が入ってたんだ……それからそのお嬢さんが何かを唱えてピカッとピカピカ……ピカピカ……ピカピカ」


 事情を知らない家族からすると、この発言は全く要領を得ていないように聴こえる、だが彼はただ事実を語っていた。


 アンとビスが黒と白の疾風になり、倒れるような前傾姿勢で奥のテーブルへと殺到した。


 二人は喉まで痛いほど高鳴る心臓、訳も解らず押し寄せる熱い涙を押さえ、高い植木、厚い煉瓦の遮蔽壁の裏に遮二無二駆けた。


 そこには、天井を仰いで口を空けて大イビキをかくユリア、長い深紅のブーツの脚を組むマリーナ、巨大な水晶のようなワイングラスを揺らすシャン、葡萄酒を切らし、椅子にちょこんと掛けて小さな両手を膝に置くカミラー。


 そして、暗黒色の禍々しいデザインの甲冑に魔法で再生させた天鵞絨のマント、単なる酒場の木製の椅子が玉座に見える程に風格のある、血も凍るような美貌の貴公子。


 そう、ドラクロワが仰け反っていた。 

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