第12話 左足骨折

悪行三昧にふけり、人の嫌がる事ばかりやって顰蹙ばかりを買うような荒んだ生活をしていれば、自分自身も荒んでいき、荒廃していきます。

そうやって頽廃的に荒んでいった人間というのは悪いものを引き寄せるだけの十分な隙というものが生まれてきます。


そしてその隙というのは致命的な事件を引き起こすこともあるわけです。


当時自分達の住んでいた集合住宅には箱ブランコがありました。

それも3台。横並びにあったのです。

つまり3台で競争も出来るような形になっていました。

どれだけ高速に箱ブランコを行き来させるか

どれだけ箱ブランコを高角度迄浮き上がらせるか

まあ、このくらいならまだ危なくない方です。


より、スリルと破滅の刹那を味わいたかった私は過激な遊びへとハマって行ったのです。それが高速で左右に跳ね動く箱ブランコをいかに早く急制動かけるかという危険な遊びでした。


この危険な遊びは直ぐに親が止めに入るようになりますが、それでも自分が本当に痛い目に遭わない限りはこの遊びの刹那にハマっていたわたしは抜け出すことができませんでした。


そしてとうとうその日が来たのです。


その日の何時ごろだったか、その日が平日だったかも覚えてはいません。

ただ、幼馴染と一緒になって箱ブランコの急ブレーキ競争をしていました。

僕の方が早かった、いや、僕の方が早かったと、いつになく白熱した勝負になっていて、夢中になってやっていました。


そして「ぷち」という音と、カクンとなるのが同時に起こり、その後立ち上がろうとしたら踏ん張る力で左足に激痛が走り、絶叫をあげました。


「かぐあ~、あいしし、ぽげげ」言葉にならない悲鳴を上げて、それでも無理に立ち上がろうとしました。たてません。


「だわうわ、ぶぺちゃぶ、おいしし、ぽげほげ~」とにかく痛くて言葉で足に異状が発生してどうにもならないことを伝えたいのですが、全く伝えられません。


一緒に遊んでいた幼馴染は何をしていいのかわからないけど深刻な状況だけはわかったようで、しかし、どう対処したらいいのかわからないから心配そうな顔で棒立ちしていました。


意味不明な絶叫をあげて行動が明らかにおかしいことに気が付いた2歳くらいの子と砂場で遊んでいた母親が私の元に急いで駆け寄って来て呉れました。

「大丈夫、左足がどうかしたのね。おうちに誰か人がいる?」


「あ、あぁかか、ははがいます。」

「僕は、この子のおうち知ってる。この子のお母さんを呼んで来て」

幼馴染は急いで私の母を呼びに行きました。

このお母さんは自分の子供を一緒に遊ばせていた他のお母さんに任せると急いで、車のカギを取りに行って呉れました。そう、当時としては非常に珍しいのですが、このお母さん車の運転が出来たのです。

母と二人で私を抱きかかえて、車に乗せてもらい、急いで近所の接骨院に。

接骨院ではこのくらい小さい子の骨折だと、大人になって障害を残さないためにも専門の整形外科にかかった方がいいということで、亀戸の隣駅の駅前にある、平井病院を紹介して呉れました。そしてここまでこのお母さんは車で運んで呉れました。

レントゲンを撮ったりなんだかんだと暫くは痛い思いをしなくて済んだのですが、5歳児で麻酔を使うのはあまりよくない。痛がるから、しっかり押さえてくださいという声が聞こえ、看護師や、母が優しいけどひきつった笑顔でがっしりと私を押さえつけ、医者が渾身の力で私の左足を引っ張りました。そして折れた足をはめて繋げたのです。


いきなり引っ張られたから痛かったです。

「あぎゃー、ばーわー、がーあああああ」

そして嵌める時に多少ぐりぐりされたので骨の音と骨同士がこすれる感覚を強烈に感じました。キチンとハマっているかの微調整で骨をぐりぐりされるのが貯まらず鶏になっていました。

「ほぉーおおおおおばばばばば、ばっぱらぶうぅぅういししおけべけ、か、ぴょー、べびぃー、じゃ、ばわはらあばぱあ、こ、ここ、こっこここ、こけええええ、えいじゃーばらっぱあ~」

私は悲鳴と痛みと体内部の違和感で疲労しきってしまい、放心状態になっていましたが、容赦なく医者は休ませることなくレントゲンを撮りに行かせました。担架に寝かせられた状態で何もしなくてもレントゲンを撮ってくれているんだけど、疲労でフラフラで寝たいだの、のどかわいただの、愚痴と不満ばかり母にぶちまけていました。


一応キチンとハマったようなので、石膏で固定し、一泊だけ念のため病院に泊まるように言われました。治療というか荒療治というかそんなことで、疲弊した居た私はさっさと寝てしまいました。


翌朝、石膏した状態でまたレントゲンを撮り、骨がずれてないことを確認して、退院。ところが子供用の松葉杖や車椅子なんて当時ありませんから、渡された松葉杖は長過ぎて歩けない。生来の不器用もあって、松葉杖に馴れない私は基本的にトイレの時以外は動かない。そんな生活に堕ちて行きました。


子供がなんで、あんなに落ち着きなくジコジコした生き物なのか、自分が動かない生活をしていて痛感しました。動いて動いて喋って喋ってして経験をとにかく増やし、鍛錬して体を作っていくのです。文字通りの肉体と精神をです。


ところがそれを辞めた人間はどうなるか。停滞し、衰退し、没落するしかないんです。


数週間でトイレに行くのも息切れするようになり、喋らない動かないから言葉を上手に発することが出来なくなり、体も固まって動かなくなってきました。体の固まるのはテレビ体操を強制されることで解消したのですが、喋らない点については母も静かになったと特に手を加えずにそのまま放置していたら、ドモリになってしまいました。あまりに喋らないので、喋るときに言葉をじっくり考える変な癖がついてしまい、その貯めが余計に変な癖になってドモリを悪化させてしまい、

「おおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおお兄ちゃん」というくらいに言葉が出てこなくなりました。


ドモリを治すために、個人レッスンをしてもらったり、今でいう芸能事務所みたいなところに連れて行ってもらって他の子役の子と一緒にレッスンを受けて発声練習をしたりといろんな手を使いましたが、結局ドモリが沈静化したのは、石膏を外し、普通に歩けるようになって相当立ってからでした。半年石膏嵌めていたので、怪我から1年後くらい経ってようやくドモリも収まりました。


人間、体を使わなければ退化するのは早いです。5歳にしてそれを身に染みて体感したのに、生来持っている怠けた性格はそうそう治せるものではなく、今も似たような生活をしているために非常にあちこち退化してしかも今度は壮年期に来ているために落とした体力や能力が回復できない有様になってしまいました。


やっぱり馬鹿は死ななきゃ治らないんですねえ。


私が箱ブランコで骨折という事故をやらかすと児童公園の方が早速動いて、箱ブランコを撤去してしまいました。馬鹿が馬鹿な遊びをして、結局馬鹿を見て、馬鹿な恥さらしをしただけじゃなく、周りの上手に遊んでいる子にまで迷惑をかけたのです。


箱ブランコの撤去は危ないからが確かに一番の理由だったでしょう。

だけど、私が馬鹿をしなければ、撤去はずっと先送りされていたと思います。


馬鹿が馬鹿をやるたびに馬鹿のせいであれも禁止これも禁止となって、どんどん馬鹿のせいで規制がかけられていくのです。本当に社会にとって馬鹿ほど迷惑な存在はいません。賢いのばかりであれば、馬鹿はしないつまりは規制しなくても自制出来る人間ばかりだから規制はいらなくなるのでしょう。

馬鹿の癖してこういう点は目ざとく気にする口だったので、自分のせいで箱ブランコが無くなったというのはそれで楽しく遊んでいた友達に迷惑かけたということに繋がり、自虐したくなりました。


石膏で固定して骨折を時間をかけて直したことは、後遺症が残らなかったという意味では大成功でしたが、一方で、石膏をしているために入浴回数が減少、しかも介護付き入浴をしていたために、お風呂に入らない習慣が身につき、一時期ほんとに風呂嫌いになり、風呂の時間になると逃げ回っていました。犬猫じゃあるまいに、お湯を嫌う要素がよく解りませんが、何かこだわっていたんでしょうか。原因はよくわかりません。




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