第11話 乳幼児期のちょっとした思い出

①路面電車

東京都の都電が荒川線を除いて全線廃止されたのが昭和47年11月12日でした。

私は満2歳になっていたのですが、不思議と乗った記憶があるんです。

荒川線には当時乗った記憶がないんですが、ひょっとしたら鉄道好きな私を父が載せて呉れたのかもしれません。

東京都電が廃止された同じ年に一足早くに横浜市電も廃止になっています。

これも乗った記憶があるんです。

でも幾ら何でも1~2歳の記憶が残るでしょうかね。

何かの記憶とこんがらがってるような気がします。


乗り心地が悪く、ガタンドシンドシンガタンと振動がもろに伝わり、音の割にはそんなにスピードが出ていない電車。そして歩くには億劫な距離ですが、子供や大人で健康やお金のことを考えれば自転車なら余裕、徒歩だとちょっと駅から難儀な距離などをこの乗り心地の悪い電車だと連れて行ってくれるんです。


道路のど真ん中に線引きされて区画化された停留所とそのポールが立っているだけの非常に危険な乗降場所。親が路面電車から降りる時だけは走るなと本気で怒り、走って飛び出そうものなら、首根っこをひっつかまれて、つるし上げられて窒息死しかけました

だから通行する車にはねられそうになって飛び出し降車を辞めたのではなく、母に首を掴まれてつるし上げられて窒息死するのが怖くて、飛び出し降車しなくなりました。体に恐怖が教え込まされたので、路面電車だけじゃなく、バスや電車の降車時でも駆け下り降車や飛び出し降車はしなくなりました。体が覚えているから、そんな行為をすると背筋に寒気が走り、息苦しくなるんです。

条件反射?とでもいえばいいのでしょうか。


おかげで公共交通機関を利用時には乗降時に慎重に動くようになったので今迄そういう事故に巻き込まれたことはありません。


それと路面電車の線路、あれが結構危ないんです。


私が物心ついたころ、つまり確実に記憶に残っている3歳児以降の記憶では、勿論電車が走っていないのですが、廃線にしたとはいえ、線路はまだそのまま放置されていました。どうせ道路舗装で何年かに一度は舗装の張替えをするわけです。だからその時に一緒に撤去してもらえばいいやという感じだったのでしょう。

路面電車がもう絶対に走る事はないのに線路だけはあちこちに残されていました。


これが雨の日になると完全に凶器になっていました。


レールの上を歩いて滑る、自転車で滑る、とにかくレールが凶器でした。

怖かったですね。

私は馬鹿だから何度も何度も同じところで怪我をしてようやく理解しました。

それまでは多分下を見て歩くという習慣がなかったんでしょうが、今でも抜けない前を向いて歩くではなく下を向いて歩くという習慣が定着してしまいました。


ところが私以上に馬鹿がいたんですよ。それが母。

何度も何度も路面電車の廃線跡のレールの上に自転車のタイヤを雨の日に乗り上げてはツルン、ドテン、バシャアーとダイエーでお買い物した商品をいかに綺麗に放射状にぶちまけるか練習を重ねていました。


明治通りと新大橋通りで。


一度多分、大島八丁目の大きな交差点でまともに顔面から落下してしまいました。

鼻もうったのか鼻血で顔中血まみれになってしまいました。私は自転車から投げ出されただけで多分多少の擦過傷程度で済んだのでしょう。兄は自転車で随伴してましたが、賢いからそんな上にのっかっても慎重なのでこけたりしません。

それでも母が顔中真っ赤に血だらけになっている姿に兄もパニックになり泣いてしまい、私は投げ飛ばされていたくてワンワン泣きだしてしまいました。

母は血を流しながら家路を急いでしまったために途中交番の前を通過してしまいました。顔中血まみれの女性が子供を連れて急いで行動している姿をみて、おまわりさんが不信に思わないはずがありません。母が事情を説明し、それを兄が復唱していたし、私も傷だらけだったんで言ってる通りなのかもしれないけど、そんな恰好で歩いては人目につきますよと救急箱から治療具をとって私に赤チンなど塗って呉れました。母にも赤チンやガーゼを渡して呉れました。


②トロリーバス

うっすらと覚えているんです。

黒部ダムのトロリーバスに乗ってないから、多分記憶にほんとにあるんだと思います。1~2歳の記憶が残っているのは変です。けど多分子供の頃から乗り物大好きだったので本当に覚えているんでしょう。東京のトロリーバスは生まれてないんで流石に記憶にないんですが、多分、横浜のトロリーバスに乗ったことがあるのを覚えているのかもしれません。


③おむつとおっぱい

おむつをあてていた記憶はありません。

おっぱいをすっていた記憶もありません。

流石に当たり前すぎて覚えてないのかもしれません。


おむつはまだパンパースが登場するには私が産まれてから5年の歳月を要し、それまでは紙おむつはあったのですが、高級品で使い捨てではあったものの高くてホイホイ使えなかったそうです。

だから旅行に行くときくらいしか使わなかったといってました。

パンパースが母にとっても衝撃的だったのは、あ、この金額なら使い捨て出来ると思ったそうなんです。それまでの紙おむつは使い捨てに抵抗ある金額だったようです。毎日使うものでしかも結構金がかかるものだからというのでまあ、自身が子育ての経験者だったという事もあるんでしょう。従弟や従妹が誕生した時に母から見て義妹に当たる父の弟の嫁にお歳暮かお中元で紙おむつを買ってプレゼントしたそうです。缶詰やビールやウイスキーの詰め合わせなども確かに多少の日持ちもするし、ありがたいっちゃあありがたいんですが、子育て中の母親にとって紙おむつのプレゼントも相当にありがたいらしいです。私は子育てしたことないんでわからないですが、毎日絶対に必要だし毎日必ず消費するものですからね。もらって直ぐに使えるし、確かに相当役に立つんでしょうね。


おむつはじゃあどうしていたかというと布おむつを使っていたようで、母にとってはおむつの洗濯が大変だったそうです。一日に2~3回は洗濯しないと間に合わないし、また布おむつは直ぐにしみてしまうため、頻繁に交換しないといけないなど大変だったようです。


そういや自分も老人ホームでおむつ交換していたことがありますが、毎日おむつ当てている人は最低でも三回は交換していました。そしてどこの老人ホームで働いていた時かわすれたけど、紙おむつだと肌荒れしちゃって被れてしまう人がいて、大人用の布おむつを職員が作ってそれを使っている人もいたんです。当然使い捨てじゃないから大変でした。


あの作業をしていた時に、母はこんな大変な事を毎日おむつが取れる2歳児以上になるまで兄と私に対してやっていたのかと思うと、ほんと感心します。私は金もらって商売でやってるから我慢できるけど、主婦なんて無給ですからね。私はたとえ自分の子供でもあのおむつ交換だけは金もらわないと割に合わねえと思ってしまいます。

子供と老人の違いがあるにせよ、やっぱり同じ排泄物ですからね。相当に辛いものを感じますよ。


母乳はちうちう吸わせているとその時間、何も出来ませんから、時間が非常に勿体ないというのが母の考えだったようで、兄の時も、私の時も、針で乳首を指して穴を広げてゴーっと一挙に満足いくまで飲ませたそうです。


幾ら時間がもったいないとはいえ、針で穴をあけて・・・って。


発想が強烈で大人になってからそんな乱暴な育て方されていたことを聞いて笑ってしまいました。


ところが、この話をあるとき、兄嫁にしたら、兄嫁も甥っ子3人を育てる時に同じ事をしていたらしいんです。

働き者のお嫁さんをもらうと時間を稼ぐためにこんな乱暴な手を使うらしいという事がよくわかりました。


私も兄も乳児の頃に満足いくまで乳を吸わせてもらえなかったから兄は指吸いが小学校に上がるころまで続き、私は小学校の高学年くらいまでほんと記憶にないんですが、タオルをちゅうちゅうストレスがたまったら吸っていたらしいです。無意識でやっていたからなのか母にそういわれても思い出せないんですよね。


私や兄はだから主に粉ミルクで育ったみたいです。


ところで粉ミルクって今も缶詰に入ってるんですかね。

昔の粉ミルクは缶に入っていたんですよ。


だから、兄が産まれた時に兄は本家の嫡男の長男、つまり嫡長子になるので、親戚中から祝われて、消費しきれない量の粉ミルクをもらったらしいんです。

粉ミルクをいつまで飲ませるのか子育てした経験がないから私は全く知らないんですが、兄が産まれてから2年半後に私が産まれたので、兄が産まれた時のお祝いにもらった粉ミルクがたっぷりまだ残っていて、それで育てたそうです。

生乳だったら100%腐ってますけど、粉末ですから大丈夫だったんでしょうね。

兄のおむつのお古をそのまま使わされたりしたのはまあいいんですけど、食べ物のお古は大丈夫なんかいなあと思ってしまいます。


④石油ショック

石油ショックと日本列島改造論のダブルパンチで急速なインフレが昭和40年代末期に訪れます。その後は緩やかなインフレと緩やかな経済成長が続く昭和50年代にと入っていくのですが、幼心に実は石油ショックははっきり覚えているんです。

車を買おうとしていた矢先にこれがあって車の購入を諦めました。

また、土地神話が始まりだして急に土地の値段が高騰し始めてきたので、空気の悪い江東区のマンションを売り払って、武蔵野三鷹、もしくは三多摩地区のどこかに戸建ての家でも買い替えようかという動きが親にありました。

実は実際に戸建て住宅などを見に、多分武蔵境、三鷹、吉祥寺まで何度か家族で見にも行ってました。

この時、恐らく私だと思うのですが、私が引越しを渋らなければ、武蔵野三鷹に引っ越しをしていた可能性が非常に高かったかもしれません。

そして戸建てを買っていれば、うまくすれば750万で買った戸建てが1億5千万で売り抜け出来たかもしれません。

私が渋ったのも別に深い意味はありません。

引っ越しで手伝いやら荷造りやらされるのが面倒とかくだらない話です。

子供らしい実に軽率な発言で土地成金に成り損ねてしまいました。


石油ショックの頃のもう一つの思い出が、リアルサザエさんを母がやらかしたということです。さざえさんの歌詞に「買い物しようと街まででかけたら財布を忘れてしまったさざえさん」だったと記憶してますが、財布ではなく、買い物しようと錦糸町迄出かけて、錦糸町デパートに子供を忘れて帰りやがったんです。


トイレットペーパー騒動に完全に載せられてしまい、自分も両手に抱えきれないくらいトイレットペーパーを抱え、私にもあの時、一袋持たせていたと思います。

繰り返しになりますが、大柄な母は大きな体躯でしかもセッカチでしたから、一個でも沢山トイレットペーパーを買って帰りたいという心境だったでしょうから私を人ごみの中で見失ったときに、私を捜す労力を省いて、さっさと家にトイレットペーパーを置いてまた店に足を運んで、トイレットペーパーを買い、その時にでも合流すればいいと判断したようでした。


一方でそんな母の勝手な計算を聞かされていない私は必死になって母を捜しますがいません。呼び出しをかけてもらったのですが、来ません。

仕方がないので、暫くじっと待っていました。

全く来ません。勿論何度か呼びだしてもらったんですが反応なしです。

それで、自転車の置き場所を覚えていたので、見に行ったら、自転車ありません。


あれ、嘘、あの人、何やってけつかるん?

冗談ぬきで子供を忘れて帰りやがったんか?


錦糸町から大島ですから、まあ1㎞は離れてませんが、それでも500m以上は離れています。


迷子センターの人が心配したらいけないので、戻って親が子供を忘れて帰っていることを正直に伝えて、大した距離じゃないから歩いて帰りますといってトイレットペーパーのどでかい袋を抱えながら、家に帰りました。

途中ですれ違う可能性を考えて、母が通行していた通りに戻りました。

しかし一向にすれ違いません。


家に帰って、内職のタイプをやっていて今度はそれに没頭してトイレットペーパーのピストン買いをするのを忘れてしまっていたのでした。


私が家に帰って初めて私を忘れて来たことに気づき、

「ごめん、あんた、忘れてかえってしもうたわ。まあ、でも、あんた犬と同じやからやっぱりちゃんと帰ってこれたんやねえ」

そうなんです。

土地勘、方向感覚、地誌力っていうんでしょうか、兎に角、道を覚えるのが好きで、地図を見るのも大好きなおかしな子供でしたから、それで完全に江東区の区分地図が頭の中に入っているんですよ。

だから地上で迷う事はほとんど小さい時からありませんでした。

地下街などでは当たり前によく迷子になってました。

それは地下街が区分地図に載ってないからです。

今は地下道や地下街も地図に載せてくれていますよね。

だから、ほとんど地下街や地下道でも迷う事はありません。


因みに買い物先で子供を忘れて帰ったのは1回だけなら笑い話で済みますが、何回かやらかしています。そのため母と離れ離れになった時には買い物に自転車で行ったときには母の自転車をまず探すという習慣がついてしまいました。

歩きや電車で買い物に出かけた時が厄介なんです。

母をある程度探して見つからなければ呼び出しかけてもらい、3度呼び出しかけてもらって反応なしだと、ああ、今日も忘れて帰りやがったなと一人で家に帰るのです。

一番怖いのが、母と買い物に行って忘れ去られるのはいいんですが、電車バスでじゃないと戻れないような場所で忘れ去られた場合、事情を説明してキセルを許してもらうしかないという点です。子供にある程度銭を持たせて買い物に連れて行くというスタイルを母がとらないので、忘れられたら無一文なので、流石に秋葉原や新宿から亀戸まで歩いて帰るというのは大人なら出来るかもしれませんが3歳児には無理です。銀座から亀戸でも無理でしょう。だから何度か無賃乗車を特別に許してもらって帰ったことがあります。

私の両親はキセル乗車などの不正を嫌う人なので、翌日には世話になった駅などに行ってかかった費用をちゃんと払ってました。


⑤光化学スモッグ

1970年代というのは公害が本当に深刻な時代で今の支那や朝鮮みたいな感じでした。今は花粉症や健康被害の影響もあってほとんどの人が公害発生地域でマスクなどをつけていますが、昔はマスクが高かったわけじゃないんですが、付けてない人が大半でした。だから汚染された汚い淀んだ空気が流れていてそれを吸い込むわけです。

体自身が体に悪いものをダイレクトに吸い込みたくないから、自己防衛機能が働くのか、子供でも大人並に鼻毛がボウボウに伸びるんです。

鼻毛切りは週に数回してもらい、母や父によく幼稚園に出かける前に鼻毛切りしてもらっていました。髭剃りと同じで多分毎日の頻度で鼻毛切理をしてもらってたんじゃないかなと思います。


光化学スモッグの天気が何とも言えない面白い天気で、曇ってるんですけど快晴??というなんだかよくわからない不思議な天気であったのはよく覚えています。


それとあれは地形がそうさせるのでしょうか、よく虹を目にしました。

そして虹の絶景ポイントはベランダも良いのですが、なんといっても公団住宅の屋上から虹を見るのが綺麗で壮観でした。


私は光化学スモッグで体調に変化したのはただ単に鼻毛が伸びるという自己防衛機能が発達しただけでしたがアレルギー物質も拡散しているわけですから光化学スモッグが原因で、せき込んだり、目が沁みて水中眼鏡みたいなのをかけてないと耐えられないとかそういう事がなかった点は助かりました。

兄はせき込んだり、水中眼鏡をかけてないと目が開けてられないなど光化学スモッグには苦しめられていました。


⑥地震

結構江東区に住んでいた時には地震がありました。

大人になってからなのですが、江東区の時と同じようにマンションを高輪で買い、江東区のマンションと同じように中層階の物件を買ったんです。

この時、不動産屋さんが、中層階は一番揺れますよと指摘して呉れたんですが、エレベーター非常階段に近い部屋だったので、決めてしまいました。

江東区のマンションも今の私の自宅も完全に不動産屋さんが言った通り、非常に地震でよく頻繁に揺れます。


そして地震に慣れてしまうんです。


地震に慣れるとはどういうことかというと、二パターンの行動に出るんです。

それは地震が起きたら迅速に避難準備をして家から出てしまうか、

それともああ、これなら大丈夫大丈夫と地震が起きていようが風呂から上がりもしないというくらいに鷹揚に構えてしまうという事です。


両親が過剰に反応して迅速果断に家から脱兎のごとく逃げだすタイプだったので、私はその逆ののんびりタイプに大人になってからは変わってしまいました。


子供の頃は親と一緒になって慌てて逃亡していました。


地震だとなると大急ぎで防災頭巾をかぶせられて防災リュックを背負わされて非常階段を駆け下りて児童公園に逃げだしていました。


母はそうでもないのですが、父が地震を心底怖がっていました。

多分南海地震を幼少期に経験し、それがトラウマになったんでしょう。

本人も同じ事を言ってました。

和歌山沖の地震だったんですが、香川県でも相当に揺れたみたいです。


道路がボコボコに隆起しているのは地震による液状化現象でこんなのは地震の後に当たり前のように見て、時折割れ目から水が吹いていました。0m地帯の物件の恐怖を垣間見ていましたが、当たり前の風景なので怖いとは思わない程鈍感になっていました。


⑦ねずみ

排水溝にねずみがほんとによく居ました。家の中までネズミは入って来てはいなかったと思いますが、さあ、どうでしょうか。配管を逆走して上に登ったりできるみたいですから配管伝いに8階まで登ってきていたかもしれませんね。


当時のマンションの管理人があんまりいいことではないと思うんですが、ネズミを捕まえた子供たちに小遣いをやっていたんです。


それで子供たちがいいバイトとばかりに、手袋もはめないで素手でネズミ捕りをしていました。私も結構沢山捕まえましたよ。生きてると逃げてしまう危険があるんで捕まえたネズミは直ぐにバケツに水を張っておいてその中に入れて沈めて溺死させてから渡していました。子供って結構合理主義で冷酷なところありますからね。


クマネズミも結構いましたが一番多かったのはドブネズミですね。

クマネズミもドブネズミもすばしっこいから幼児が捕まえるのは至難の業です。

小学校中学年以上くらいになればネズミと互角以上の敏捷性があって素手でも捕まえる奴もいるんですが、大体は罠を仕掛けたり、仲間を組んで袋小路に追い込んで捕まえていました。


その手で紙芝居屋がうるお菓子を食べながら紙芝居見てたんですから、非衛生この上ないですよね。勿論、外水道はあるんですが、外水道で手を洗うなんて泥がついたり、べたべたして実際に気持ち悪いと感じない限りは子供の事ですから手洗なんかしません。


今の子供と違って非常に非衛生的でした。

本人も子供の頃は特に衛生に鈍感でした。


















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