第5話 保育園

病弱な子供は家の中にいる事が多く、集合住宅には同世代の子供も沢山いて相互に交流もあったものの、基本的には家からあまり外に出る事はありませんでした。

まあ、女の子の格好させているし、外に連れて行ったら変ですし、外に出してもこれまた変ですわな。

しかし、なんだか多分、その子供の頃の成長の多分第一段階をクリアーしたんでしょう。病弱だった子供も病気をしなくなりました。

それと同時に兄が幼稚園を卒園し、小学校へ上がるようになりました。

また小学校に上がってから、クラスメイトがしている事を自分もしたいというようになり、ピアノを習いたい、書道教室に行きたい、お絵かき教室に行きたい、公文教室に行きたいなどと兄の中でお稽古事ブームが発生し、両親はこれを許しました。

ただピアノ教室だけはピアノが高価すぎるのでエレクトーン教室に通わせ、エレクトーン教室で中古のエレクトーンを格安で購入して習い事をスタートしました。

当然、一挙に金銭的に大きな負担が押し寄せます。

それで母は内職のタイプの量を増やす必要に迫られた一方で、仕事に専念するため私が同居していると昼めし作ったりするのが面倒なのです。

自分だけなら昼めし抜いても構わないわけで、朝に弁当を作る手間がかかるのは面倒でしたが、私を保育園に半日預けておけばその分仕事に集中できます。

母の内職量をある程度増やせば、保育園の費用を払い、兄のお稽古事の費用も捻出できることがわかったので、母は私が以前のように直ぐに病気にならなくなったので、3歳の誕生日を境に保育園へと入園させました。


ずっとうちに居て外との接点がほとんどなかったのですが、持って生まれた才能というのか、外面が非常によい子供だったので、保育園でもほとんど手がかかりませんでした。ただ、ボウっとしていて他の子よりも指示出ししても反応が鈍く、利発な同世代の男の子からは馬鹿にされたり、からかわれたりしていました。

また同世代の女の子からは左手首の痣が気持ち悪く、怖がられて、私が何らかの弾みで女の子と触れただけで女の子が泣き出してしまうようなこともあったようです。


私と苗字は勿論違うのですが、名前がよく似ていた子がいました。

私の本名は健太なのですが、彼は健太郎といいます。

この健太郎君が非常に、たちが悪く、頭の回転が速いだけでなく非常にすばしっこい子だったので、彼がやったいたずらの濡れ衣を私にかぶせるという事をよくしていました。彼は非常によく人を観察していて、私の痣の事を保育園児の女子たちが忌み嫌って目にするたびに泣いている点を見抜き、わざと私の腕を掴んで、女の子の目の前に痣を押し付けて女の子を泣かせるようないたずらをよくされたのです。


自分から無理矢理私の腕を掴んで女の子に嫌がらせをしてその反応をみて楽しんでおきながら、保育士には健太君が女の子にまた意地悪しているという風に告げ口して、私もある種被害者なのですが、事情を知らないその場を見ていない保育士からしたら私が嫌がらせをしているようにしかとれず、理不尽に叱られることがずっと続きました。


母にとっては家計に大助かりの保育園入園でしたが、私にとっては健太郎君の遊びが私にとっては地獄で、毎日の通園は心労を二乗していました。しかし、母が保育園に入れてから内職の量が増やせて、家計の助けが出来ていて、保育園万歳というような事を父を相手に何度か話しているのを聞いていて、子供ながらに我慢していました。

母が保育園万歳といっていたのは経済的な事や時間的自由が沢山得られることだけじゃなく、ここの保育園がしつけを可成り厳しくしているところだったからです。


挨拶、食事のマナー、お片付け、お手洗いの励行など、かなり徹底していました。

トイレへ行ったら必ず石鹸を使って手を洗う。それも爪を立てて、手のひらや手の甲

、指の間も丹念に洗うというのは保育園で教わりました。これはその後私の中で途絶えることなく継続され、今に至っています。


お片付けなども厳しく、おもちゃなどは家から自由に持ちこんだり、保育園に寄贈されている玩具も自由に使えました。今から考えたら衛生的にどっちがいいのかはわからないのですが、積み木のおもちゃ、ブロックのおもちゃ、超合金のおもちゃなど、紙でできていない玩具に関しては玩具で遊んだ後、そのおもちゃを流しで洗って、雑巾で拭いてから片づけするように言われてしていました。

片づけが出来たら、出来たといって保育士に確認してもらい、保育士がOKを出したらお片付けタンスにしまっていました。


この習慣を植え付けられたため、甥っ子が小さい頃に実家にやってきて、実家に置きっぱなし似ていている甥っ子お気に入りのおもちゃを一緒になって遊んだ後、おもちゃに消毒液を吹きかけて雑巾でそれを甥っ子と一緒になって拭いて片づけていたら、その現場を兄嫁に見られて、ドン引きされました。

「※源さん、それやり過ぎ」

※源さんは私のあだ名でおじさんと兄が呼ばせたくなかったので、私はこのあだ名でずっとよばれていました。今では本名の健太を忘れられてしまい、本名なんだったけと、甥っ子が大学に入学する時の身元保証人で私の名前を書く時に名前を聞きに電話してきました。


保育園入園による生活の激変は私にはプラスに作用する題材はあまりなくマイナス面ばかりでした。一方で母にとっては受注先の会社がタイピストの数が足りなくて困っていたところで、母が仕事量を増やしてくれたので大助かりです。別に母から頼んで単価を上げて呉れと行ったことは一度もないみたいなのですが、母の仕事が正確らしくて、評判が良く、客先からの御指名で母にタイプを打って呉れという話があったりもしたそうです。だから単価も指名料ってのがあるのかどうか知りませんが、他のタイピストよりも上だったみたいで、この時代、母も内職で適正に評価されて仕事の上ではかなり順調だったようです。


私は毎日毎日健太郎君のからかい被害に遭い、その度に理不尽に叱られて理不尽に罰を与えられ、弁明をすれば言い訳するなと叱られて、先生という存在が自分にとって味方ではなく敵という認識を定着させるのに十分な時間と経験を与えていました。


一方で、保育園を離れて、他人の家に遊びに行ったりすると、理不尽に自分が叱られる怒られるという事はなく、自分の落ち度なのに友達が親に叱られてしまった利することを目にしていて、友達に悪いことしたなあと思い、自分から素直に、それは私がしたことですなどと、正直に誠実に対応していたら、いい子いい子と評価して呉れました。


保育園という集団生活の場では私は全否定され、普通に友達のうちに遊びに行ったらキチンと適正に評価して呉れる。この社会経験はその後の私に強い影響を与えたのです。


一方で保育園でのストレスから自分よりさらに弱い立場の物への面当てなどもこの頃からやるようになりました。そして自分よりも年下の子、つまり友達の弟妹につらく当たるようなことを保育園に通いだしてからやるようになりました。


健太郎君が自分にやった仕打ちを健太郎君に仕返しできればいいのですが、健太郎君は保育士からは高い評判と信頼を得ていたために私が仕返ししても私が仕返しのために健太郎君に悪さをしたという認識で保育士が対応するため効果がありません。


それで、例えば友達の家に遊びに行って、おもちゃの取り合いなどになった場合に私は一応客なので、私に軍配が上がる事が多かったのです。それで友達と取り合いをすると力関係でたまには殴り合いのけんかに発展して双方痛み分けにはなりますが、友達の弟妹がいれば、殴り合いの喧嘩には至らないし、一応私が客なので、相手の親も強くは当たらないのです。ところがある日、私がいつもそういう悪辣な事をして友達の弟をからかって遊んでいるところを迎えに来た母にまともに目撃されてしまいます。母は友達の母親に問いただし、こんなことは以前にもあったかと聞くと、あったと当然応えられてしまい、母は激怒して、友達の家で私を半殺しにしました。

あまりにやり過ぎな行為に慌てて友達の母親が制止に入る程に踏んづけられました。

腹を蹴飛ばし、ひっくり返ったところを身長174cmの巨体が上から踏んづけるのです。当時は今ほど体重はありませんでしたが、それでも多分体重は50㎏は超えていたでしょう。多少の加減はしていたかもしれませんが、真上から餅つき宜しく杵のように何度も足が振り下ろされて悲鳴を上げる余裕すらありません。声にならない音を出すのがやっとでした。


基本的に母は体罰はあまりしない人でしたが、私の悪行が悪質極まりない時には容赦がありませんでした。

今回は友達の弟という関係性が低く、相手も抵抗しづらい立場にある人間を利用して、自分のストレス発散を目的にからかいやうっぷん晴らしをしていたことが明るみに出たので、言葉で注意するよりも肉体言語にて、体にわからせないと駄目だと瞬間にそう察して、袋叩きにしたのでしょう。

そこに他人がいようがいまいが関係ありません。

私自身も悪いことをしているという自覚があってやっていますから、母が体罰するのは当然と納得していました。


悪いことを悪いと思ってこっちもやっていますから、この時の体罰は仕方ないなあと納得づくでこちらも受けていました。


一方で、うっかりという事もありました。

友達のうちで遊んでいて、無意識に遊びに夢中になり、たまたまおもちゃを持ち帰ってしまったことなどもありました。

ところが、そのおもちゃを翌日友人が遊ぼうとしたらありません。

友人には弟がいて、この弟が疑われて、友人は弟を追求しましたが、弟は知らないといいます。それで友人が昨日一緒に遊んでいた私が持ち帰ったのかもと母親と一緒になっておもちゃを返してほしいといってきました。

私は自分が無意識に持ち帰ったことを知りませんから知らないといって拒絶。

ところが、母はこういうのに聡いですから、昨日着ていた服を洗濯機の中から探し出し、ポケットを確認したら、案の定私ががめていました。

そして、知らないものがなぜここにある。お前のこの手癖が悪いんだろうといって、

友達と友達の母親が見ている前で、右手を掴んでひねり回し、私は悲鳴でのたうち回りました。

「友達が友達のところへ物を返して呉れといってくるのにはよっぽどの確信とよっぽどの事情がない限りありえない。それをお前は自分の記憶だけで、知らないといって言い逃れをして、その場を取り繕うとした。お前は自分が昨日着ていた服を調べあなかった。お前が言い逃れをするためには昨日のお前の行動を記憶の限りたどって本当に持ち帰っていないかどうか徹底的に物証を確認してから反論すべきだ」

まあこんな難しいことは言ってないでしょうが、こんな感じでてめえのケツはてめえでちゃんと拭いたところで相手に反論せい。


相手が言い出しにくいことを言いに来ているのにてめえのケツもキチンと拭いたかどうかもしねえで上っ面だけで反論するんじゃねえ。


というような感じで母にまた肉体言語で指導されました。


それからは友達のうちへ遊びに行った帰りは必ずポケットをまさぐってから帰るようになりました。基本的に人の家に遊びに行ってもおやつや飲み物には手を付けてもそれ以外のものに関しては相手が出してきたものは手にしても自分から相手の家のものに勝手に触れるような事はしなくなりました。当たり前といえば当たり前なのですが、それが3歳くらいの段階で身に着けられるようになったのは幸いでした。


今の親はどうか知りませんが、両親や、私の友達の親などは人がいようと居よまいと関係なしに、そこで注意しないといけないという場面で、結構苛烈に叱る親っていうのは結構いました。


私はそれはとても正しい事だと思うんです。


後から注意してもダメなんです。

本当にその場で注意しないと理解できないような犬猫みたいな子供もいるんです。

秀才や天才の子供はその場で注意しないで、後から叱っても前にしたことを覚えているから叱られたことに理解し納得し、修正できます。

でも凡人や暗愚な子供は犬猫と一緒でその場のその瞬間で叱らないと理解できないんです。


そういえば同じ三歳児くらいの時に、母と何が原因かは忘れたのですが、お互い取っ組み合いの大喧嘩になったことがあります。そして最初はこの親子喧嘩を傍観していた父が、私が弾みで母の体をひっぱたいたか、兎に角、手をあげた瞬間に、いきなり父が私を思い切り蹴り飛ばしたのです。とっさの事で理解不能でした。私はふすまの梁を破ってめり込むほどに蹴り飛ばされ呆然とする私に父は

「たとえ、母親であっても女に手を出すとは」

この一言と一撃で私はそれからどんなに女性にむごい目に遭わされても女性に対して絶対に手を出さないようになりました。


同じ三歳児くらいのときから、多分保育園に行くようになったから朝の準備などで父の出勤時間と被るようになったんでしょう。それで、父がトイレで新聞を読むその姿が格好良く感じ、自分も真似をして新聞を読むようになりました。


最初の頃は漢字の読み方意味などを父に聞けば父も丁寧に答えてくれていたのですが、毎度毎度そのことで時間を費消するのが朝の忙しい時間という事もあり、ある日馬鹿でかい漢字辞典か国語辞典か忘れましたがを渡して呉れました。

そして辞典の引き方を教えてもらい、それからは自分で新聞を読みわからないところは辞典を使って調べるようになり、そのうち新聞を読む、辞典で調べるという行為自体が楽しくなってしまって、保育園にまで新聞と辞典を持ちこむというとてつもないおかしな子供になっていました。


最初は意味もわからず読んでいる格好だけしていた新聞も意味が解って読むようになりました。そして新聞から得た知識などを活用するようになるのです。













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