第2話 前史

私は戸籍上は次男となっていますが、実際には次男か3男になっていました。


それは母が私を産む前に2度失敗しているからです。

母の初産は昭和38年でした。

妊娠3~4か月くらいで流産してしまったために、本人も病院に行って子宮に子供がいないことを医師に確認してもらって初めて気が付くというくらいでした。

母にはどうやら思い当たる節があったらしく、ある日激しい腹痛でトイレにこもっていて自分では便だと思っていたものが多分流産した子供だったんだろうという事でした。当時の事ですからぼっとん便所であり、本人も病院に行くまで流産した事に気づいていないため、汲み取りの中に落として気づかないままでした。

初産は流産しやすい傾向があるみたいで、母もそうでしたが、父の母、つまり祖母も初産は流産しています。父の母の母もまた初産は流産しているようです。


二度目の出産も失敗でした。

それは昭和40年に起こりました。妊娠10か月で出産間近のある日、母はデパートに買い物に行ったそうです。そこで変質者に付きまとわれて、周りにいる誰かに助けを求めればよかったのに、階段を駆け下りて逃げたそうです。これが原因で流産し、産まれた子供は3日は生きていたみたいですが、おぎゃあと泣くこともなく、死んでしまいました。母の様子を心配して急遽祖父が来阪し、出張中で不在だった父に代わって全部の処理を祖父がやって呉れたそうです。

祖父は母の血の道が上がるのを恐れて、結局、母には一度も子を抱かせることも見せることもなく、母がまだ入院中のうちに荼毘にして葬式も済ませてしまいました。

祖父のこの優しさと配慮のおかげで、母は子を亡くしたショックを引きずらずに済んだそうです。

ただ、この時に祖父の姉たちから子供も満足に産めないような嫁なら返してしまえという話しがあったそうで、祖父は自分の姉たちと大喧嘩して、兄が誕生するまでは絶縁していたようです。祖父が本家嫡流であり、父が嫡男だったので、家が絶える事を姉たちは心配していたのでしょう。


三度目の正直で産まれたのが私の兄で

昭和43年2月14日の事でした。

兄の妊娠中はトラブルらしいトラブルが全くなくそして安産でもあったようです。


そして次が私でした。

私が妊娠中に母は妊娠中毒症に苦しめられ、激しい嘔吐と胃痛に悩まされて、こんなに苦しい思いするならもう流産でもしてくれと思うくらい酷かったそうです。

帯状疱疹も発症し、時折原因は不明ながらけいれん発作なども起きるなど、私の妊娠はかなり地獄の苦しみだったようです。それで大量を失い何度か高熱を発するような事もあったそうです。ところが、薬物による治療は母体への影響が不明なため、薬物療法は皮膚薬すらも怖くて使わないでただ我慢してしのいだそうです。

悪逆無道の卑劣漢の誕生を予兆しているかのようでした。


その苦行から一瞬解放されたのが昭和45年7月22日というわけです。


さて、全く両親に似ていない不細工な子供は、泣くタイミングが遅かったものの、特に生まれて直ぐの状態でなにか問題があったわけではないので、母がいうには数日は泊ったかもしれないけど直ぐにまた家に帰りました。


当時の病院は、今と違って、クーラーはついておらず、入院していてもブンブンブンブン扇風機ががなりたてているだけで、夏場は涼しくちっともならなかったのです。

江東病院がそういう状態だったかどうかは今となっては母も覚えていないというし、私も通院では頻繁に利用していたけど入院はしたことがこの出産時だけなのでもちろん内部の事を覚えていません。ただ通院で行くと夏場は非常に熱く、冬場も暖房が効きすぎて気持ち悪かったのだけは憶えています。


さて、すぐに病院から家に母が帰ったのには理由があります。


昭和43年2月に出産した子供が家にいたからです。


まだ2歳児の子供を家に放っておくわけにはいきません。


そしてこの2歳児をある程度ほおっておいても大丈夫なように、父は母が私を出産する日程がある程度建てられるようになると、着々と準備を開始したのです。


それまでは船橋市あかね台の社宅に暮らしていました。

ここだと幼稚園も小学校も中学校も非常に遠く、子供たちは学校に行き出したら大変な目に遭う事になります。また父の通勤も大変でした。

それと、この社宅の周辺は当時は全く建物がなくて、畑が一面に広がり、荒蕪地では乳牛が飼われていたそうです。畑の土は砂土なため、風が吹いたら洗濯物は真っ黒けになっていたようで、快適な場所ではなかったようです。

また最寄りの駅からも離れていて、何でこんな不便極まりない場所に社宅を建てたんだろう馬鹿じゃないかといわれるくらいに評判は悪かったのです。


それをより会社に近い、江東区大島の公団住宅を買って住むことにしました。

船橋よりまだ江東区の方が通勤が楽になるし、丁度この公団のすぐそばに小学校、中学校、幼稚園、保育園がありました。購入した当初は多分知らなかったでしょうが、購入してから5年後、進学校の高校も設置され、住むには非常に良い場所となっていました。


我が家だけではなく、お向かいに住んでいた社宅の住人も私たちが引越しするのに合わせて同じように引越しをし、横浜市戸塚区に転居しました。


さて、住みやすい場所にうまく引越しのタイミングを合わせただけでなく、あたらしい住宅には当時最新鋭の物が沢山取り付けられたのです。


観音開きのカラーテレビ、

夏場に子供が生まれるからとクーラーを購入して設置していました。


兄弟そろってテレビをつけておけばおとなしくそれを見ていたそうです。

テレビは子供たちを鎮める安心装置、

クーラーは室温を一定に出来る環境装置として

病院から退院した私はひょっとしたら病院よりも快適な空間に腰を落ち着ける事が出来たのかもしれません。


しかし、何事にもぬかりなく準備していたから安泰という事はありません。



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