死
時のながれというものは、非常に残酷なものだ。冷酷と言ってもいい。
それらは留まることを知らず、たとえばどれほどの悲劇があったとしてもその記憶を色褪せさせていく。薄れさせていく。
忘れぬよう、褪せぬようにと色濃く刻み込んだとしても、時のながれには逆らえぬ。
長い永い時をかけて、いつか必ず薄れていくだろう。消えていくだろう。
『嗚呼、なんと残酷だろう』
冥府の王、冥王は仰々しく手をひろげてみせた。
『哀れな人の子よ、貴様が哀れなるは子を喪ったことではなく、喪ったその記憶すら薄れていってしまうということだ』
豪奢な玉座に鎮座しながら睥睨するその眼光は、まるで裁きを与えるギロチンのように冷たいもので。
嗚呼、身に過ぎるということはこういうことなのだろうかと理恵子は思考の冷静な部分で考えた。
身体は、重い。
手足が腐ってしまったかのように感覚を失い、もうどこまでが自分の身体なのか、はたまた自分は「生きて」いるのかどうかさえ定かではない。
『私がおそろしいか、人の子よ』
うすらと笑みながら問われたその言葉に、理恵子は力なく頷いた。
おそろしい、という感覚は脳で感じるものではなく、細胞のひとつひとつに至るまで、もはや消えてしまったであろう野生の本能というやつで感じるものなのだろうか。
「己が知り得る全ての領域」からかけはなれた「具現化された死の集合体」、その結晶とも言える冥府の王は、先ほど逢った死神とはまた違うおそろしさ。畏怖、と言うべきだろうか。
「絶対に踏みこんではならない場所」にうっかり足を踏み入れてしまったかのような、底の見えない闇に飲み込まれてしまったかのような感覚。
嗚呼、だけど己の全てを棄ててまで願ったあの想いこそが自分にとっては真実。
「娘を……殺したあいつを、ころしてください、お、ねがいします……」
ふるえる唇とかわききった喉で理恵子は懇願した。
それこそが己の全てと引き換える最大の願い。それさえ叶うならばどれほどの責め苦も恥辱も耐えられるほどの。
『ふむ』
冥王は少しだけ考え込むようにそのしなやかな指で顎先をつまんだ。
迷って、いるようにも見えた。
『生身で此処まで来たのもなにかの縁、というやつか。
……それとも、これも必然であるか』
クク、喉の奥で嗤う冥王。
理恵子にはさっぱり意味がわからなかったが、先ほどからずっと感じていた威圧感は少しだけ和らいだ。
ぱちり、冥王が指をならすと全身を黒いフードで隠した影のようにもみえる人物が数人、理恵子にゆっくりと近づいてきた。
手には、灰色に近い色味の布。
それをばさりと身体にかけられると、世界は一変した。
手足の感覚が戻り、押しつぶされそうな圧力も眩暈も、なにもかもが消えた。
暗かった周囲は晴れ渡り、自分がいる場所がどのようになっているのかも瞳に飛びこんできた。
磨き抜かれた床、高い天井、壁には色とりどりの壁画が描かれており、光に満ちあふれている。
此処が冥府であることをわすれてしまうかのような豪華な空間だった。
『ソレは毒気を遮る効果がある……生身では耐えられぬ冥府の毒を、な』
嘘のように身体が軽い。
思わず立ち上がると、冥王は唇の端を持ち上げた。
『人の子よ、貴様に「真理」を教えてやろう。
理解出来るかどうかは、また別の話だが……』
玉座から降りてきた冥王が、芝居がかった仕草で理恵子に手を差し出す。
透けるほど、というよりもぞっとするほど白い手だった。
理恵子はもう、迷わなかった。
冥王が言っている言葉の意味はまったくわからなかったが、とりあえず目の前にいるこの人物は己の願いを理解してくれたようだ。
ならば、それに縋るしかない。
……もう、それしか、ないから。
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