なにがただしくてなにがまちがっていて、なにがしろくてなにがくろいのだろう。

もう、わからない。

けれど、胸の奥で、身体の奥深くでごうごうと燃える炎がある。それは憎悪の炎。自分の一番大切なものを理不尽に奪われた怒り。奪っていった対象に感じるのは、憎悪しかない。

なぜ、あの子だったのか。なぜ、私の子供なのか。なぜ、なぜ、なぜ。

幾度考えても答えは出ない。答えをくれるはずの相手は、既にご立派な病名をつけられて病院という檻のなかにいる。その檻は強固で、入っていくことも、出ていくことも難しい。だからこそ、を求めた。

嗚呼、たとえ悪魔であってもこの生命が永遠の苦痛に苛まれても、そんなことどうだってよかった。

逢えるなら。もう一度あの子に逢えるなら。

私からあの子を奪っていったなにもかもに復讐できるのなら。

もう、どうだっていい。









『女よ、復讐したいと言ったな?娘を奪った人間に』

「はい」


理恵子の返答に躊躇いはない。いまは、まっすぐ冥王の瞳を見返している。


『……このような言葉を知っているか?』


不意に冥王が問いかける。静かな瞳だった。そのガラスのように澄み切った瞳は、何の感情も浮かんではこない。


『無知は罪』


静かな声。まったく抑揚のない、透明な声だった。

理恵子は少しだけ考え込むように首をひねった。聞いたことがあるかもしれない。もしかしたら、テレビのコメンテーターが言っていたような、そんな曖昧な感覚。


『……ヒトが犯す一番の罪を教えてやろう、女よ』


答えない理恵子に焦れたわけでもなく、淡々と冥王は言葉を紡ぐ。


『それは無知だ。ヒトには想像力という翼を得ているにも関わらず、目に映るもの、耳に響くものしか判断の材料にせぬ。

 己が罪を犯している実感もなくやすやすと呼吸をするように罪を犯す』


冥王の言葉は、淡々としているがゆえに重い。理恵子は改めて痛感した。

そうだ、目の前にいるこの存在こそが魂の導き手であり裁判官、すべての生命を統括するもの。


『そして女よ、貴様はいま罪を犯そうとしている。

 しかし、タナトスに頼まれた以上、悪戯に罪を犯すのを黙認するわけにもいかぬ』

「……はい」


冥王が言っている言葉は、なんとなく理解できた。『罪』というものがよくわからないが、自分以外の誰かを心から憎み、その死を願うことは確かに罪だろう。しかし、無知であるがゆえ、と冥王は言った。


『……貴様の娘は、なぜ殺されたのだと思う?』


冥王の問いかけは予想外のところからきた。理恵子は自分が持っている知識をフル稼働させて思い出す。


「ただ、なんとなく。

 目についたから、だと。

 ……娘を殺した犯人が言ってました」


そう。ただそれだけの理由で殺された私のかわいい娘。

赤いランドセルがかわいかったからだと。目についたからだと。

そんなふざけた理由で、娘は殺された。


『……人間というものは言葉を操る。その言葉で己の意志や感情を表現する。しかし、そのが真実であるか否かは、ただそれだけでは判別できまい』


先程からこの冥王は何を言っているのだろう。理恵子には理解できないことばかりだ。


「私は!」


思わず、声が口唇から飛び出した。


「私は、あの子をあんなふうに死なせるために産んだんじゃない!」


これからもっと成長して大人になって。それなりにいいひとと巡り会って、苦労もするだろうけれど結婚して、できれば子供も産んで、ふつうに、自分がしてきたように。

ふつうに、しあわせになってほしかっただけなのに。

ただそれだけだった。

親であればだれもが願うだろう、わが子のしあわせ。

そのしあわせはいとも簡単に踏みにじられた。踏みにじった相手を―憎まないでいられる理由がない。


『……それはたしかにその通りであろう。

 しかし、であればもっと凄惨であっただろうな』


納得するかのように少し頷いた冥王に、理恵子は苛立つ。全く理解できないからだ。


『女よ、択ぶがいい』


理恵子の苛立ちなど些末な問題であるかのように振る舞う冥王。その整った顔のどこにも感情は浮かんでいない。


『貴様は娘が自死した方がいいと思うか、それとも誰かに一瞬で殺された方がいいと思うか』

「え?」

『屈辱と恥辱と凌辱にまみれた後、絶望し自ら選ぶ死と、痛みも苦しみもなく一瞬で終わる死と。

 のか』

「……さっぱりわかりません」

『言葉とは不便であろう?このように問いかけても貴様には答えるだけの知識も、この世界のことわりも理解しておらぬ』


不意に、冥王が立ち上がった。白い法衣にも似たローブがばさりと揺れる。


『なればこそ、やろう。

 今回の顛末のすべてを。そしてそのうえで改めて貴様に問おう。

 その願いは本物か、と』


冥王の手にはいつの間にか、小さな槌が握られている。

その槌が振りかぶられ、玉座のひじ掛けにたたきつけられる。

カツン、鋭い音がして、そこで理恵子はまた意識を失った。






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