第2話 本当だよ

「ただいまー」

 自動照明の灯る玄関扉を開けて家に入ると、中から香ばしくて甘い香りがただよってきた。

 玄関に転がる荷物を乗り越えながら部屋に入ると、髪を後ろで一つに束ねた母がフライパン片手にこちらを振り返った。

「おかえりなさい」

「今日、酢豚でしょ」

 カバンを床に放り出し、私はフライパンの中身をのぞき込んだ。

 正解だった。

「あったり〜♪」

 母が楽しそうに言った。もともと料理が好きな母は、料理をしているときは大抵機嫌がいい。

 酢豚は割と好きだ。母の鼻歌と一緒に、私の気分もなんとなく明るくなった。

「そう言えば、玄関にあった段ボールとか袋とか、あれなに? 結構邪魔なんだけど」

 私が手袋とマフラーを外しながら言うと、母は酢豚をコロコロと転がしながら答えた。

「ああ、さっきね、向かいのおじさんからお蜜柑みかんたくさんもらったのよ~。どうせ余って腐るのがオチだし、あんた、ちょっと柊二くんの家に行って分けてきてくれない?」

 成長した子ども同士が話さなくなっても、相変わらず親同士の付き合いは続いている。この間も、女子会と称して一緒にご飯を食べに行ったそうだ。

 マフラーを外す私の手が止まった。

 柊の、家……。

「――ああ、うん、いいよ」

 一瞬迷ったものの、私は承諾した。

 やや気が進まない感じもするが、柊二と話すいい機会だ。最近では、用事があるか、近所でばったり出くわしたときくらいしか言葉を交わさなくなっていた。話すチャンスはできるだけ逃したくなかった。

「玄関にある袋、適当に持って行っていいから。よろしくね」

「はーい」

 私はマフラーを巻き直して靴を履いた。手袋は、まあしなくてもいいだろう。どうせ近いし。みかんの袋を手に取ると、私は家を出た。

 日暮れの空は、下の方だけが薄いオレンジ色に染まっていた。雲が影になって黒く浮かび上がる。

 柊二の家までは、自転車で五分、走って七分、歩いて十分。そんなに変わるわけではないが、やはり一番速い自転車を選ぶことにした。

 自転車で走り始めてすぐ、私は手袋を家に置いて来たことを後悔した。二月も下旬で春が近づいているとは言え、まだ外は凍えるように寒い。

(家に行くの久しぶりだな……。あいつ、玄関に出てくるかな?)

 しかし、そんなことを考えていられたのもつかの間、走り出して一分後には、頭の中は「寒い寒い寒い寒い」という思考以外一切受け付けられなくなっていた。

 あっという間に、柊二の家の前に着いた。

 だが、自転車を停め、玄関の前に立ったところで私はふと気づいた。

 帰ってすぐに家を出たことを考えると、今は約六時半前。柊二が部活を終えて、家に帰ってきているかどうか分からないではないか。

(晩ご飯食べてからにすれば良かったぁー!)

 私は頭を抱えて猛烈もうれつに後悔した。

 そのとき、後ろで声がした。

「……お前、何やってんだ?」

 後ろを振り向くと、紺色のマフラーをつけ、肩からエナメルバッグを下げた柊二が怪訝そうな顔をして立っていた。

 私はびっくりして飛び上がった。

「うわっ、しゅう⁉︎ なんでいるの⁉」

「いや、ここ俺んだし。それに、それはこっちのセリフだから」

 柊二は冷静かつ的確に突っ込んだ。ごもっともだ。

 柊二は昔はひょろりとした細身だったが、今はそれに比べると少年らしくしっかりとした体つきになった。数か月ぶりに見る柊二は、前よりも心なしか身長が伸びたように思える。

「久しぶり」

 緊張から、私はややぎこちない声で言った。

「うん、久しぶり。――で、何やってんの? 玄関の前に突っ立ったまま、インターホンを押そうともしないし。動きがすげぇ挙動不審だし。不審者か」

「不審者じゃないわ!」

 私は思わず突っ込んだ。

「っていうか、見てたなら声かけてよ。無駄に悩んじゃったじゃない」

「何に悩むんだ? お前は、ここが俺の家かどうか分からなくなるほど記憶力が落ちたのか?」

 本気で不思議そうな顔をして言う柊二に、「それくらい覚えとるわ!」とまた突っ込んでしまう。こんなアホみたいなやり取りすら、懐かしさと嬉しさを感じてしまうのだから、もう末期だ。

 私はぶっきらぼうに手に持った袋を突き出した。

「はい、みかん。お母さんが、柊にも分けてこいって」

「ああ、ありがと」

 柊二は袋を受け取ると、中をのぞき込んだ。

「へぇー、今回のはおっきいな。デコポンだっけ? これ」

「うん、そうだと思う」

 私は適当に答えた。袋の中身なんて、見てこなかった。

 それより、私は柊二に聞きたいことがあった。やはり、噂は噂。本人に聞くのが一番確実だ。

 私は冷えた手をさすった。

「ねえ、柊――」

「手袋、してこなかったのかよ」

 柊二が聞いた。

 意を決して聞こうとしていた私は、思わず拍子抜けしてしまった。

「えっ? あ、うん。たった五分だし、いらないと思って」

「馬鹿だな」

「自分でもそう思う」

 私は認めた。

 すると、柊二は制服のポケットをごそごそし始めた。そしてカイロを引っ張り出すと、私に投げて寄越した。

「ほら」

 私は慌てて飛んできたカイロを受け取った。

 ポケットに入れっぱなしだったカイロはとても温かく、私は思わずぎゅうっと握りしめた。

(あったかい……!)

「やるよ。手袋の代わりにそいつ握って帰れば、少しはマシだろ」

 柊二がちょっと笑って言った。

「ありがとう」

 私は本気で感謝した。

 それから、無言でカイロに手をこすりつけて温めた。かしゃかしゃ、と音を鳴らして振ってみる。

「……」

 どうしよう。妙に言い出しにくくなってしまった。それに、やっぱり聞きたくないような気もしてきた。噂が本当かどうかは、きっとそのうち分かるだろう。だから、別に今じゃなくても……

「じゃあ、私もうかえ――」

「そういや、なんか言いかけてたっけ?」

 私と柊二の声が重なった。

 私は迷ったが、ついにその質問を口にした。ええい、もう勢いだ!

「うん、たいしたことじゃないんだけどねー、この前、友達から柊に彼女ができたって話を聞いたんだけど、それ本当?」

 私は心の中でホッとひと息ついた。よかった、割と普通の調子で言えた。

 なにか反応があるかと思ったが、柊二は特に変わったふうもなく平然としている。ただ、答えるまでに妙に間があった。

 嘘であればいい。根も葉もない、ただの噂話であればいい。そう思いながら、私は息を詰めて柊二の返事を待った。

 柊二の目が私からそれた。

「……本当だよ」

 その瞬間、私の中に雷が落ちたような衝撃が走った。

 本当、なんだ――

「え、そうなんだ! あっ、もしかしてあの子? 私たまたま見かけたんだけど、バレンタインの日、柊に話しかけてた子いたよね? 告白されたの?」

 心の中とは裏腹に、勝手に言葉が口をついてぺらぺらと出てくる。しかも笑顔までお手の物だ。どうしてだろう?

 柊二は、やっぱり目をそらしたまま答えた。

「……ああ、そうだよ」

 私は驚いたような顔をした。

「へぇーっ。あの子かぁ。いや、見かけたとき、もしかしたら? っては思ったんだよね。サッカー部のマネージャーとか?」

 どうして私は、こんなに平気なフリしてしゃべれるんだろう。ショックなはずなのに。

「……いや、同じ図書委員で、たまたま担当日が被って……そのときに知り合ったって感じかな」

 対して、柊二はなぜか急に口下手になっていた。柊二の性格なら、「彼女できたんだぜ?」と自慢げな顔をしても良さそうなものなのに。

「なるほどねー。いや、それにしても柊に彼女ができるとはねぇ。柊に彼女なんて、一生できないかと思ってたわ。優しい子もいるもんだね」

 口から転がり出るままに、私はぺらぺらとしゃべる。

「失礼な奴だな」

 柊二が少しむっとした。

 私は笑い、自転車に乗りながら言った。

「でもまあ、よかったじゃん。ちゃんと大切にするんだよ。あんたを好きになってくれる人なんて、そうそういないだろうから」

 いや、柊二のことを好きな人ならここにいる。今、目の前にいるのに。

 私は自転車のペダルに足をかけた。

「それじゃ、またね」

「ああ、また」

 私は自転車を発進させた。

 夜風が冷たく体に吹きつける。右の手のひらとハンドルの間にはしっかりとカイロを握りしめており、そこにだけはぬくもりを感じた。

『本当だよ』

 誰かの勘違いでもなんでもなかった。本当に、柊二に彼女ができたんだ。

 涙は出なかった。むしろ乾き切っている。

 ただ、心の奥が深い闇に沈み込むように、ずん、と重かった。ちゃんと思考が働かなかった。

 帰宅してから布団に入るまで、どう過ごしたのかよく覚えていない。晩ご飯に食べた好物の酢豚も、おいしかったのかどうかさえ記憶になかった。

 ベッドの上で天井をぼーっと眺めたまま、その夜、私はなかなか寝付けなかった。

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