十年目の初恋

鈴草 結花

第1話 バレンタインは不運の始まり

「はあぁ⁉ 彼女ぉぉおー⁉」

 座椅子から弾かれたように背中を起こし、私は電話越しに声を上げた。

 なんと、あいつに彼女ができたという。

 ――ありえない。

 空に浮かんでいるのが実は雲じゃなくて綿菓子で、「雨」じゃなく「飴」が降ってくるくらいにはありえない。

 でも、所詮はただの噂話だ。そう、事実がどうかなんて、まだ分からないじゃないか。誰かが勘違いしたのかも。


  ◇ ◇   ◇ ◇


 事の発端はバレンタインデーだった。

 たとえ空から飴が降る事態になろうと、毎年必ずやってくる。それがバレンタインデー。女の子が、好きな男の子に手作りのチョコレートを渡すという、まあ、人によっては甘酸っぱい一日。

 しかしそんな中、私、小倉結衣は、今まで一度もバレンタインデーに苦悩したことがなかった。

 なぜなら、渡す相手はいつも同じだからだ。もはや恒例の儀式のように受け渡しが行われる私たちの間には、緊張やときめきなど一切ない。もう、「ほい、チョコ」みたいな感じ。まったく、乾き切ったものだ。

 お父さんにかって? ただの義理チョコだろうって?

 いやいやこれが、一応本命なんですよ。その人のだけは別に作るし、包装だって毎度あれこれ悩む。だけど、告白はしたことがない。だから、たぶん本人は義理だと思っているでしょうね。

 

 ――まあ、その人のことは後で説明するとして。


 しかし、バレンタインに一度も悩んだことがなかった私も、今年はちょっと気持ちが違った。

 心臓がどくどくと音を立てる。足は、さっさと終わらせてしまおうとちょこまかと廊下を進んだ。

(そう言えば、あいつと話すのっていつぶりだろう……)

 あいつがいる五組のクラスは、まだホームルームが終わっていないようだ。教室の前には、私のほかに小柄な女の子がちょん、と一人立っている。おさげの先がくるりとカーブしていてかわいい。

 やがて、教室の中からがたがたと椅子を引く音がした。皆が声をそろえて帰りのあいさつをする。

 教室のドアが開いた。

「俺、いっちばーん!」

 放課後の解放感にざわめき始めた教室から、帰宅トップバッターの男子生徒が走って飛び出してくる。小学生によくいるやつだ。どうして、男子はいつまでもこうも子どもっぽいのか。

 それから数秒の間をあけて、生徒がぞろぞろと束になって教室から出てきた。あいつを見過ごさないように、私は前後のドアに隈なく目を走らせる。

 そのとき、後方のドアにあいつの姿をとらえた。

 私は小さく咳払いをした。

(大丈夫。チョコを渡すだけ。毎年のことだし、何も変なことじゃない)

 意を決して、私は声をかけようとした。

「しゅ――」

「あっ、あの!」

 私の声に、別の女の子の声が重なった。

 さっき教室の前にいた、おさげの女の子だった。女の子は、どこか緊張した様子であいつの前に立っている。

 少し間を置くと、女の子は一気に言った。

「あの、ちょっと話したいことがあるんだけどいいかな?」

 あいつは背を向けていて、こちらには気づいていない。そして、ちょっと驚いたように言った。

「うん? 別にいいけど……」

 こいつは今日がバレンタインデーだってことに絶対気づいていない。きょとんとした間抜け顔が目に浮かぶ。

(告白……)

 その二文字が頭をよぎった。私はぶんぶんと文字を追い払った。

 いや待て、バレンタインデーに話があるからと言って告白とは限らない。もしかしたら「このゲームの攻略方法を教えてほしいんだけど!」かもしれないし、「数学でどうしても分からないところがあって……」かもしれない。

 ――いや、後者はないか。あいつに勉強を教えるほどの能力はない。

 二人は連れ立って私とは反対の方向へ歩いて行った。突き当りの廊下の角を曲がると、二人の姿は視界から消えた。

(あーあ、行っちゃった………)

 目的を失い、私は廊下に一人立ち尽くした。

 追いかけることもできたが、立ち聞きするのもなんだか悪いような気がする。本当に告白だったらなおさらだ。

 でも、あいつが告白されるなんてことがあるだろうか。ゲームの攻略法を聞く方がよっぽど現実味があるように思う。

 ちょっと気になったが、私はあきらめて帰ることにした。



 ――それから数日後の夜。


「はあぁ⁉ 彼女ぉぉおー⁉」

 座椅子から起き上がった勢いで、ぽろり、と私の手からチョコがこぼれ落ちた。トリュフのかけらが膝をはねて、床のマットを転がる。

 電話の向こうで、友達が『あれっ』と驚いたような声を上げた。

『知らなかったの? 前に、津田くんと幼なじみだって言ってなかったっけ?』

「いや、そうだけど……。最近、あいつとはあんまり話してないし」

 ほろ苦い甘みが口の中に広がる。

 結局、あいつにチョコを渡すことはできなかった。もう一度話しかける勇気が出なかったのだ。私は今、期限間近になったチョコを部屋で一人黙々と処分している。

 あのときの女の子は、やはり告白だったようだ。あの日から、二人は付き合っているのだと言う。

 しかし、あいつに彼女……?

 ――ありえない。

 彼女ができたなんて話は一度も聞いたことがないし、気配すら感じたことがない。二人で恋愛の話をしたこともなかった。だから、突然飛び込んできた「彼女」という言葉とあいつがまったくもって結びつかなかった。

 友達の話が担任の愚痴に移っても、ぐるぐると回る私の頭の中には何の言葉も入ってこなかった。 



 私――小倉結衣と、あいつ、津田柊二が出会ったのは、私たちがまだ幼稚園の頃だった。

 年長でクラスが同じになった私たちは、気がつけば意気投合していた。家も近所だったため、私たちは毎日のように一緒に遊んだ。

 もちろん小学校も一緒だ。通学路では冗談を言い合って爆笑するのがお決まり。よく互いの家にも行って遊んだ。私たちの関係はずっと変わらないと思っていた。そう、この頃までは。

 いつからか、互いに人前で話すことを避けるようになっていた。

 子どもの世界では、男女の仲がいいのは異質なことなのだ。どうしても、勘違いやからかいの対象になりやすい。

 出会ってから十年。

 細くなっていく糸を繋ぎ止めるように、私は柊二と同じ高校に進学した。私は昔から柊二のことが好きだ。しかし心とは裏腹に、私たちの距離はどんどん離れていく。一緒に遊んだり、長話をして爆笑したりすることはもうなく、今では会話をすることすらほとんどなくなっていた。

 毎年渡しているチョコも、私たちをぎりぎり繋ぎ止めているものの一つだった。しかし、今年は渡せなかった。こんなことは初めてだ。


(彼女、かぁ……)

 座椅子からずり落ちる身体と一緒に、私の心は深く沈み込むばかりだった。



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