第5話 放課後の教室で
「あっれー? おっかしいな、消しゴム家に忘れちゃったかな。ゆいちゃん貸して〜」
慣れた仕草でひょいひょい、と手を出してくるナルに、私はあきれ返ったように言った。
「またぁ⁉ シャーペンの上とかに、ちっちゃい消しゴムついてるでしょ。それで消しなよ」
「俺、消しゴムついてるシャーペンもってな〜い」
「じゃあ間違えるな」
「もー、冷たいなぁ」
ナルはへらへらと笑った。
最初はイラッとさせられっ放しだった私も、いつの間にか随分とその存在に慣れてしまった。今では、ナルの適当なあしらい方までお手の物だ。
ナルは驚くほど早くクラスに溶け込んでいた。すでに他クラスの友達も作り、何人かの女の子とはデートにも出かけているとか。まったく、ほめていいのやら、あきれていいのやら分からない。
「ナル、なんなら俺の貸してやろっか?」
ナルの前の席に座っている男子生徒が、くるりと後ろを振り返って言った。
「おーっ、サンキューなマッコウ! お前、実はいいやつだったんだな」
「実はってなんだよ! 俺はどっからどう見てもすげ〜いいやつだぞ。あとその呼び方やめろ」
ナルは女子に対しては下の名前で、男子に対してはオリジナルのニックネームをつけて呼ぶくせがある。独特感あふれるニックネームは、好評だったり不評だったり色々だ。
ちなみに、マッコウの本名は菅野真だ。
「ほんと、大成くんの百倍はいいやつだよ。菅野くん、そいつに消しゴム貸さない方がいいよ。半分になって返ってくるから」
私は机の上の教科書を、次の授業のものと入れ替えながら言った。
筆箱から消しゴムを取り出し、再び後ろを振り返った菅野は「げっ、マジで?」と消しゴムを持った手を引っ込めた。
「もー、ナルって呼んでって言ってんじゃーん」
隣の席でナルが笑いながら私に向かって言う。イラッときた私は自分の消しゴムをナルに投げつけた。消しゴムは見事に頬に命中し、「いてっ」とナルが笑った顔のままうめいた。
教室の窓際で友達とだべっていた柊二の視界の端に、ふと何か小さくて白いものが走った。
見ると、教室の前方の席で結衣が口を酸っぱくしてナルに何か言っていた。全部は聞き取れないが、「人に物借りすぎ」や「どうやったら半分になんのよ」という言葉が端々に聞こえてくる。
「あーあ、また小倉さん怒ってるよ。あいつと隣の席だと大変だねぇー」
友達の一人が他人事に言った。
「あいつら、最近仲いいよな。前からあんなだっけ?」
教室の中でもひときわ騒がしいその席を眺めながら柊二が言うと、「さあ」と友達は興味なさそうに答えた。
「好きなんじゃね?」
不用意に投げかけられたセリフに、ぎくり、と柊二が固まった。
不意に、その場から一歩も動けなくなる。
「――は」
ようやく一つ言葉を落とすも、友達はすでに他のやつと別の話題に移っていた。柊二は行き場をなくしたように、その場に突っ立っていた。
◇ ◇ ◇ ◇
七月になり、一学期も終わりに近づいていた。
誰もいない放課後の教室は、ほんのりと茜色の夕日に染まっていた。窓の外で、カナカナカナ……とひぐらしが物悲しげに鳴く。
道具をすべて鞄にしまい終えた私は、カチャリ、と
疑問に思いつつ鞄に手をかけた時、がらり、と教室のドアが開いた。
「セーフ! よかった、まだ開いて――って、あれ? 小倉さんじゃん。まだ帰ってなかったの?」
ぶらぶらと肩の上で鞄をゆらし、ナルが隣の席までやってきた。くせっ毛が夕日に映えて、黄金色に染まっている。
私は戸惑ったような顔をした。
「え、うん。ちょっと職員室で用事済ませてて――。……っていうか、呼び方変えたの?」
他の女子に対してもそうだが、ナルはずっと私のことを「ゆいちゃん」と下の名前で呼んでいた。やめるように言っても聞かないので、もうだいぶ前にあきらめていたのだが……
「うん。津田っちに止められちゃって」
ナルがけろりと言った。
私は驚いてきょとん、とした。
「え、柊に?」
「そう。『あいつを下の名前で呼んでいいのは俺だけだーっ!』って」
ナルはわざとらしく声を低くして言った。柊二の声真似のつもりなのだろうが、まったく似ていない。
私はぽかん、と口を開けて固まった。
「……マジで?」
柊二がそんなことを言うだろうか。柊二は長らく私のことを名前で呼んでいない。だが、もし本当にそう言ったのなら、少し嬉しいような気もした。
――そのとき、ぷっ、とナルの表情が変わった。
呆然とする私の前で、ナルは大口を開けて笑い出した。
「なーんてな! じょーだんじょーだんっ。なに真顔になってんの」
私の身体の底から、ふつふつと今までで最高ランクの怒りが湧き上がってきた。
やっぱりこいつ、一回殴ってもいいだろうか。
「だけど、止められたのは本当だよ。だからそう怒んなって」
ナルはごそごそと机の中を探ると、教科書やノートを一つ二つ鞄の中に入れた。案の定、明日提出の課題を学校に置きっぱなしだったようだ。
こいつの『本当』ほど当てにならないものはない。一つため息をつくと、私は鞄を肩にかけて帰ろうとした。
「小倉さんさ、津田っちのこと好きでしょ」
ナルが言った。
私は思わず足を止めた。ついでに息も一緒に止まる。
「え――」
また新手の冗談かと思って振り返ったが、ナルの表情は思いがけず真面目なものだった。あまりに衝撃的な発言と、ナルの珍しい表情に言葉がのどを通らなくなる。
「見てりゃ分かるって。あんた、しょっ中あいつのこと目で追ってんだもん。隣人の観察力なめんなよ」
ナルの目が真っ直ぐに私を見つめる。
冗談じゃ、ない。
そのことが分かると、するり、と肩から鞄が滑り落ちた。片手を机の端につき、私はずるずると床にしゃがみ込んだ。
「うそでしょ……」
私は自分の好きな人を誰にも話したことがなかった。中学から一緒のまーやんですら知らない。それだけに、初めて他人に知られてしまったことの打撃は大きかった。
私はうめいた。
「なんで、よりによってあんたなのよ……」
「ひどい言い草だなぁ。むしろ、俺でよかったと思うけど。俺、案外口固いんだぜ?」
ナルは、いかにも軽そうな口でひょうひょうと言った。私は半眼でナルを見つめた。
「それで? 最近妙に落ち込んでるのは、それだけが理由じゃないだろ。あいつに彼女がいるのは、今に始まったことじゃないし」
私は黙った。
いつの間にか、ひぐらしの声が鳴きやんでいる。静けさに包まれた教室の中、聞こえるのは二人のかすかな呼吸の音だけだ。
「――もうすぐ、夏祭りがあるの」
膝を抱えた腕の中で、私はぽつりとつぶやいた。
「いつもは柊と行ってた。でも、今年は一緒に行けない」
近くの川岸で行われる、地元の恒例の夏祭り。あまり会話をしなくなってからも、この夏祭りだけは毎年必ず一緒に行っていた。しかし、今年はきっと柊二は彼女と行くはずだ。
また一つ、柊二と繋がった糸が切れていく。
暗闇に顔をうずめ、私はきゅっと両腕を握りしめた。
「ふーん……じゃあ、俺と行く?」
降ってきた言葉を理解するのに、少々時間がかかった。
一呼吸遅れて言葉が頭の中で意味を成すと、私は「え」と気の抜けたような声を出して顔を上げた。
「一緒に行けないのが寂しいんだろ? だったら、他のやつと行って、津田っちに負けないくらい楽しんじゃえばいいじゃん。少なくとも、当日家にこもってうじうじするよりはマシだと思うけど」
ナルの端正な顔が夕日に浮かび上がる。普段はふざけていて忘れがちだが、ナルの顔は結構きれいなのだ。やわらかに微笑んだナルは、いつもとはまるで別人だった。
「だ、だからって、なんであんたと行かなきゃならないのよ。だいたい、どうせもういろんな女子から誘われてるんじゃないの?」
私はいくらかうろたえながら言った。
「いやー、それが、今12人の子から誘われちゃっててさ。人数絞れなくて困ってるんだよね。俺ってばモテモテで☆」
ナルはふぁさ、と前髪をかき上げて、憂いに満ちた表情をしてみせる。
いつもならイラッとするところだが、今はそのナルらしい仕草になぜか笑ってしまう。
私はひとしきり笑ったあと言った。
「いいわよ。一緒に行ってあげる」
「そうこなくっちゃ。――じゃあ、俺そろそろ帰るわ。小倉さんはこれから部活だろ? 弦楽部だっけ」
「うん」
「そうか、頑張れよ」
今日のナルは妙に優しい。普段はふざけた言動に隠れているだけで、実は結構優しい人なのかもしれない、と私は思った。
鞄を肩に引っかけて教室を出ようとしたナルは、ドアの手前で足を止めた。
「――ああそれと、俺思うんだけど、」
ナルの顔がちらりとこちらを振り返った。
「自分の気持ちを伝える前にあきらめるのは、ちょっと早いと思うぜ」
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