80gの幸せ

獺野志代

80gの幸せ

 これは、私と私に生き甲斐をくれた人とのお話です。


 私は誰も彼もに疎まれ続けて生きてきました。

私は他とは違ってとても賢かったので、みんなが妬んでくるのです。

でも、私は賢いので、そんな馬鹿な他にいくら苛まれようが忌み嫌われようが大したことはありません。

 しかし、それは精神的苦痛の話です。

私は賢いが故に、非常にお淑やかな暮らしをしてきたもので、運動という類のものはあまりしてきませんでした。(だからお腹は丸々としてるんでしょうね。)

だから、彼らが集中的に私に飛びかかった時はどうなるかと思いました。

 全身の至る所に傷ができて、私はよろよろと辺りを彷徨っていました。


「傷」

 

痛いなあ。

私はそれを今回初めて味わったのです。

物事を知ることはとても大事だけれど、自分が苦しんでまで得たいものなんてありませんね。


 気がつくと、パラパラと冷たいものを体は受け取り始めました。

私は体が濡れることをひどく嫌います。

急いで近くの公園の屋根付きベンチに駆け込みました。

 こうも嫌なことが続くと、気が重くなるし、水をすった体も重くなるなあ。

我ながらうまいことを言いました。


 しばらくすると、何やら物音が聞こえてきました。

もうすっかり辺りは真っ暗。

物音はパラパラという音に占められているはずなのに。

私の耳を浸す物音は、次第に私の元へ近づいてくるようでした。

息を殺して様子をうかがうと、一人の男性が、私が占領していたベンチに走り込んできました。

 この時の私はさぞかし怯えていたでしょう。

だって、散々にいたぶられた直後だったので、私以外の全てが怖かったのです。

それでも私がその場所から離れなかったのは、もう抵抗するほどの力が残されてはいなかったからでしょう。

男性は、そんな私の葛藤に目もくれず、躊躇なく私の隣に腰をかけてきました。

よく見ていると、あら、私には気づいてないのかもしれません。

一度、二度、口から重たい空気を吐き出した後に、胸ポケットから私より小さな箱を取り出して、そこから更に小さい棒を取り出しました。

男性はその棒を指に挟めて口に咥え始めました。

 食べ物かしら?お腹がペコペコなのでぜひ私にも分けてくれないかしら。

そう思ってしまいます。

レディーとして、はしたないですね。

その棒を口に咥えたと思ったら、また口から外し、軽く濁った空気を吐きました。

なんだ。食べ物じゃないのね。

途端に噎せ返るような臭いが鼻の先をツンと突き、つい私はケホケホと咳き込んでしまいます。

 それでやっと私に気づいた男性はあたふたとわかりやすい反応を示しました。

できれば気づかずにどこかへ行ってしまえばよかったのに、と思ったのはもう昔の話です。

「わわっ、ごめんね。臭かったよね。今仕舞うよ。」

そう言うと、新たに取り出した小さな袋みたいなものにトントンと指で軽く棒を叩き、仕舞い込んでしまいました。


あら、やめちゃうのね。

男性に気を取られていたせいか、パラパラパラ…というリズミカルな音が、いつの間にかザーザー…という強い音に変化していました。

まあ、どうということもありません。

今日は少し肌寒いけれど、ここで明るくなるのを待ちましょう。

そう決意して、再び男性の方を見やると、男性の目と合ってしまい、ふっと目を逸らしてしまいました。(何故でしょう?)

男性はそれ以降も私に目を向けていたらしく、何かに気づいた様子で何かを言い始めました。

「君、全身傷だらけじゃないか。だからこんなところに寝そべっていたんだね。僕の家においでよ。手当してあげるから。」


突然身体がふわりと浮いて、まるで風でなびくススキのように無抵抗なまま身体は運ばれていきます。

どうにか抵抗しようにも、身体が言うことを聞きません。

 全身が痛い、という意味でも。

 このままでいたい、という意味でも。


変わらずザーザーと音が立つ中、加えてパシャパシャと跳ねるような音を聞く私は上下左右にユラユラと揺さぶられながら宙を浮いた感覚のままいました。

どうやら男性は私を抱きかかえながら走っているようでした。

どうしてゆっくり歩かないのかしら。走ると疲れてしまうのに。

私を運ぶ男性に対して、身体をぶるぶると震わせながらそう不思議に思います。

早く暖かいところに行きたいわ。

 そう考えているうちに、私は眠ってしまいました。

 * * * * * * * * * * *

 パッ。

今まで暗い場所にずっといたので、突然明るくなられるといくら賢い私でも、考える間もなくその明るさに驚かされます。

きゅっと瞳が小さくなっていくようでした。

ふわっ、と欠伸をかますと、先程とは違う風景、先程とは違う温度、先程とは違うこもったザーザー音に気がつきました。

 ここはどこかしら?こんなところ、来たことがないわ。

先程と比べると少し暖かいその場所は、とても静かで私が求めていたのはこういう場所、と言わんばかりの場所でした。

少しあちこち散らかっているのを除けば、秘境みたいなものです。

こんな場所を知っているだなんて、もしかしたら私よりも悧巧な人なのかもしれません。

自分より上だとは認めたくないものですけれど。

 

自分勝手に不甲斐なさを感じていると、何やら美味しそうな匂いが私の嗅覚を刺激します。

男性が壁の向こうから現れたと思うと、匂いの根源の詰まったお皿と、見たことのない白い水のようなものを私の目の前にコトリと置いて、

「お食べ。」

と言って、傍に腰をかけました。

レディーの嗜みとしては、清楚に振る舞いたいところなのですが、私はあまりにもお腹が空いていたので、差し出されたそれが、何なのかも明晰ではないのに躊躇なくガツガツと口へ胃へ流し込みました。


「美味しい」


こんなものは食べたことがないと言わんばかりの感想をもって、私は食べ進めます。

ちらっと男性の方に目をやると、頬を緩ませてニコニコと私に微笑みかけているようでした。

私は照れ隠しも兼ねて、それには気づかなかったふりをして、白い水のようなものを飲み進めました。

 どちらの皿も空になる頃には、私のお腹はまるでボールでも詰まっているのではないかと思ってしまうくらいに膨れていました。

言いようもない充足感に溢れていました。

男性が再びこちらに目をやると驚いたようでした。

「わっ、もうカラになってる。明日からはもう少し増やした方がいいのかなあ。よくわからないな。」

皿がふっと持って行かれそうになると、ついがしっと男性の足を掴んでしまいましたが、本当に不本意です。

故意ではないのです。

なんとなく、自分のモノが取られてしまうというのは少しだけ寂しく思ってしまうというだけのことです。

「あ、やっぱり足りなかったのかな。もう少しあげようか。」

私に掴まれた足を柔らかく私から避け、壁の向こうに消えていくと、また先程と同じものが少し皿に盛られて私の前に置かれました。

 私はしまったと思いました。

私の不本意の行動が、その通りに男性に判断させ、こいつは手始めに用意した量では満足のできない卑しいやつだと理解されてしまったと思ったからです。

下手したらこの美味しい食事はこれで最後かもしれません。

賢い私でさえ、そんな卑しいやつになにかあげたいと思わないのですから、尚更賢いこの男性がそうしないとは思えません。

膨れたお腹をその不安で軽くして、不本意ながらに用意されたその物をパクパクと口に運び、完食に至りました。

 * * * * * * * * * * *

 私はなかなか寝つくことが出来ないままでした。

今まで感じたことのないふかふかとした柔らかさを味わっているのにも関わらず、安らかに眠ることが出来ないのです。

どこまで傲慢なのでしょうか。

レディーとして不合格です。

明日からは、もっと清楚かつ純粋な態度で男性に振舞おうと決意します。

 いや、その前に、明日もここにいさせてもらえるのでしょうか。

賢い私だったら、そんなことはしません。基本的に生き物は自分が元いた場所が、自分が選んだ場所なのだから、一番安息していられる場所だと捉えるからです。

私の場合、決してあそこが良い場所とは思えませんし、良い場所、といったら今いる場所が一番相応しいのですが、大体そういう場所に連れ戻すのが相応なのだと思います。

男性は私よりも賢いので、きっと明日には私はここをお暇することになるでしょう。

……結局、そうなるのね。

私がどんなに良い態度をしていようと、結局明日にはあの冷たく苛辣な元々の私の日常に戻るのです。

 でも、幸せというのは人生でほんの1回で十分なのだろう、と私は思います。

だって、長く続く幸せだと、終わりが寂しく悲しいものになってしまうから。

そんな風に考えているうちに、私はすやすやと寝息を立てて眠り始めてしまいました。

先程は不安で眠れないと言いましたが、それも一周まわってしまったのでしょうね。

 今日はたくさん寝るなぁ。

と思いました。


 空が明るくなって大分経った頃、またも私の嗅覚を刺激する、良い匂いをキャッチしました。

つくづく卑しいやつだと自身を叱りつけ、さも冷静に男性に近づいていきました。

男性は私に気づくと、にっこりと微笑みかけてきました。

「おはよう。」

 男性は、自分の食べるものと、私の食べるもの、どちらも用意して腰をかけます。

私も隣に腰をかけます。

「いただきます。」

そう手を合わせてから、男性は男性の食事を始めました。

 あら、この人はこの人で、ガツガツと卑しく食べるのね。

 なんて他人のことも言えないくせに、私より賢い男性のそういうところを見つけて、してやったりな気持ちに浸ります。

水のようなものは昨日と用意されたもの並びに白いままですが、食べるものは少し違うようでした。

それに、なんだか昨日最初に用意されたものより多いかもしれません。

昨日よりは清楚に、颯然とした振る舞いでモグモグと食事に至ります。

それでも気づくと目の前にあったものは無くなってしまっていました。

 私は食いしん坊なのね。

そう自分に言い聞かせ、ちょっとだけ重たい空気を口から吐き出します。

男性は依然として左手に何かを弄りながら右手で器具を用いて食事に至っているようでした。

あたかも同時に食べ終わったのを示唆するために、割とゆっくりめに飲み物の方は飲み進めていきました。


「ごちそうさまでした。」

 そう聞こえてきたのは、私が白い水のようなものを飲み干し終えたのと同時に、男性が自分の食事を終えた時でした。

はぁー、と軽く長い息を気持ちよさそうに吐きながら、彼はその場に倒れ込みました。

私が、何してるのかしら。と怪訝そうに見つめていると、徐に身体を起こして、私と向かい合う形で姿勢を正しました。

あ、ついに元の場所に連れていかれるのね。

飲み込んだ幸せが込み上がってきそうなくらいの緊張が私を襲います。

どうせこうなることだったのだから、と自身を慰めつつ男性の行動を待ちます。

男性は言いました。


「君は今日からこの家では『まゆ』と名付けることにしよう。そして、俺は『航平』。よろしくね。」


『航平』と名乗る男性は、『まゆ』と名付けた私を抱きかかえました。


航平さん、航平さん、航平さん。

 かろうじて、航平さんが『航平』であること、私が『まゆ』であることを認識します。


まゆ、まゆ、まゆ。

 どうやら、私が航平さんを賢いと思ったのはとんだ勘違いだったみたいです。

相手に自分の名前をプレゼンする、そして相手に相手の名前をプレゼントする。

そんなの、これから手放す相手には絶対にしないことです。

 また、うまいことが言えました。

つまり、航平さんは私と共生する道を選んだみたいなのです。

自分より賢いと思っていた航平さんが実際には、賢くなかったという事実よりも、結論的に選び抜いた私と一緒に生活というのに喜びを隠せませんでした。


 その日、私は航平さんとお散歩に出かけました。

黒なのか青なのかわからない色の、ピッチリとした服を着た航平さんは、色々な建物に入っては、出てくる。そういうのを繰り返しました。

時に笑顔、時に悲しそうな顔をして。

お散歩の割には、よく止まってることが多いなあ。

 上を見上げると、次第に青かった場所がオレンジ色に変わっていくあたりで、航平さんは私に提案をします。

「ちょっと、公園にでも寄ろうか。」

 航平さんはベンチに座って一息つきながら、昨日の棒を口に咥えました。

隣にいる私は、その臭いがあまり好きではなかったので、ちょっとだけ離れた場所で座っていました。

 ふと見上げると、私を痛めつけていた輩どもが目に入りました。

どうやら彼らも私には気づいていて、その上で近くにいる航平さんに驚いているようでした。

お前のような嫌われ者と一緒に過ごすようなやつがいたのか、と言わんばかりの目を向けてくるので、少し満足気な顔を作って彼らを挑発してみます。

「あれ、まゆの友達かい?俺はいいから、遊んできなよ。」

 私はてこでも彼らの元へは行きませんでした。

彼らと同じ空気を吸うぐらいなら、航平さんが小さな棒を口から離した時に吐き出す黒い息の塊の臭いを感じていた方がまだ心地がいいのです。

彼らに対して、ぷいっとあからさまに背を向ける私に、航平さんはなんとなく私の意図を察してくれたようでした。

「もう、日も暮れるし、帰ろうか。まゆ。」

そう言って航平さんは、重たい腰を持ち上げて、一度私に目を配ってから、1歩1歩と歩を進めます。

私もそれを見て、航平さんについて行きます。

依然、唖然としている彼らに嘲笑の如く一瞥をして、その場を去りました。

 帰路を辿る最中、航平さんは色々と呟いていました。

「……そうか、昨日の目立った全身の傷は彼らに傷つけられたんだね。」

「今日は何を作ろうかなあ。…やっぱり毎日違う味を楽しめた方がいいよね。」

「……牛乳きれてなかったかな。…お気に入りみたいだし、消耗が激しいや。」

 * * * * * * * * * * *

 また、秘境及び、私たちの塒に辿り着くと、私はすぐにふかふかの場所で落ち着きました。

もう気を遣わなくていいのだろうと、少し気を緩めることにしたのです。(食事だけは欠かさず気は緩めません。)

昨日までは不安とか、自分の卑俗さに対する劣等とかで、安心して床につくことが出来なかったので、着いてそうそうに、うとうとして眠りこけてしまいました。

 閉じていく視界の中、やっぱり航平さんは微笑んでいました。


 毎日似たり寄ったりな日常を、同じように幸せを噛み締めていくうちに、毎日航平さんが歩き回っているのは、お仕事の一貫であるということを学習しました。

時々、寄る建物に入れさせてもらうようになると、航平さんではないたくさんの誰かによく撫でられるようになりました。

感触は色々ではありますが、そんなに嫌にはなりませんでした。


 航平さんの色々な顔、色々な匂い、色々な仕草、毎日一緒にいるのに、私は全く充足感が満ち溢れることがありませんでした。

いや、むしろ毎日満ち溢れて、零れていくので、限界を知らないようにも思えます。

それくらい毎日が幸せでした。

食べるものも美味しい。

寝るところも柔らかい。

いつも優しく接してもらえるこの感覚は、かつて私が忘れていたものなのだろうと感慨深く思います。

「優しさ」

 これは、賢い私にはないものでした。

私は、航平さんは私より賢い人だと思っていましたが、違うとも思いました。

航平さんは、賢いのではなく、優しかったのです。

ずっと、何もかもが。

賢いという性質を上回るのが、優しいという振る舞いだということに気づいたのも、ココ最近のことです。

私は航平さんと、何時間も、何日も、何ヶ月も、日々を共にして、気づいたら3年くらい一緒にいました。

 * * * * * * * * * * *

「あら?まゆちゃん少し見ない間に大きくなったんじゃない?」

 たまに航平さんのところに来る、お隣に住む方が私を見て、航平さんに尋ねます。

私は航平さんが大好きなので、異性の方が航平さんに歩み寄るのをものすごく嫌います。

これでは淑女になるのはほど遠そうですが、この際、そんなことはもうどうでもいいように思えてきました。

「……ええ。もう5歳になるんですよ。最初はあんなに小さかったのに、それにこいつ、食いしん坊ですから。」

「だから、こんなに大きく丸っこくなっちゃったのねえ。毎日どれくらい食べ物を与えているの?」

「…そうですね、基本的に朝と夜80gずつくらいですかね?」

「……え、それって少し多いんじゃない?だからこんなに肥えちゃうのよ。控えてあげなさい。」

「…やっぱりそうですよね。でも、こいつそれくらい与えないと満足じゃないみたいで、やっぱり幸せそうにしていた方が俺としては嬉しいですし。」

「いやいや、甘やかしすぎよー。」

 ふと、あっはっは。と笑うお隣さん。

私には何の会話をしてるのかちっともわかりません。

…それに、楽しそうにしているのをあまり見たくはありません。

 少しして、お隣さんがこの場所からいなくなると、何やら外がオレンジ色の頃から、黒と青の服を着始めて、色々と準備を始めました。

もう、あの頃とは違って服はよれよれのようでした。

まゆ。と呼ぶ声の主に目を向けると、ダンっと莫大な量の食べ物が目の前に差し出されました。

これにはたまらず私も目を皿にしてしまいました。

さすがに1回じゃ食べきることはできないわ、と思いながらも躊躇なくガツガツと食べ始めます。

 すると、航平さんはこう言いました。

「これから出張に行ってくるから、1週間くらいで帰ってくるけど、いい子にしているんだよ。」

 外が真っ黒に染まった頃、私は目を覚ましました。

お腹いっぱいになってたまらず寝てしまったのでしょう。

とてもはしたない格好をしていました。

空腹と満腹をリズミカルに楽しめるなこれは。なんて思いながら、あれだけ食べたのにまだまだ山のようにある目の前の幸福に、私はニヤニヤとしてしまっているように思いました。

小一時間が経過して、私は異常に気づきます。


航平さんがいません。


 基本的に、外が真っ暗になる頃には航平さんは私のいるこの塒に帰ってきているはずなのです。

どうしたのかしら。

 どうしようもない不安感に襲われつつも、外を眺めているうちに眠気が私を眠りに誘い込んでいきました。

 * * * * * * * * * * *

 航平さんのいない初めての夜明け。

少ししょんぼりとした様子で私は目を覚まします。

 お腹が空いていたので、私はとりあえず食事に勤しもうと思いました。

私は航平さんの用意してくれる食べ物が大好きでした。

毎日毎日バリエーションも違って、航平さんの優しさに直に触れているようで、とても大好きです。

それに、美味しいですし。

美味しいのですが、航平さんは一つ隠し味を忘れていったようです。

 航平さんの作ってくれる食べ物の隠し味、それは私が食べている横で私に対して微笑みかけてくるあの航平さんの笑顔です。

今はそれがないので、美味しいはずの食事も、あまり美味しく感じることができません。

つくづく傲慢なやつね。と自身を戒めます。

 

 私は自分の寝床でほとんどの日を過ごしました。

毎日毎日、寝ては食べて、食べては寝ての繰り返し。

そして、ほとんどの時間、航平さん早く帰ってこないかしら。と物思いに耽るのです。

 食べ物の入った皿がとうとうからになってしまいました。

昨日の夜、ヤケになって一定量の2倍くらい食べてしまったからでしょうか。

これから航平さんがいない間、私はどうしたらよいのでしょう。

そこで、一つの結論に至ります。

 

 もしかして、航平さんはもう私に興味がなくなったのでは?

私は毎日毎日同じ日常に幸せを感じてきました。

だから、毎日毎日変わらず過ごしてきたのです。

しかし、航平さんはその毎日に刺激を欲しがっていたとしたら?

そう思い返すと、私との日々はとても退屈なように思えます。

自分で出した結論に、自分勝手に嘆きます。


航平さん、航平さん、航平さん。


 ちょっと辺りを探してみようかしら。

そう考えて、するりと塒から私は抜けていきました。

「いい子にしているんだよ。」

そんな忠告、元より私に届いてはいないのです。

 航平さんのお仕事中に何度か会ったような人達が私は何度も話しかけられ、撫でられます。

今回ばかりはその撫でられた温かみが、その感触が、とても不快に思えて、失礼ながらに私は私を可愛がってくれる人々から一目散に逃げ出しました。

子供は面白がって私を追いかけますが、しばらくすると追手は誰もいなくなりました。

 ハァハァと息を切らしてとぼとぼと道を歩いていました。

そんなことをしているうちに、私はお腹が空いていたことに気が付きました。

しかし、塒に帰ったところで美味しい食べ物はもう置いてありません。

仕方なく、航平さんと出会う前の食事に至ろうとしました。

今考えると、以前の食事というのは全く栄養価も期待出来なそうな、臭い食事はかりだったなぁ。と思い返します。

出来ることなら食べたくありません。


「まゆ?何やってるんだこんなところで。」

すると、聞き覚えのある声に私は取れてしまうのではないかという勢いで首を回しました。


航平さん!


「いい子にしてろって言ったろ?ほら、おいで。」

 航平さんが手を差し伸べてくれたので、徐に私は航平さんに抱きつきます。

自分が相当汚れているということも忘れて。

そんな私に気づいているものの、抱き寄せてくれる航平さんに身を委ねて。

 塒に着くと、私は航平さんとシャワーを浴びました。

あまり得意ではないのですが、今日ばかりはそういう気分でした。

 シャワーの後は、久々の食事にまた、幸せを浮かべていました。

隠し味のある、いつも通りの幸せの時間。

また、私は航平さんと出会えたことにどうしようもなく嬉しくって、終始航平さんにベタベタとくっついていました。

航平さんも、「こらこら」とは言うものの、あられもない顔をしているのがたまらなく嬉しいのは、言うまでもありません。

 今日はいつものふかふかでは寝ないで、航平さんと一緒の場所に寝ることにしました。

少しいつもと違って、固めではありますが、言ったでしょう?終始くっついていたのです。

そうして、今日も終わりを告げようとしていました。

 * * * * * * * * * * *

 またいつも通りの日常が始まったのですが、しばらくすると、航平さんの帰りが少しずつ遅くなるようになりました。

私との散歩のあと、また少し塒を離れるのですが、大体すぐに戻ってくるのです。

でも、ここ最近は、夜が明けてから、ということも多々あります。

この前ほどの長い期間ではありませんが、やはり私は寂しさを募らせていました。

 * * * * * * * * * * *

 ある日の外の明るくなった頃、扉が開いて、私の大好きな航平さんが帰ってきました。

 

航平さん、おかえりなさい。


 しかし、そこにいたのは航平さんなのですが、航平さんのようには思えませんでした。

持ち前の笑顔が消え、クマも多く、ゲッソリとした顔に変わっていました。

最初、見間違えかと思ってもう一度見るも、やはり変化はありません。

か細い声で静かに倒れ込んだ航平さんは、私に呟きます。

「まゆ。もう疲れちゃったよ。こんなに疲れるくらいなら、最初からまゆを心配させないで一緒にいればよかったんだ。まゆ。今日はお前と俺が出会った日から4年目の記念日だ。盛大に祝おうじゃないか。」

私がつんつんと顔をつつきながら心配そうにしていると、途端に航平さんは立ち上がり、いつものように食事の用意を始めました。

 私は不安ではありますが、少し様子を見ようと、いつものように寝床で食べ物を待ち望みました。

今日は何を作ってくれるのかしら?

コトン、と私の定位置に食事がよせられて、私もふらりと匂いにつられてそこへ向かいます。

今日は手がこんでるわね。

と淡々とした感想を持ちながら、食事を始めました。

もちろん。隠し味も欠かせません。

航平さんはいつものように、私に微笑みかけてくれました。

…少し不思議に思ったとすれば、航平さんの食事が航平さんの目の前には無かったことです。


 満腹になって寝床に戻ると、航平さんはしきりに私の至るところを撫でてくれました。

なでなでなでなで

これでもかというくらいに撫でられるとさすがに私も照れてしまいます。

ぷるぷると首を震わせて、何とも思ってないように、寝たフリを開始します。

航平さんは最後まで私に微笑みかけて、私の意識が途切れるその時まで、ずっと笑顔のままでした。

ぷつりと意識が途切れるその瞬間、ばたりと何かが聞こえてきた気がしました。


 ちゅんちゅん、別の生き物の鳴き声と共に明るくなった中、私は目を覚まします。

朝の香り、私はこれが好きです。

また、航平さんとの一日が始まると思うと、嬉しくてたまらないからです。

しかし、その日はもう二度と訪れることはありませんでした。

辺りを見渡すと、男性が目の前で寝ていました。

 航平さんです。

 いつもと違う場所で寝ているので、お行儀が悪いわね。と思いましたが、どうやら何かがおかしかったのです。

また外の暗い時刻に迫ってきました。

依然として、航平さんはピクリとも動いてくれません。

 とうとう、また同じ生き物の鳴き声と、明るい陽の光、朝の香りを感じても、起き上がることはありませんでした。


航平さん、航平さん、航平さん、

 

 私はずっと、航平さんの周りをくるくるくるくる周り続けていました。

たまに航平さんをつっついたりもしました。


航平さん。航平さん。航平さん。


 航平さんからはもう生気が感じられませんでした。それでも、やっぱり航平さんは微笑みを私にくれたまんま眠っていました。


航平さん、航平さん、航平さん。


 私はたまらず、そこで永遠の眠りについた航平さんに、こう、言いました。


「にゃあ。」


 航平の死はしばらくしてお隣さんによって世間に気付かされました。

原因は、過労死。

職場での扱いというのが、とても酷かったそうです。

 まゆと航平は、結局、違っているようで同じ生き方をしていました。

お隣さんが航平を見つけた時、航平の隣には、まゆが傍で寄り添ったまんま硬直していたそうです。


終わり。

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80gの幸せ 獺野志代 @cosy

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