291-300

291


向こうで人が踊ってる。ばら色の頰したふたりが、芝生にシーツを干しながら。私は私の車窓から、踊りに節をつけてあげる。飴色の木枠にもたれて、頰杖ついて口ずさむ。二度とは望めぬ朝陽の田園、キスをするふたりが遠ざかる。ああ、向こうで人が踊ってる。まばゆい風を孕んでる。



292


シイラというのは魚の名だそうだ、わたしにはそれは鳥の名に聞こえる、そしてここらの土地では女につけるありふれたやさしい名のひとつだ、シイラ、シイラ、でもこの図鑑を見てごらん、載っているのは魚の名、正しいシイラは魚だけ。



293


私は真夏に一人で死体を埋めに行った。本当は誰かと埋めに行くものなのに一人で死体を埋めに行った。本当は作った死体を埋めに行くものなのに拾った死体を埋めに行った。真夜中の、山の斜面に穴を掘りながらなんだか泣けてくる、死体ひとり共犯ひとり作れなかった自分に泣けてくる。



294


魔法使いと浜辺をゆけば、裸足にざばざば水蹴りながら、ごきげんで何か歌を歌って、沖波の、千切れるしぶきを指差して、魔法は時間がかかるのと言い、揃えて脱いだ靴の場所まで戻ってくるのにずいぶん歩き、足を拭き、靴を履き、曇天の鈍い帰り道、沖波の、しぶきが千鳥の群になる。



295


あなたには恋唄ばかり歌わせた。みんな恋唄が好きだったから。コーヒーと、ライスカレーの一杯で、あなたは一曲歌ってくれた。あなたには恋唄ばかり歌わせた。本当は数え唄が好きだと、知っていながら恋唄を。朝、みんなは店から街へ、あなたはひとり浜に出て、きれいな石を拾ってた。



296


博士の脳から数式が隠れていく。博士はそれを知っていて、消えるのではないのですよと私にいう。今では誰もが知っている、博士が見つけた美しい数式。博士、博士。博士の脳は故郷に帰る。故郷は春がすてきな土地で、花靄が淡くかかるという。



297


サナミアのお堂には青光りする石が使われていて雨になると濡れてとても滑るのだ。サナミアの修道院長の居室に忍び込もうとした盗賊がある午後それで命を落とした。絹糸のような雨の降るなか院長は音もなく庭に降り、かつて自分に花を捧げたその青年に花を捧げた。



298


これは余生なのだとあなたは言う。これは余生、美しい余生だ、私は到達してこれからあなたと黄昏を眺めるのだと。私の腕は行き場を失う、私の腕、明日にはあなたを抱きしめるはずの私の腕、すべては私と始まるのだと言ってほしかった。今が日の出で、天は高く、これからだと、嘘でもいいから。



299


一億年、とわたしは言い、一億年、とあなたは囁いた。わたしたちは二人向かい合い、一億年を溶かして飲みほした。そしていま蓮のように開いていくあなたのてのひら、てのひらの上で乳色に光る松毬。



300


人が死なないと物語は始まらないのかと王が問い、そのとおりでございます王よと答えた語り部がそれで死に、死んだ語り部の開いた口から物語が種々逃げてゆき、根付き花つけ実をつくり、そんなことはないでしょうと王国のそこここで答えた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る