コクーン(05)"完全記憶"
翌日、時差ボケのふらふら頭で、フロップ・クォンタムはアルマノンヴィル銀行に入った。
マクスウェル・ゲートを通り抜ける。背後のウォルターともに反応なし。貸し金庫室に入る。表面積を広げるために、壁の両端から櫛状に金庫のブロックが突き出るさまは、さながら金属製の腸壁のようだ。(サーバー室みたいだ)と、フロップは思った。彼女は昨日の兄と同じグレースーツを着ている。男装は仕事柄、初めてではないが、ジャージ以外のものを着ているときは、いつも以上に世界が凍りついているように感じる。
ダグラス・ヴィンセントが中身を預けた、423番の金庫に二人は向かった。
この部屋に監視カメラはない。ウォルターが背広を脱いだ。裏返して、一見しただけでは分かりにくい生地の境目をめくると、合成樹脂ピッキング・ツールが内部に仕込まれている。
まずウォルターは、鍵穴に息をするどく吹き込んだ。隣の老人が取りやすい位置に、フロップは背広を広げて持った。恐竜の軟骨のような針を、指示された通りに渡す。奥にレークピックを、入口にテンションバーを差し込み、小刻みに力をかけながら、感触だけを頼りに内部のピンを揃えていく。やがて、鍵穴の奥から、すべてのピンが鍵の刻み目と同じ位置に整う音が聞こえてきた。手術は、五分で終わった。いまや鍵代わりになったテンションバーをウォルターが回転させると、警戒心を失くした内筒がぬるりと動いた。
金庫ボックスを引き出したウォルターの後ろから、フロップが背広を被せていく。
部屋の机に乗せたウォルターは、金庫ボックスの蓋を開いた。白い無機質な箱が中に入っていた。内部で箱を傾け、金庫ボックスから引き出していくと、奥で何かのはじける音がする。ボックスの底に接着された糸の先端に繋がれていたピンが落下して、金属製の縁を軽く叩いた。
ピンが抜けた途端、白い箱に備え付けられた液晶画面の数字が減りはじめる。
「まずい」残り時間は59秒……数字の下には空欄、その隣にテンキーがある。ウォルターが耳の小型イヤホンを中指で支えながら、「〈クロノス・クラッシュ〉装置。暗証番号を入力しないと、中身が爆発する」
「ヴァニティを呼んで!」ヴァン内で、フリップがヘッドセットに叫ぶ。
衛星バックアップの〈スター・フォース〉オフィス。「ヴァニティは?」イーサンが聞いた。
「来てません」金燎平が、猫王の方へふり返る。「いま、ポケベルで呼んでる――」それを聞くなり、猫王は中央オフィスからエレベーターへ走った。
日本中野大学、女子寮〈涼風〉の四人部屋。ポケベルが鳴っている。
二段ベッドの上で、寝ぼけまなこのヴァニティが、シーツの中から顔を出した。彼女の隣で寝そべっているのは、いつぞやのテニスサークル女子部員の一人、桃瀬佳奈である。一緒にシャワーを浴びたあとも汗っぽいテニスウェアに着替えさせられたのは、ヴァニティの強引な頼みによるものだった。
ポケベルを持ち上げるヴァニティに、「それに出る気?」と桃瀬。
「まさか」ヴァニティはポケベルを座卓に放ると、桃瀬をシーツに包み込んだ。
図書館の自動ドアから飛び出た猫王は、階段の手すりに尻を乗せて滑っていき、眼下でスマホを眺めていたチェックシャツの男子学生を重力によって蹴飛ばして、「気の毒だが正義のためだ」と言って彼の自転車を奪うと、女子寮に向かって全速力で漕ぎ出した。走りながら、携帯電話の番号を画面を見ずに押す。
「何?」金燎平の声が聞こえる。
「繋いだままにして、レイザー」
広場を抜けて、坂を全力で下ると、空へ屹立する〈涼風〉が見えてくる。
女子寮の門の前で、猫王は飛び降りた。慣性の法則で無人のまま突っ走る自転車が駐輪場に並んでいる他の自転車をドミノ状に蹂躙していく。廊下を走っていくと、通路途中にあった談話室の中から、『スタイルズ荘の怪事件』を読んでいたマリリン・スターダストが「部屋には入らない方がいいですよ」と言った。
過ぎていく猫王を見て、触角アンテナ下の顔も上げる。「――私は忠告しましたからね」
部屋に殴り込み、二段ベッドのはしごを駆け上がった猫王は、なんと言えばいいのかよく分からない体位で絡み合っているヴァニティを発見する。桃瀬を引き剥がし、ドアの向こうに追いやって鍵をかけると、携帯の通話画面をヴァニティの眼前に持ち上げて、言った。「金庫の暗証番号!」
ぽかんとしていたヴァニティだったが、やがて、「……7675」
「7675」金燎平が言った。
「7675!」フリップが叫んだ。
アルマノンヴィル銀行。ウォルターが番号を押し、確定ボタン。
見下ろされる白い箱。カウントダウンは、残り1秒で止まった。
動作を停止している〈クロノス・クラッシュ〉装置を確認すると、ウォルターは、白い箱の中身を出した。ベージュ色の古ぼけた封筒、宛名はなし。受け取ったフロップが中身を取り出すと、紙面いっぱいに大量の数字が並んでいた。
「いけるか?」ウォルターが聞いた。
フロップはうなずき、暗記を始めた。(67280421320721……)(20988936657440586486151264256610222593863921……)(行分けの仕方が奇妙だ)(不自然な繰り返しがある)(170141183460469231731687303715884105727……)背後から肩を叩いて呼びかけるウォルターに、首をふる。(配列の奥に隠されたパターンがあるようだ……でも、これだけでは……)(300376418084606182052986098359166050056875863030301484843941693345547723219067994296893655300772688320448214882399426831……)
鳴り渡っている警報の音に、フロップは気がつくのが遅れた。
金庫室出入口の向こうで、連射される銃声と悲鳴。ドア下端の隙間から漏れてきた血液が、彼女の目の前で、なめらかに床を満たしていく。フロップが大あわてでふり返ると、ウォルターの姿がどこにも見当たらなかった。なのに、フロップの方はまだ、暗記が終わっていないのだ。ドアノブが激しく揺すられている……
やがて、ノブの動きが止まり、静かになった。――そう思った途端、破裂した金属錠が爆音ごと壁の端まで吹っ飛んでいく。ドアを割いた穴から突き出して見えるのは、圧縮空気を一点から送り込んだ黒い筒。直後にドアを開けたのは、黒ずくめの装備と目出し帽で体を覆っている、屠殺ボンベ銃を構えた男……その横から、ガンメタルの装甲ボディスーツに全身を包んだ、シズラ・クンテムが踏み込んできた。
机に置いてある金庫ボックスの番号に気がついて、シズラは立ち止まった。
「それを渡せ」タウルス・レイジングブルの銃口を、フロップに向けてくる。
(……2147483647)震える腕を伸ばすフロップは、用紙を渡しながら、最後の一行を記憶した。その紙を受け取ったシズラが、紙面を確認すると、ふたたび、フロップに銃口を向けていく。
そのとき、金庫ブロックの物陰から現れた手が、机にいる彼女たちに何かを投げてきた。フロップの両足の隙間をまっすぐ滑っていき、シズラのブーツに当たった白い箱が、停止する。液晶画面内の数字――残り1秒、小数点以下が無音で崩れ落ちる。閃光、シズラの眼下から白煙が舞い上がった。
周囲がいっさい見えなくなったフロップは、誰かに手を引かれて突っ走る。金庫室のドアを出ると、左手を掴んでいるのがウォルターだと分かった。「〈クロノス・クラッシュ〉の爆薬を作動させた」マクスウェル・ゲートは警報ブザーが鳴りっぱなしだ。通路を曲がっていく最中、白壁に破裂している血痕。ジローの死体が倒れていた。障害物競走のように二人同時に飛び越え、向かった広間は地獄絵図。シャンデリアがいくつか落下し、出入口のガラスドアは逃げる客が殺到してもみ合い状態、弾丸が脳から僅かに外れた警備員のうめき声が響いている。
どうにか外の階段を駆け下りて、道路際に寄っていたガモウのヴァンに二人して飛び込む。
「無事?」フリップが妹に言った。
「いいから出せ」と、ウォルター。
アクセルを踏み込むガモウの背後で、爆音。前のめりになった彼がバックミラーを覗くと、アルマノンヴィル銀行の出入口から爆炎が上がっていた。瓦礫から遅れて、ガラス片が道路に散る音。ガモウ・ゴンが「派手な女は好きだ」と言いながら、大通りを曲がって、現場から離れていった。
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