コクーン(03)地下基地
日本中野大学の図書館には、ごく目立たない民俗学研究コーナーがある。
研究コーナーの端にある扉を抜けた猫王とヴァニティは、資料室の中に人がいないのを確認すると、部屋の隅の監視カメラに顔を向けた。カメラ下部のライトが点滅、背後で施錠音が鳴る。連なる書物の中から、猫王が『秘密の花園』の背表紙に親指を押しつけると、緑色の走査光が指紋をなぞり、本棚が壁の奥に無音で吸い込まれた。蛍光灯に照らされたコンクリート製の洞穴に、階段が続いている。こうした秘密の隠し通路は大学内に他にもあるようだが、猫王も詳しくは知らない。中野ブロードウェイ付近の地下駐車場〈ダルヴァザ〉にはスター・フォース職員共通の秘密出入口があって、大半の出入りはそこで行われる。
地下通路を歩いて、エレベーターに乗る。左右に開いたドアを抜け、〈スター・フォース〉地下基地の中央オフィスに入った二人は、すぐさまイーサンにブリーフィングに呼ばれた。会議室の楕円卓には各々の座席に液晶モニターがあり、上座の壁にスクリーンがある。
「ダグラス・ヴィンセントが、マクタガート・ホテルの金庫の中身を移動させた」解説するイーサンの様子は、さながらちょっとした学会発表のようだ。黒髪が白髪と淡く混じりつつある彼は、上品なスーツに身を包み、フィンガープレゼンターを操作して、豪華かつ堅牢そうな建造物の写真をスクリーンに映している。「〈リスト〉の移動先は――フランス、リヨン市のアルマノンヴィル銀行、貸し金庫の中。リストとは、この部屋にもいるヴァニティ・ヴィンセント氏の情報提供により、犯罪組織〈イマン・ザ・シス〉の名簿リストと推測されている書類のことだ。我々の目的は、この〈リスト〉を入手することにある」
手元の書類を眺める、会議室の面々。「あの」あまりに体格が大柄なので、一人だけ幅広の特別な椅子に座っているガモウ・ゴンが聞いた。「なんでダグラス、金庫の中身を動かしたんすか」
「侵入者がいたようだ。詳細は情報不足」
イーサンに呼ばれて、白衣姿の岸崎めぐみと、フリップ・クォンタムの二人がプレゼンを代わった。本日も紺色ジャージ姿の妹、フロップが前髪で表情を隠したまま兄を見つめている。彼女は楕円卓のいちばん後ろの突端にいるが、座席位置は気持ちヴァニティに寄り気味だ。肘をつくヴァニティ、その隣の猫王の横には、ガモウ・ゴンと、この部屋ではいちばん年寄りの、歯茎が生ピンク色になっている入れ歯が今にもエイリアン的に飛び出しそうにフガフガやっているウォルター・ホークス。皺で細められた目は寝ているのと区別がつかない。
スクリーンそばに腰掛けるイーサン・後藤から、いまプレゼン中の二つの空席を挟んだ席にいるのが、見るからに爽やかな健康青年の金燎平。彼の父親は韓国人で、離婚した母と燎平は現在、東京の同じ家で暮らしている。彼は〈スター・フォース〉内で、なんだかはっきりしない理由によりレイザーという愛称で呼ばれていた。この七人がいま、会議室で機械オタク二人組の説明を聞いていた。「スパイ稼業で大切なのは、なるべく目立たないことだ」と、フリップ。「〈リスト〉の実物を奪う必要はない。金庫に侵入して文書の写真を撮ってくる、それで今回は事足りる。盗んだことすら気づかせない繊細なタッチが理想的だね」
「アルマノンヴィル銀行には、警報装置〈マクスウェル・ゲート〉がある」岸崎めぐみが写真をスライドした。通路にへばりつく矩形の銀門が現れる。「貸し金庫に入るとき、このゲートを必ず通る。非常用電源が通っていて、銀行全体を停電させても彼女は倒せない。そこで、私とフリップが共同開発したのが――」
全員のモニターの中に、なんの変哲もない万年筆が映った。
次に画面に流れてきたのは――イーサン・後藤の後頭部、生え際の接写画像である。ふり返ったイーサンの眼前に、構えた万年筆の先端を向けているフリップの姿があった。「万年筆型カメラ。ここのスイッチを軽く押すだけで撮影できる。解像度は1000万画素。今みたいにリアルタイムで画像をネットワーク転送できるし、ペンの外殻部を特殊プラスチック・シールドで包んであって、ゲートの金属反応も回避できる」
「私の後頭部を使う必要があったか?」
「でも……効果的な演出です、ボス」
「質問」レイザーが手を上げた。「ゲートの反応を回避できる、なんとかシールドってのがあるんだったら、別に万年筆じゃなくてもいいんじゃないか? 首に堂々とぶら下げていけば……」
「非常にいい質問」と、岸崎。
「カメラが金属反応をスルーしたら、かえって怪しまれるでしょ」フリップが言った。「それに、これがいちばん重要な問題なんだけど、ただのカメラより万年筆型カメラの方が、ずっと――」
「クール!」同時に言って、岸崎とフリップがハイタッチした。
「すでに銀行には電話予約を入れている。フランスに行くのは……」イーサンが会議室を順番に指さしながら、「フリップ、ウォルター、ガモウ・ゴンの三人。ウォルターは知っての通り、鍵開けのスペシャリストだ。今回はゲートを抜けるために合成樹脂ピッキング・ツールを使用してもらう。ガモウは運転係。レイザー、衛星バックアップを頼む。フロップ、鮭とばをしまいなさい。会議室は飲食禁止だ。そして、ヴァニティ」
熱心にうなずいていたヴァニティに、イーサンは言った。
「待機だ」
「なぜですか? 仕事をくれるはず……」
「〈リスト〉の保管場所がマクタガート・ホテルの金庫から移動した時点で、君の持っていた暗証番号の知識は不要になった。それに、君はまだ訓練期間だ。猫王、子守をよろしく」
中央オフィスに戻ったヴァニティは、新品のデスクの前でふて腐れていた。
猫王が彼女のデスクにやってきて、書類の束を目の前に置く。それを指さすヴァニティに、「仕事のマニュアル。二日後にテストするから、それまでに頭に詰め込んどいて」
「これじゃ大学と同じだ」
「言えてる」隣の席に座って、マグカップを置いた。
本日の猫王は書類仕事。ブラックコーヒーを飲みながら、デスクのパソコンを睨み、フリーランド共和国事件の報告書をまとめている。「機密ファイルとか見れるのか?」ヴァニティが肩越しに覗き込んだ。
「やめとけよ」猫王が顔を押しのける。「うっかり機密レベルが上の書類を覗き込んだら、スパイ扱いされても文句は言えなくなる。君はいま、機密レベル1だから」
「お前は?」
猫王はピースサインをした。
肘をついてそっぽを向いたヴァニティが、「じゃ、これはいま、ただの目障りな黒い鏡なんだな」
「チャットツールなら使える。フロップと話してみたら」
「あいつ、話せないんじゃないの?」
「それはどうかな」猫王が、自分のデスクトップから〈Idobata〉を起動して、猫耳フード付きジャージのアイコンを選択し、一行メッセージを送る。ヴァニティの椅子を壁際に回転させると、フロップの個人ルームでディスプレイから顔を上げた彼女が、紺色の余り袖をガラス壁越しに振ってくるのが見えた。大きく振りかえすヴァニティの横から、猫王が液晶スイッチに手を伸ばし、彼女のパソコンの目を覚ます。
たどたどしいキーボード捌きで、十秒ほどかけて、ヴァニティはメッセージを送信した。
十秒後、アクションセンターに返信の通知が鳴った。
ヴァニティ >> こんにちは
フロップ >> フロップ・クォンタムです。お久しぶり。先日はうるさい兄がご迷惑をおかけしました。機関銃みたいで大変だったでしょう。あんなにも早口で話す人間がいてもいいものでしょうか? よくは知りませんが、非核三原則の一つぐらいは違反しているのではないでしょうか? いずれ、兄さんが三途の川をエアボートで爆走しながらポックリと天国に行ったとしても「ここは僕のスピードに合わないよ。八大地獄の観光ツアーとかないんですか」とか無理やり天使に聞いて回るのかも。フリーランド共和国は兄さんがやたらに飛ばした唾液のせいで、午後から霧が出たそうですね。そのときの話もいずれ伺いたいです。
ヴァニティ >> うん
フロップ >> 例のにぎやか口撃のせいで、私は合計して17回の脳溢血と31回の心臓麻痺を起こし、そのうち4回は本当に死亡しました。残念なことです。そのためにこのメッセージは幽霊が書いています。霊は気楽でよいものですね。普段の生活でも本当にそう思います。液晶画面を眺めたり、映画を見たり、本を読んだりして、自分がいるのを忘れている時間、あれこそが本物のリアルな時間で、肉体を持って重力の底を歩いている私そのものはなんて非現実的なんだろうと……ヴァニティさんは、どう思いますか?
ヴァニティ >> ワオ
フロップ >> 私もそう思います! なんだか気が合うみたいですね!
ヴァニティは、冷や汗まじりに「仲良くなれそう……」とつぶやいた。
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