コクーン(02)体力試験
南口歩道との境界を区切るフェンスの上に、カラスの群れが並んでいた。眼下でホイッスルが鳴ったが、驚いて飛び立ったのは一羽だけで、ほとんどは周囲に唸るような鳴き声を放っている。その日は夏休み、日本中野大学の陸上競技場は閑散としていた。コンクリートの階段を降りていった桐島猫王は、競技場内を眺めている山岡教官を見つけ、彼の隣へと芝生を歩いた。ストップウォッチから顔を上げた教官が見ているのは、トラックの向こう岸で、金髪を背後に流しながら走っている体操着姿のヴァニティ・ヴィンセント。彼女の体力テストがちょうど終わる頃だと聞いたので、猫王は調子を聞きに来たのだった。
「ヴァニティ?」山岡のボールペンで指される彼女が、白線のすぐ外を刻みながら接近してくる。「個人的な意見を言えば、〈スター・フォース〉なんか今すぐ辞めてほしいね」
「そんなに成績が悪い?」猫王は驚いた。
教官は、首を横にふった。「圧倒的な数字だ。今すぐにでもスポーツ業界に転身すべきだよ。どうして僕はこんなところでインストラクターなんかやってるんだろう。数え切れないほどの金メダルがどこかの戦場で溶けていくのを、バカみたいに突っ立って見守るためなのかな」
「国を守るのも立派な仕事です」
「まったくだ」ストップウォッチのボタンが押される。「裏切らないでくれよ」
裏切るってどっちの意味だ、猫王は考えた――期待を? それとも、国家を? 今のところは、どちらも心配ないはずだった。ヴァニティの祖国は日本ではないが、彼女は国への忠誠心より、情熱で動くタイプのはず。彼女の忌み嫌う父、ダグラス・ヴィンセントの手が悪事に染まっている限り、再び彼の手を握ることは考えられないだろう……オーバーランしたヴァニティが、速度をゆるめながら弧を描いて戻ってきた。
ペットボトルから水を飲むところへ、猫王が話しかける。「よう、チンピラ」
「どうした、敗戦国民」
「テストの調子は?」
ヴァニティは猫王の肩に汗臭い腕を巻きつけて、青いクリップボードの用紙に何かを書き込んでいるポロシャツ男から背を向けた。「で、あいつ、俺になんて言ってたよ」
「ギリギリかな」とぼけ顔で。「足切りされることはないと思う」
ヴァニティは眉をひそめた。上がっていいぞ、――背後で荷物をまとめる山岡の声に、二人は手をふった。競技場を横切りながら、ヴァニティが言う。「ピッキングの講義、お前も受けた? いいよな、あれは。鍵穴の奥でいい音が聞こえた瞬間っていったら……だいたい、穴に棒を突っ込む行為が楽しくないわけがないんだ」
「そういう上品そうな話は苦手だな」
「お前、メタファーって知ってる?」
「いや、セックスしか知らない」
そのとき、まぶしい原色のシャツを着て、テニスラケットをぶら下げている女子たちが、胸を揺らしながら二人の前を通りかかった。ヴァニティが「大学ってすごいとこだな。半分は女子大生だぜ」などと言って、テニスコートに向かう背中を追いかけ、緑色の扉を勝手に抜けていく。猫王がフェンスにもたれていると、コートの中からヴァニティの声が聞こえてきた。「その胸、重そうだね。持ってあげようか……」
やがて扉を出てきた彼女に、「フラれた?」と猫王が聞いた。
「賭けるか?」
「いいよ」
「日本語の『いいよ』って、二つ意味があるんだろ。今のはどっちだ?」
「いいよ、いいよ」
そのとき、二人のポケベルの通知音が同時に鳴った。薄暗い緑の液晶に表示された暗号は――イーサン・後藤:〈スター・フォース〉地下基地に来ること。「おやじさん、なんの用事かね」その通り、今ではスター・フォースの上司が、ヴァニティの父親代わりなのだった。
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