第二話 コクーン

コクーン(01)マクタガート・ホテルの金庫

 ドバイ首長国の海岸沿いに屹立する、マクタガート・ホテルのペントハウス。

 皺のよった手で、銀色のジュラルミンケースが開かれた。応接間のソファーに向かい合って座る、ダグラス・ヴィンセントが目を見張る。濃灰色の緩衝スポンジ材のシートに鎮座しているのは、見慣れない文字の彫られた二枚の板である。古代アステラ文明の書体には、それ自体が装飾のようにも思える荘厳さがあるのだが、本日の故買屋が持ち込んだ商品は、ダグラスの想像をはるかに凌駕していた。伝説では聞いていたし、業界の風のうわさも耳にしていた。どこかの名もなき墓泥棒の手によって、世界中にばら撒かれたアステラ文明の〈予言の書〉は、王の血を溶かした鉛で精製された、純金の板に刻まれているのだと……

 故買屋モーガンの提示してきた価格は、500,000$だった。安すぎる――とは思いつつも、いま目の前で進行中なのかもしれない詐欺のトリックを、ダグラスは見抜けないままでいる。絶対にそんなことはしないが、この書物を溶かして、延べ棒に成型し、偽造刻印を彫り込んだとしても、かなりの儲けになるだろう。まあ、ツテがないのかもしれないし、真っ当なルートじゃ売り捌けないのかもしれない。〈予言の書〉に手を出しているのは道楽者のコレクターばかりじゃない。純金なんかに目もくれず、なにやら宗教的な情熱でもって、謎めいた表意文字を血眼で追いかけている奴らもいるようなのだ。この書の市場価格はさらに値上がりする、とダグラスは見ていた。目の前にあるのはほんの二ページだが、これがいつしかミッシング・リンクを埋めるジグソーパズルの一片になって、信じられない価値になる可能性もある。深入りは命取りだ、だが、今のうちなら……

「本物だ」確証はなかったが、ダグラスはそう言った。少なくとも手に取った密度は純金のもの。この大きさで、この重量感の物質といったら、地球上で他にありえない。「レヴィ、小切手の用意を」

 ダグラスの用心棒、この部屋ではどう見ても調子外れの黒いテンガロン・ハットを目深にかぶっているドン・レヴィが、部屋の一角で瞬く迷光擬似くらげの円筒状アクアリウムを斜めにすれ違って、小切手帳を取りに行った。ソファーの後ろでは、ダークスーツの二人の警備係が後ろ手を組んで直立している。四人の気まずい沈黙……

 やがて、モーガンが「昼はどうなさいますか」と言った。「ここのレストランは評判だそうですね」

「ビリヤニがいいですよ」

「ほう! 私、それ、目がないんですな。よろしければ……」

 ダグラスは肩越しに渡された小切手帳を一枚ちぎり、流れるように数字を書き込んだ。モーガンに「ビジネスの時間は終わりです。ご馳走しましょう」と手渡して、立ち上がる。警備係の二人に、部屋で待機しているように言って、彼はモーガンを誘って部屋を出た。ドン・レヴィが背後から廊下を静かについていった。

 広大な室内に残された、警備係の二人組。そのうちの短髪男、ジェフがスマホを出して、いそいそとツイッターを始める。長髪のフィリップは迷いなく部屋の奥の冷蔵庫へ向かっていき、ビールの瓶を勝手に二本出して、くらげに照らされる霧降の滝が描かれた浮世絵の隣を抜けて、ソファーの方へ持ってきた。

「よう」声にふり向いたジェフに、フィリップは瓶をアンダースローで投げる。両手の隙間をガラスの放物線がすり抜け、前のめりになったジェフは膝をテーブルの縁にぶっつけ、卓上に転んだ彼の真横でジュラルミンケースが吸い込まれるように落下した。濁った不快な音で床に激突、ガラス片がビールと砕ける音が同時にジェフの背後で聞こえる。カーペットに広がる泡が応接間に溶けて、苦い匂いが立ち昇った。

「よし!」フィリップが胸を張った。「これで俺たち、人体の不思議展送りだ」

「なにが嬉しいんだよ?」

「酒をぜんぶ飲む口実ができたじゃないか。ついでに中身も盗んじまおうぜ」

「待て待て待て。実際、割れてないかも……」

 ジェフは、ソファーの隣に転がるジュラルミンケースに手をかけた。おそるおそる、開いていく。中に入っていたのは――元のままの姿で、無事に収まっている金塊だった。「心臓が止まったぜ」彼がそう言うと、緩衝材のシートが内部からひっくり返され、箱の中から拳銃を握った腕が伸びだしてきた。プラスチックの擦れるような軽い音。警備服の左胸に血だまりが吹き上がり、ジェフが背中から倒れていく。

 あたふたと拳銃を取り出し、慌てて撃った一発目を床で回転するジュラルミンケースにはじかれたフィリップは、渦を巻きながら軟体動物のような黒い影がケースの中から離れていくのを見た。空洞になっていた緩衝材が裏地を見せるように剥がれて、銀色の鞄が激しく倒れる。室内を渡る音が静まりかえったとき、フィリップの左手から、ビール瓶がすべり落ちた。ガラスのぶつかる音。直後、フィリップの眼前にあるソファーが次々と羽毛を吐き出した。彼は、ゆっくりと自分の胸を見下ろした。撃ち込まれた赤い穴が上着に点々と並んでいた。

 崩れ落ちるフィリップ。ソファーの影から、浅黒い肌の少女が顔を出した。

 手すりを曲がって現れた彼女の全身は、艶のあるガンメタル・レオタードでぴっちりと覆われている。毬藻のような白い短髪、瞳の色はアメジスト。ジュラルミンケースを拾い上げた少女は、足元でくぐもったうめき声を上げているフィリップを見下ろしもせず、とどめの一発を後頭部に撃ち込みながら、部屋を歩いていった。北斎の浮世絵の前で立ち止まり、PSS消音拳銃に弾丸を詰めて、腰のホルスターに入れる。

 掛けられた絵を壁から外すと、ダイヤル式の隠し金庫が壁に埋め込まれていた。足元に下ろしたケースの壁をスライドさせて、彼女はその中から、改造聴診器を取り出した。

 金庫扉に貼りつけ、内部の音を聞きながらダイヤルを回していく。目的のものは、この中だ。

 一方――エレベーターから降り、マクタガート・ホテルの〈アロウフカ・レストラン〉に向かう直前、ダグラスが足を止める。ふり返るモーガンに、彼は「失敬、財布を忘れました」と、通路を戻った。

「こちらで出しますよ」

「客人に払わせるわけには」

「そんな。気にしませんから」

「私の名誉のためです」上りのスイッチを押す。「待たせてすみませんね」

 モーガンは渋々うなずいた。エレベーターのドアが開く。「先に席についていてください。おい」ダグラスはドン・レヴィに向きなおり、あごの動きで彼も中に入るように伝えた。

 軽くおじぎしたモーガンは、ドアが完全に閉じきった瞬間、表情を変える。

 腕時計を顔に近づけ、話しかけた。「引き止められなかった、シズラ。標的が上に戻るぞ」


 足音が迫ってくる。だが、もう少しだ。

 耳に意識を集中させ、ダイヤルを調整……これだ、という音がして、シズラ・クンテムは指先をダイヤルから離した。彼女がハンドルを引くと、銃声――金庫扉に激しく火花が散り、開きかけた扉がシズラの手を振りほどくように閉まった。鮮やかな銀色の銃痕が扉の表面に脈打っている。

 応接間から銃口を向けるドン・レヴィの足元に、薬莢が落ちる。とっさにシズラはカーペットの上を転がり、円筒アクアリウムの裏に逃げ込んだ。水影の向こうで立ち上がる彼女をダグラスが見すえて、彼が叫ぼうとする前にドン・レヴィは引き金を引いていた。水槽のガラス壁が破裂、迷光擬似くらげの照らす水が透明に転じながら散らばって、光の屈折で左横にズレた位置に立っていた少女の姿が鮮明に――その奥で小さな発火。

 弾丸はドン・レヴィの右肩に当たった。転んで、うめき声。シズラは一面の青空が広がっている窓にPSSを連射して、流れるように体当たりした。マクダガート・ホテルの最上階から、ガラスを砕きながら、小さな影が頭から突き抜けていく。シズラ・クンテムの視界で地上がせり上がり、窓の波がうねり、眼下のぼやけた水色が異常な勢いで接近してくる。やがて、彼女の体がプールの表面を破った。パラソル付きのドリンクを取りにプールサイドに上る客の一人が、水しぶきの飛び散る赤いビキニの中身を揺らしながらふり返った。

 ダグラスが窓際に駆け寄って、ドン・レヴィから奪った銃を向ける。

 顔を出したシズラは、銀色のピアスを耳から抜いて、スイッチを入れ、水面に投げた。途端に軽やかな爆発を起こして、白い水蒸気が一帯を埋め尽くした。ホテルの客の楽しげな悲鳴が散らばっていく。

 ダグラスは銃口をプールから離し、部屋にふり返った。

 立ち上がるドン・レヴィの方へ歩いて、「腕を撃たれたぐらいで、転ぶとは――」と言う途中、彼の足がズルッとやられる。激しく尻もちをついたダグラスの靴の先端には、赤・青に点滅するくらげが乗っていた。ぼってりした横腹をびしょ濡れの床に倒していき、カーペットに肘をついたダグラスは、そのまま平静を保っているような顔をして、ドン・レヴィを優しげな瞳で見つめた。

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