殺しの楽園(10)雲の晴れ間

 イーグルス・ホテルの壁が天空へ流れていき、霧の中を突き抜けていく最中、猫王は目を覚ました。夢を見ているような気分だった。走馬灯らしきものがあたりに漂いはじめた。だが、体が水面に叩きつけられた瞬間、死んでいるわけにもいかないことを思い知った。気泡がスーツの隙間を浮上していく。底を蹴って、水面から顔を出すと、濃灰色の暗雲から落ちる雨で、屋外プールの表面が煮立っていた。ベンウェイの姿は見えない。

 圧迫される肺。手近なプールサイドに向かって猫王は泳いだ。

 縁に手をかけ、這い上がる直前、白衣の足元が視界の隅に見えた。楕円の向こう岸に立つベンウェイ・バロウズは、サージ・ガンを水面に向けた状態で、こちらに笑いかけていた。引き金が、しっかりと引かれる――水膜を瞬時に伝播し、電撃がプールから飛び出す猫王の体を突き抜けた。その瞬間、偶然にも、プールに沈んでいた〈キューブ〉底面の電源ボタンが瞬いて、再起動処理が始まった。心臓が締め付けられ、アスファルトに倒れ込んだ猫王、過呼吸がしだいにコントロールできなくなっていく。濡れたアスファルトをゆっくり近づいてくるベンウェイの足元には、血が点々と垂れているが、すぐに灰色のまだらの中に滲んでいった。

 最後の力を振り絞った猫王は、腕を突っ張り、立ち上がり、いちばん近くの植え込みの向こうへ飛び込んだ。顔面に苦い土の味が叩きつけられる。てっぺんの小枝が青白い光線に貫かれ、顔の隣に落ちてきた。追撃がそれで済んだのは幸いだったが、雨を踏む音が近づいてくるのに、もう動けそうにもなかった。植え込みの影には小さな円い花壇があって、白百合の茂みが幾つもの花びらを濡らしていた。すぐ向こう、枝の隙間に見えるのは駐車場。その先はホテルの敷地外だろう。イベント終了より前に、会場内から脱走したら失格となります……

 この百合が、最後に見る光景になるのだろう、猫王はそう思った。

 どうせならしっかりと目に焼き付けておこう――そう考えた途端、植え込みを勢いよく突き破り、巨大なタイヤで花壇をまっすぐに轢き潰して〈ブルー・ハワイ〉のヴァンが登場する。カーテンの隙間から伸ばした手でサンダルの吊り看板を「OPEN」の側に裏返し、フリップ・クォンタムが顔を出した。

「気持ちよく死ねそうなところだったのに」

「頭と火傷を冷やしなよ」

 クラッシュ・アイス入りのビニール小袋を猫王に放り投げ、すぐ窓を閉じる。縁石を乗り上げた〈ブルー・ハワイ〉は、プールの楕円に沿って進み、アスファルトの上でベンウェイ・バロウズと向かい合った。直立したままのベンウェイが、後ろ手に持ったサージ・ガンのつまみを捻って、最大出力に設定。

 エンジンが唸りを上げ、白衣に向かって一直線に突き進んでいく。フロントガラスの中で徐々に巨大化していくベンウェイは、正面からヴァンに向かって倒れ込み、フリップの視界から消えた。車体が彼の上を通過していき、頭上を過ぎ去るタイヤを見送って背を起こしたベンウェイが、ヴァンの尻に一発撃ち込む。火花を上げ、傾く車体が左側の二輪だけで走行しながら転倒――やがて、ホテル入口の柱をへし折りガラスドアを粉々に破壊した。

 手元を見たベンウェイは、サージ・ガンの電力残量バーが空になっていることに気づいた。踵を返し、注射器を取り出しながら植え込みへと向かう。枝の向こうを覗き込むと、踏み荒らされた花壇の中で、桐島猫王が力の抜けた大の字になって寝そべっていた。喉奥からかすれた叫び声のような呼吸をして、肩が首の筋肉に引きずられていた。彼女は空を見ていた。ベンウェイのことは気にもせず、ここを死に場所と決めたかのようだった。

 ベンウェイは猫王の隣で膝をつき、注射器の先端を眼球に伸ばしていった。

 彼のそり立つ白っぽい胸元から、真っ赤な肉片が吹き出した。心臓だ。さらに銃声――倒れてきたベンウェイの腕が猫王の顔面に迫って、とっさに彼女は注射器を左手でつかむが、倒れてきた体重の分だけ、注射針が眼球表面の膜にさらに接近してくる。ヴァイブレーション通知。猫王の左手首に届いて、眼球の数ミリ上の針が小刻みに振動した。なんとかベンウェイを横倒しにした猫王は、銃口をこちらに向けているヴァニティ・ヴィンセントの姿を見つけた。ヴァニティは猫王に駆け寄って、抱き起こしながら、

「生きてるか?」

「分からん」

「立てるか」

「やってみよう」

 ヴァニティの肩に支えられ、猫王は案山子のように立ち上がった。プールサイドを二人で歩いていくと、クラクションが鳴り、横倒しになったヴァンの窓からフリップが手を振ってくる。

 猫王にライターを返しながら、「俺が奢ったナイフはどうした」

「落とした。プールかも――」

「待ってろ」並ぶ青白縞のデッキチェアに猫王を放り投げ、ヴァニティはプールに飛び込んだ。その間に猫王はスーツの内ポケットに手を伸ばした。しばらくして、ナイフをくわえたまま戻ってきたヴァニティが、卵型の脚で泳いでいる白い直方体を発見し「デモナコの店のロボットだ」と、猫王の方へ投げてきた。

 足元で直立する。「ナマエハ、ナンデスカ?」〈キューブ〉が聞いた。

「桐島猫王」

「初期化処理中……マスターヲ再設定シテイマス……」

「ジェド・カモサカじゃなかったのか?」

「初めまして」猫王はヴァニティに手を伸ばした。「桐島猫王だ」

 彼女はその手を不思議そうに見下ろしていた。やがて、ナイフをポケットに入れて、「ヴァニティ・ヴィンセント。もちろん、本物」と、握手する。「それで――俺は、あんたを殺すべきなのかな。イベントの攻略方法は見つかったか? それもどうせ、でまかせなんだろ?」

 猫王が目を閉じて、ヴァニティの手を引き寄せた。互いの頬を触れそうになるほど近づけて、ヴァニティの背中を抱きしめながら、そっと耳打ちした。「方法はある」ヴァニティはしっかりと目を見開いて、彼女の言葉が本気なのか、狂気のたわごとなのか、見極めようとした。「私がこれから何をしても、許してほしい」

 ヴァニティはうなずいた。

 背中を抱いているスーツの袖から、猫王は注射器を取り出して、ヴァニティの首に刺した。白い肌に針が食い込み、青黒い液の内部に血液が逆流する。一気に収縮する瞳孔。背中が痙攣し、猫王にヴァニティの全身が倒れ込んできた。猫王は、彼女の体を隣のデッキ・チェアに押しのけた。椅子の脚がきしみ、だらんとした両手が手すりからこぼれ落ちた。ヴァニティのまぶたはもう、開いていない……

 ヴァイブレーション通知。やがて、二人の腕輪が同時に外れ、地面で金属音を立てた。液晶の割れた〈ブルー・ハワイ〉のヴァンを通じて、猫王の耳に、イライザ・ドリトルの実況中継が聞こえてくる。「イベント史上、フリーランドTV史上、最大の番狂わせが起こりました! 本日の勝者、最後の生存者は、未だランク無しの《コソ泥》ジェド・カモサカ。授賞式は後ほど、この会場で行われます――」

 すでにスコールは止んでいた。雲の晴れ間から、陰影の筋を引きながら陽光が地上に差し込んでいた。しばらくのあいだ、猫王はきらめくプールの波面を眺めていた。


「確かに眺めはいいけど」フリップは言った。「二度と来たくないね」

「偶然だと思うか?」

 島の山頂で、猫王がふり返った。授賞式は当然のようにすっぽかし、脱出ポイントにやってくるはずのヘリを待っている最中のことである。ボロボロになったヴァンに背をもたれ、かき氷をストローで砕いているフリップ・クォンタムが首をひねり、彼女の足元にいる白い直方体ロボットが「マスター?」と聞いた。

「仕事で出会った私とヴァニティ、そしてベンウェイまでもが、参加者に選ばれてる。残りの四人にも、私の知らない繋がりがあったのかもしれない。〈千年同盟〉は――この結果をどこまで意図していたかは分からないが、このイベントで、私たちを別の目的で試していた。そうとしか考えられない……」

 回転する羽音を振り撒きながら、ヘリが接近してくる。「この島には、また来ることになると思う」という猫王の言葉は、機体の爆音にかき消されて、フリップたちには聞こえなかった。やがて見えてきたイーグルス・ホテルの屋上は、〈千年同盟〉の太陽十字の紋章を象っている。

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