殺しの楽園(08)上層回廊の死闘

 白い床の血溜まりを抜けて、ナジュム・ダウ・ダナヴ社製金庫に踏み込む二人が目にしたのは、隅に設置された巨大な銀色の箱と、大量の引出しが連なる薬品棚だった。ベンウェイ・バロウズの姿は見当たらない。

「鍵がかかってる」銀色の箱の扉を引いたヴァニティ。

 側面の表示を覗いた猫王が「冷蔵庫だな」と言った。

「なんで金庫に冷蔵庫入れるんだ?」

「いつでも安全にアイスクリームを食べたいでしょうが」

「確かに」とヴァニティ。「でも、死ぬ直前に駆け込むってのは妙だろ」

「ハーゲンダッツだったら?」

「そりゃ、話は変わってくるが……」

「まじめな話」猫王は金庫扉の脇にある、生乾きになった跡がビニール内部に付着する輸血パックがぶら下がった点滴スタンドを指した。「ああいう、冷蔵保管しないと成分が壊れるもの入れてるんだろうな」

 続いて調査は薬品棚に移る――のだが、そのとき猫王が、棚と直交するように金庫隅に置かれている白い直方体の箱を発見した。長さは2メートル近くあり、寝かせた状態で置かれている。金庫壁と同じ乳白色なので、背景に自然に溶け込んで、そこにあることにすぐには気づかなかったのだ。かがみ込む猫王の背後から、ヴァニティが肩越しに覗き込み、表面にある液晶画面を指す。「時限爆弾か?」緑色の7セグメント・ディスプレイで 00:03:26 とあり、その数字は正確にカウントダウンして秒数を減らしていた。

「アラーム入れといて、フリップ。残り3分20秒……」

「さっさと出ようぜ。気味が悪くなってきた」

「探しものが先」薬品棚に歩み寄り、猫王が右上の引出しを開いた。

 左下の引出しを開いたヴァニティ、「なに探せばいい?」

「アルファベット順だ」二段目を覗きながら。「Sから始まるところ見つけて」

 引出しが順番に開かれ、しだいに猫王がしゃがみ、ヴァニティが背伸びしていく。猫王がヴァニティの喉元を見上げて、訝しげな顔をした。上段から折り返したヴァニティが、一段ずつ下を覗いていくと、首のすぐ先に猫王のナイフがあることに気づいた。「は? 何やって――」

「喉仏がないな」刃で首元を撫でる。

「そんなことも気づかなかったのか?」

「ヴァニティ・ヴィンセントは男のはずだったが」

 いきなりヴァニティは猫王の顔面をまっすぐぶん殴り、冷蔵庫の壁に突き飛ばした。ナイフが床に散る。「なあ、何様のつもりだ? 大事なのは互いを信じて協力することだって、俺に偉そうに言っといて、今さら疑うのかよ。〈ブラッドライン・カルテル〉の跡継ぎは――」

「そんなヤワじゃないって?」

 首をふった。「古臭いしきたりのせいで、男に限られてる。だが、親父が作る子供は女ばかり。で、俺はいかれた親父に、無理やり男として育てられたわけだ。デートの前に相手の性別ぐらい調べとけ、バカ」

「だが、趣味が女遊びって情報……」

「あれは本当。証拠も見たいか? ちょうど高級ベッドもあることだし」

「ええと……」まばたきをする猫王、「すまない。今のは私が悪かった」

 手を伸ばす猫王を引っぱり起こし、「こっちも言い過ぎた。当然の疑問――」ヴァニティが言ったとき、立ち上がった猫王が鋭く彼女を殴り返した。開いていた五段分の引出しが背中で一斉に閉じられる。

「そういや、お前を殺すって選択肢を忘れてたぜ」

「やれるもんなら」猫王が両手を顎の前に構えた。

「やばいよ」フリップが叫んだ。〈ブルー・ハワイ〉液晶画面には、エレベーターの個室内、斜め上から覗かれるブルースーツの男が映っている。階数ボタンのクローズアップ。「《銀星》が最上層に向かってる」

 お互いに眼前のほっぺたを引っ張りあっていた猫王、「《銀星》が来る!」と叫んで、ナイフを拾った。あわててヴァニティも作業に戻る。順番にドタバタ開けていき、ファイル仕切りの上見出しからヴァニティが〈S〉の項目を発見。猫王がその引出しを抜いて、様々なプラスチック容器を床に放っていき、やがて目的の〈Saurian X-47〉の整理テープが貼られたものを見つける。中には青い液体入りの注射器が入っていた。二本用のケースだが、注射器の一本は無くなっている。猫王はケースを内ポケットに入れて「逃げよう」と言った。

 途端、ヴァイブレーション通知。《ラストサムライ》が死んだ。

 腕輪の赤い光輝を見たヴァニティが、「残り四人」

 ベンウェイ・バロウズの部屋から出ようと、二人がドアを開けると銃声。風穴の空いたドアが猫王の手からはじき飛ばされ、《銀星》の姿が回廊の曲がりぎわに見える。猫王たちはあわてて室内に舞い戻った。「《フルメタル》も向かってる!」フリップの絶叫が届く。

「どこから来る?」フリップ・クォンタムが拡大したフリーランドTVの画面は、監視ドローンの映像を中継していた。ベランダの柵をつかみ、軽やかに跳ね上がり、Reia000042bXはイーグルス・ホテルの外壁を登りながら最上層に向かっている。吸いつく腕を素早く伸ばし……「あと何秒だ、計算しろ」

「一階ごとの平均が――」腕時計と交互に見比べ、「25秒弱で北窓に到達」

 猫王はふり返り、ヴァニティに素早く耳打ちして、うなずく彼女を尻目に部屋に設置された消火器をアクリル壁の扉から取り出した。《銀星》が待ち構えている南窓側の回廊へ放り投げ、彼女の手の上からヴァニティが続けざまにリボルバーを連射する。白煙の消火薬剤が噴き上がって、廊下の一端を埋め尽くした。煙幕の隙間を抜けて、猫王はヴァニティの手を引いて部屋から出る。背後で銃声がするが、幸いにもどこかの壁紙を破っただけ。回廊を半周していき、壁一面の北窓が死角すれすれに目に入るところまで逃げて、背中を壁につける。

「トマス・ゴードン!」

 返事はない。

 猫王が通路の奥をちらと覗き込むと、頬を烈風がかすめた。今度の銃声は脳裏で鳴ったように聞こえた。構えている《銀星》の姿を確認し、また壁にぴったりと背中をつけ、接近してくる足音の歩幅となるべく同じだけ、一定の距離を保ったまま、ジリジリと後退する。「今だ」とフリップ。猫王に肩を叩かれて、ヴァニティはエレベーターまで走った。足音に反応し、すかさず北窓の真正面まで小走りしたトマス・ゴードンの横に、《フルメタル》Reia000042bXの影が躍り上がった。灰色の空へとふり向く《銀星》にサージ・ガンが撃たれ、巨大な窓が破裂するのと同時にスコールの湿気を含んだ雨足が一挙に回廊になだれ込んでくる。

 逃げ離れる猫王、「あとはお若い二人に任せましょう」投げキッスを送る。

 ヴァニティがエレベーターのボタンを押した。琴の音が鳴り、左右に開いたドアの隙間に、猫王がオイルライターを置く。さらに回廊を後退し、消火器の破裂している南窓の方角へ、一周して戻ってきた。向こうの二人の決着がついたら、猫王たちが逃げたかをエレベーターで確認するだろう。階数表示は最上層のまま。それを見上げるガラ空きの背中――そこに、煙の中からヴァニティが銃弾を撃ち込む、という作戦である。

 だが、まっすぐ後退するヴァニティが白煙に隠れる直前、エレベーターのすぐ前に、トマス・ゴードンが倒れたまま滑ってきた。壁に激突したブルースーツの男は、ヴァニティに気づいて「逃げろ……!」と囁く。グロック拳銃が構えられていたはずの手は、もうどこにも見当たらなかった。死角から飛び込んできた血まみれ振袖のReia000042bXは、トマス・ゴードンに馬乗りになって、裂けた機肉の筋が見えるまで巨大な口を開き、トマスの顔面の肉を貪り喰い出す。磨り潰される骨の音、赤黒い肉を含んだ泡がカーペットに散った。

 リボルバーを構えたヴァニティの腕がガタガタと震える。眼前の死、ヴァイブレーション通知。引き金からしだいに指が外れて、ヴァニティは背中を向けて白煙の中へ飛び込んでいく。自分が捨てたポテトチップスの袋に足を取られてすっ転び、顔を上げるとベンウェイの部屋の前で猫王が待っていた。

「すまん、撃てなかった」

「大丈夫」と猫王。「あとは仲良く死ぬだけさ」雨のざわめきを破って、〈ブルー・ハワイ〉車内、フリップのラップトップから鳴ったアラーム音が猫王に届いた。それと同時に雷鳴が南窓を一閃、人の形をした影が消火薬剤の雲中に浮き上がる。

 Reia000042bXは、ゆっくりと、二人を微塵も恐れずに踏み込んできた。回廊に吹き込む外気が白煙をかき分け、散り散りに流していって、隠れる場所はもう、どこにもない。

 再度向けたリボルバーは、一瞬にしてサージ・ガンの電撃でヴァニティの背後に吹っ飛ばされた。銃口を猫王に向けたとき、Reia000042bXの淡緑色の髪束が、ぞわり、天井を向いて浮かび上がった。

「《フルメタル》」猫王が言った。「お前の負けだ」

「なぜだ?」

「ふり返れば分かるよ」

「見え透いたハッタリだ、誰がその手に……」

 Reia000042bXは、サージ・ガンにかけた指を引こうとした。だが――彼女はこの瞬間、自分が窮地に陥っていることに気づいたのである。彼女の拡張された第六感、アモルファス・ニューロンは、この状況に明らかな異変を感じていた。心臓を刺す棘のように告げられる、根拠の分からない不安。いま、ここで、私の意識に浮上しない何かが、静かに進行している。指が震えている。引き金を引くことができない……

 桐島猫王は、目の前で不敵な笑みを浮かべている。

 いったい、何が起こっているんだ?

「ヒントを出そう」猫王が言った。「君の手首」

 Reia000042bXは眉をひそめ、サージ・ガンを構えている左手首に目線をやった。銀色の腕輪に、生存者数を示す赤いランプが四つ点いている。四つ? 《銀星》は殺したはずだが――と思う間もなく、白銀色にきらめく腕輪に人影が差し込んだ。

 サージ・ガンをあわてて背後に向けるが、片手で遮られ、銃口から噴出した電流は見当違いの斜め後ろで窓ガラスに亀裂を入れただけ。こめかみを剃るように突き出してきた白衣の細い手が、構えている注射器を、Reia000042bXの右眼に躊躇いなく刺した。圧迫。食い込む針の激痛が、瞬時に溶けていく。

 肉体が砂を崩すように無感覚になっていくことに気がついた。すでに死につつあるReia000042bXの主脳に向かって、後頭部の換装擬脳が緑ランプの点滅を繰り返す。助けて、助けて……、助けて……

 倒れていくReia000042bXの後ろから、注射器を持った白衣姿の男が二人の前に現れる。白衣の下は灰色のトランクス一丁で、骨に薄皮を張り付けたような生白い肉体が、吊り下がるように立っていた。

 猫王は、彼に言った。「久しぶり、ベンウェイ・バロウズ」

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