殺しの楽園(07)換装擬脳は砕けない

 透明な膜に覆われた、吸盤のうねる薄桃色の蛸の脚が《フルメタル》Reia000042bXの唇の隙間に細かい泡ごと吸い込まれる。味蕾の粘膜と接触し、酢橘の効いた出汁が味覚中枢に響いたとき、外殻が処理音で振動し、後頭部に接続された換装擬脳のアモルファス・ニューロンがフィールドの変異を探知した。

 芸者ドロイドの肩にもたれるReia000042bXは、頭髪ファイバーの淡緑色の一束を無意識のうちに障子の側へ伸ばすが、何が変わったかまでは分からない……ここは二階食堂の小さな座敷席、流れるのは七拍子の津軽三味線ジャズ、上座に腰かける彼女のレンタルした和服の帯は緩みかけで、二体の芸者ドロイドに囲まれて女体盛りを平らげたところだ。

 液晶障子に映る竜宮城の桜吹雪には、愉快犯のメールボムが炸裂して一部がブルースクリーンと化していた。Reia000042bXが障子の差込口に追加料金の500$を挿入すると、施錠音、部屋を覆う液晶の光が赤青の猥褻な揺らめきに変わる。芸者ドロイドが奥の押し入れから布団を取り出してくる。サシミ食ったあとサシミ乗ってた女を食うなんて聞いたときは正気かと思ったが、どうやら本当に始まるようだ。海中にブロック状の数字列が墜落してきて、無粋な制限時間のカウントダウンが始まった。芸者ドロイドが左右から海藻の匂いがする体液を拭き、白いなめらかな肉の上からReia000042bXの金髪が折り重なる。帯が解かれ、手が下に伸びて……

 画面に刃先の亀裂、青黒い液の漏れた先から障子いっぱいに縦縞の線が走る。刀はそのまま振り下ろされ、差込口の隣にあった錠前を斬り裂き、障子を部屋の中へと倒した。廊下に立っているのは、ダークスーツの腰に吊られた鞘のシルエットが逆光に閃く、《ラストサムライ》の山下健吾だ。とっさに畳を転がるReia000042bXが、振り下ろされた日本刀を女体盛りアンドロイドの胸で受け、山下の足の隙間をくぐり抜けて、廊下へと転がり出る。アンドロイドの肩を蹴り、胸に刺さった刃を抜いた山下が廊下へと走ると、Reia000042bXはお盆を運んでいる一体の芸者ドロイドの背後に隠れていて、両者は向かいあった。

「人質のつもりか」

 小声で、「侵入、Root権限――」激しいまばたき、Reia000042bX左眼の角膜にソースコードが流れる。芸者ドロイドの機孔脊椎から左手を外す彼女の、手中から伸びる銀色の管が体内に吸い込まれた。顔を俯かせていた芸者ドロイドが、ゆっくりと、白いまぶたを開く。巨大な瞳孔には、何も反射していない……

 刀を構え、接近してくる山下健吾を見すえるReia000042bXの後頭部、髪の中、換装擬脳の長方形の緑ランプが光った。振りかざす山下の周囲から、一斉に、液晶障子を破った芸者ドロイドの大群が襲いかかってくる。「フルコースを楽しみな!」芸者ドロイドの無数の視界は山下健吾だけを赤く区切っている。新規に上書きされた処理情報は〈調理対象:最優先〉。座敷の障子が倒れ、女体盛りアンドロイドに跨っていた樽のような下半身の男が、部屋を飛び出す芸者ドロイドを呆然とした目で追いかけるが、やがて輪切りにされた簪付きの頭が彼のもとに飛んできて、鉛色の液を畳に吐いて部屋の隅に転がりながら「ようこそ」と言った。

 振袖の着くずれを直しながら歩くうちに、Reia000042bXの背後にある廊下の曲がり角から、騒音が聞こえなくなった。だが……またしても、淡緑色の髪束がこめかみへ回り込み、彼女をふり向かせようとする。揺らめく黒い影が、足音を立てないように、まっすぐこちらを向いたのが分かった。サイボーグ的な第六感でもって、Reia000042bXは確信に至る――ドロイドたちは殺り損なった。山下は生きている。だが肝心なのは、こちらが気づいていることに、向こうは気づいてないはず、ということだ。廊下の端からこちらまで、距離は20メートル。まっすぐ来るしかないだろう。ここの床板は軋む。足音が鳴ることを防ぐことはできない。

 それが合図だ。出合い頭に殺してやる。

 Reia000042bXは、和服の帯に挟んでいたサージ・ガンを取り出した。

 足音。一気に踏み込んできた。すかさずふり返ったReia000042bXの左手首の牡丹柄の振袖には、日本刀が食い込んでいる。斬り抜かれ、背中を反らすReia000042bXの首すれすれを切っ先がきらめいて、サージ・ガンが握られたまま廊下に落ちた。床にぶつかった銀色の腕輪が金属音を立てる。右手だけで後方へ倒立回転、着地した彼女を山下健吾が容赦なく追う。反射神経だけを信じ、Reia000042bXは倒立回転を繰り返したが、突き当りの壁に激突して飾られていた古伊万里の皿を台ごと叩き割り、立ち上がった彼女の首元へ、刃が迫った。

「山下」Reia000042bXが叫んだ。「お前の負けだ!」

 彼女の白い首の動脈を裂こうとしていた刀が、直前で止まった。

 山下健吾は不思議そうな顔をした。

「なぜだ?」覗き込む。「嘘を言ってる顔には見えない。だが――」

「どう見たって、ちょっと動けば殺せそうに見えるんだろう」壁に追い詰められたReia000042bXの首は、山下健吾がほんの少しでも体重を乗せれば、ギロチンが落とされる状態にある。「こっちの切り札が何か、想像もついてないはずだ」

「このフロアのドロイドはすべて破壊した。そんなものに期待してるのか?」

「まさか――同情するよ。自分が死ぬ瞬間、何が起こったか分からないなんてね」

「どういうことだ」

「ふり返れば分かる。ほんの一瞬だ。すべての答えはそこにある。

 ふり返らなければ、君の頭に浮かんだ最後の疑問は、永遠に謎のままだ」

「その手に乗るか」柄を強く押し、Reia000042bXがより壁際に詰められた。

「ヒントを出そう。君の手首」

 山下健吾は眉をひそめる。やがて、「ハッタリだな。何も起こってない」

「まさにそれだ。何も起こってないことが問題なんだよ」

 Reia000042bXは、斬り裂かれ、白濁した血を垂らし、手首から先がない左手を眼前に持ち上げた。「私の手首は腕輪ごと斬られた。切り落とされた手首に生命反応があるはずがない。なのに、君の腕輪には、私の死を示すヴァイブレーション通知が来ていない。つまり――」

 山下健吾は、とっさにふり返った。その途端、彼が見たのは、振袖に乗り上げた姿で床に転がっている、サージ・ガンを握っている小さな手――その人さし指が、引き金を引く瞬間だった。

 銃口から強烈な青白い電流が迸り、山下の脳天を貫く。噴出した脳漿を壁に擦りつけながら、ゆっくりと倒れていく山下健吾を彼女は見下ろした。「私の手は、生きている」五本の指を繰って、片手が廊下をフェイスハガーのように滑ってくる。「ふり返りさえしなければ、君の勝ちだったよ」

 足元にやってきた左手を装着した彼女は、両手を伸ばしてあくびをした。

「おなか空いたな……」

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