殺しの楽園(06)451事件
腕輪からヴァイブレーション通知。またしても赤いランプが一つ消えて、フリップが眼鏡越しに「《老師》がやられた。また《銀星》」と言った。猫王は棚から折りたたみナイフをつかみ上げた。「これにする」
「なんで」
「小さいし、安い」
「奢ってやるから」ヴァニティが札を握らせる。「もっとましな理由言ってくれ」
レジに向かう二人。李龍仙はいったんMP7から手を離した。ナイフの隣に投げ置かれたドル札に彼が手を伸ばすと、猫王が李龍仙の左手首のリストバンドをつかみ、素早くめくる。銀色の腕輪が現れた。
途端、机のナイフに互いに手が伸び、猫王のほうが速かった。
刃をひらき、次の瞬間には李龍仙の膨らんだ腹の中へと突き刺している。内部に食い込ませ、逆手で引き裂くと、黒いTシャツの裾から革風船がすべり落ちた。裂け目から小さな切り傷、腹筋が見える。素早いチョップでナイフを叩き、床に落とした李龍仙が、MP7サブマシンガンに掴みかかったとき、猫王の肩をつかんだヴァニティが彼女を通路の側へ押しやる。
廊下の影へ走り逃げる二人を追って、連射された弾痕がシャワーのように壁に広がった。背後のビーズカーテンが千切れて、足元に小気味よい音を立てながら散らばる。「どうして気づいた?」ヴァニティが言った。
「手から血の臭いがしたのに、傷跡が見えなかった。リストバンドで隠れてるのかと思ったら――」
「腕輪があったと」
「残念だが、パージ・デモナコは死んでるな」
「ナイフは持ってきたよな?」
首をふる。「そっちが拾おうとする途中で引きずったんだろ」
「助けてやったのに、なんだその言いぐさ。こっちはちゃんと武器あるぞ」
立ち上がりながら、ヴァニティは堂々とテニスラケットを構えた。
「それが武器?」
「文句あんのか」
「あれだけ最新鋭の銃器がずらずら並んでる中で、一見した限りではもっとも戦闘力が低そうな武器を選んだのには、どれだけの戦略的判断が必要なのかという点が、少々気がかりでね」
「別にいいだろ。高級品だぜ。ほら、サインも付いてる」
「誰の?」
「知るかよ」
「ワーオ。高級そう」
曲がり角の向こうの店内から「騙されんぞ」との声がした。「小芝居はやめたまえ」
「アラビア文字かな、これは……」
「よく見ろ。ただのマジックの汚れだ」
ここでフリップが口を挟む。「ベンウェイ・バロウズの特ダネが入ったよ」
「それどころに見えるか?」と猫王。
「ありゃ」〈ブルー・ハワイ〉の液晶を見た。「電話してて気づかなかった。李龍仙ね」
「何やってる、あいつ」
「使えそうな武器を物色してる」
「アドバイスは?」
「さあ。逃げたら?」
猫王のそばに耳をぴったりつけるヴァニティが「参考になる」と言った。
「待って、逃げないで! いま、手榴弾のピンを抜いた。あっ、でも、どうなの、逃げた方が……」
話の途中で、ヴァニティが通路の物陰から飛び出した。李龍仙の投げてきた手榴弾めがけてラケットを振り抜き、鋭いレシーブを返す。Tシャツ男へ跳ね返っていく放物線の途中で火球が爆裂し、赤黒い肉片が吹き飛ぶと、事務机が爆風に押されてガラス窓を叩き割った。
突き出した机の下から、透明な破片を突き抜けた〈キューブ〉が地上へ墜落していった。無人のプールにぽちゃんと落ちて、水膜に小さな電撃を放ち、やがて、底に沈む。
ヴァイブレーション通知と共にナイフを拾った猫王は、あらためて「特ダネ」について聞いてみた。
「〈451事件〉での情報屋に当たってみた」とフリップ。「ベンウェイは死刑執行の二日前、心臓麻痺で死んでるんだ。でも大っぴらには公表されてない。〈地下懲罰房〉は存在しないことになってるし、職員の不手際が原因らしくてね。で、表向き、死刑は延長。ここまではありそうな話だ」
「そうかね」
「続きがある。ムショの噂じゃ、霊安室からベンウェイの死体が忽然と消えたんだってさ。どういう意味かは分かるでしょ?」
「完成したってことか」
「もしかしたらね……」
猫王は、ドアの向こうにすごすごと消えていったヴァニティを追った。部屋の奥から死臭が漂ってくるベッドの中で、ふてくされて寝っ転がりながら、ヴァニティはパージ・デモナコが食べかけで放っておいたコンソメ味のポテトチップスをもりもりと口に詰め込んでいた。「知らねえ奴を殺しちまった」ヴァニティは言った。「俺はいつもこうだ。生きてるだけで周りを不幸にする。疫病神なんだ。だからあいつも……」
「悪いのは〈千年同盟〉の奴らだ」
「そいつらの島に守られてきた! この島がどんな仕組みで動いてるのか、考えたこともなかった! 平気な顔で〈イベント〉に賭けて、のんきにビールばっか飲んで……」
「いつかここに核を落とそう。その前にやるべきことがある」ドアの外へ手を引きながら、「ベンウェイの部屋に行くぞ」
「あいつ、もう死んだろ?」
「そのまま死なせとこう。安全でいいじゃないか」
「行くのはいいが、何のために?」
「二人で生き延びるためさ」猫王は、ふり返った。「突破口が見つかった」
ヴァニティは焼け焦げた事務机に手をついて「ふむ」と言った。
その途端、バランスが崩れ、傾いた机が窓のあった空隙を越えて一気にすべり落ちた。プールに張り出した飛び込み台の長板に激突したあと、やんわりと跳ね上がり、またしても水面を突き破る。何もない床に倒れたヴァニティは、そのまま平静を保っているような顔をして、無言で肘をつき、ポテトチップスを食べた。
移動中、猫王はかいつまんで説明する。〈451事件〉とは、秋葉原の地下鉄で起こったある未解決事件のことだ。事件当日の四時五十一分、ドアが開いて、ガスマスクをかぶった妙な男とすれ違いつつ最後尾の車両に乗り込んだ人々は、電車内で仕草を凍りつかせている乗客たちを発見する。吊り革に腕時計がかろうじて引っかかっている者、顔面を押しつけるガラス窓からなにやら赤い泡を垂らしている者、床に倒れ込んで左足首だけを小刻みに動かしている者、誰もが眼球から、赤い液を流して死んでいた……賢明な乗客たちはこの車両をこっそり離れ、いくつかの写真がSNSに放流されただけで、誰かが駅員に通報して電車が止まるまでには二駅分の時間が必要だった。その頃には、名もなき犯人は監視カメラの網目を振りきってどこかへ消えていた。
ベンウェイ・バロウズの名前が浮上したのは、被害者たちの脳をポタージュ状に溶かした毒物を調べていたときのことである。神経科学、脳科学、生物学の裏の権威であるこの科学者は、これまで分かっているだけでも七件の生化学兵器テロに関与した疑いが持たれていた。〈451事件〉で使用された毒物は、以前にベンウェイ・バロウズが取引していた商品と化学式の組成が酷似していたのである。身柄を拘束された日、彼は日本の刑務所で、覚醒剤取締法違反で逮捕されたティモシー・ネオという大学時代の同級生の男と面会していた。事件当時の彼の足取りを追ううち、ティモシーに対して〈Saurian X-47〉という薬を作ることを約束していることがノートパソコンの記録から分かり、スター・フォースはこの件も調査していた。だが、証拠不十分。ベンウェイ・バロウズは別のテロ事件のことでドイツのロベルト刑務所に引き渡しとなり、そこで死刑を言い渡された。だが、そいつが心臓麻痺で死んだのなら、この島にいるベンウェイは、いったい誰なのか?
「いつまで食ってんだ」ところ変わってイーグルス・ホテル上層回廊、ベンウェイ・バロウズの南西部屋のドアの前。ヴァニティはまだポテチを食べている。
「食欲の湧く話題だったもんで」空っぽになった袋を床に投げ捨て、銃を構えた。「でも、いまの話、俺らがこの部屋を調べるのと、なんか関係あったか?」
「そこが微妙でね」
「というと?」
「君が肝心なところを知ってると、この作戦は成功しないかもしれない」
ヴァニティはドアを蹴飛ばし、中に入った。「そうやって自分だけ頭がいいふりしてろよ」
大きなベッド、豪華だが生活感のない調度品の隙間を歩いていくと、カーペットに飛び散っている血液を発見した。一面のガラス窓へふり返ると、水平線が一望できる。ちょうどドローンが覗いていた構図の切り返しだ。抜けるような青空を背景に、無音の爆発のような嵐雲が奇妙な立体感で渦巻いている。天気が崩れかけていた。ふり返った猫王は、「ここで《銀星》が撃った……」指の銃を向けた先、マホガニー材の棚の上には、撃ち抜かれた金色の置時計。映像ではこの先が見えなかったが、逃げ道は一方向しかない。廊下を曲がって、窓の外の視界から外れると、床にはまた血痕。ひとつひとつ追いかけながら、猫王は部屋を進んでいった。
辿りついたのは、マグリット的とも思えるほど巨大な白い金庫の前。三メートル四方はあり、どうやって室内に入れたのか分からない。猫王はキーパッド付きドアの下端を指した。「血が途切れてる」
「ベンウェイはここに逃げて」白い壁に連なる銃痕を撫でる。「中で死んだわけだな」
「こいつを開けよう」
「なんで?」
「クリアの鍵はここにしかないんだ。フリップ!」しゃがんで、猫王は金庫の下部に貼られている銀色のシールを確認した。「ナジュム・ダウ・ダナヴ社製金庫、型番00279542BTT」
ラップトップを操作したフリップが、データベースを検索する。
やがて、「内部電力供給システム付きだ。開くには、指紋と一分以内のパスワード認証、入力は三回まで。それを越えたら業者呼んで一週間の身分証明手続きしないと開けられなくなるよ」
猫王は左足の靴を脱いだ。靴底を回転させ、中の空洞からゴム手袋、小型ALS科学捜査ライト、クリーム色の人工皮が入ったビニールの小袋を取り出し、手袋を装着しながらヴァニティに電気を消すように言う。猫王の背後でスイッチを押す音。ライトのフィルターを組み替え、ドアにあるパネル付きのQWERTY配列キーパッドを照らした。黒いプラスチック壁面に付着している血液が、黄緑色に輝く。小袋を開け、人工皮を鮮明な指紋の一つに乗せた。しだいに水分情報を読み取って、皮表面に細かい襞が現れてくる。
血の指紋がついているキーを、猫王は順番に読み上げた。
「E・R・T・U・I・O・S・C・N」
「その組合せか。ちょっとしたパズルだな」ヴァニティが言った。
「ほんの36万2880通り」暗算したフリップ、「〈ちょっとしたパズル〉を楽しむよう言っといて」
猫王が眼鏡を小突いて「フリップが、君もやろうってさ」とヴァニティに言った。
「おう。パズルは好きだ」
「調子のいいこと言ってるみたいだけど、僕がパズルで負けるわけがないんだよね」
「俺に任せとけ。島にやってきたとき、暇すぎてクロスワードばっかやってたんだ」
「ヴァニティってクロスワードとアナグラムの違い、ほんとに分かってるのかな。箇条書きされてるヒントなんかどこにもないんだよ? あ、これ質問じゃないから、読み上げないでいいからね。僕は総当りでいく。探索プログラムを組んでるところだ」キーを叩く雪崩のような音。「オタク特有の大人げない勝ち方ってものを見せてやる」生成された文字列がマトリックス的な墜落でウィンドウを勢いよく流れていく。
「こういう長い単語は -tion じゃないか? すると、残るE・R・U・S・Cで……」
「辞書ファイルから関連度の高い文字列を出力――」やがて、フリップはエンターキーを叩いた。「OK。可能性のある文字列は727通り。そのうち、一単語になってるのは3通りだけ。
Cretinous(クレチン病)、
Neurotics(神経症)、
Countries(国)。
ベンウェイの経歴を考えれば、最初の二つだろうね。じゃ、僕の勝ちってことで」
猫王は指紋をコピーした人工皮を剥がし、指紋認証パネルに乗せて、手袋を脱いだ指で裏から押さえた。指紋が認証され、金庫から「60秒以内にパスワードを入力してください」との音声が流れる。
「もう解けたのかよ」ヴァニティが聞いた。
「らしいよ」
Cretinousと入力。嫌なブザーが鳴った。
Neuroticsを続けて入力する。
金庫から返ってきた音声は、二度とも「パスワードが違います」。
「あと一回だぜ」残り時間は40秒。「なに入れようとしてる?」
「Countries」
「おい、フリップ!」ヴァニティは眼鏡に叫んだ。猫王とフリップが同時にのけぞる。「金庫のパスワードにCountriesなんて使う奴がいるかよ。国だぞ、国。アホか。こういうのは大概、気の利いた風の意味ありげなフレーズで、金持ちどもが自己顕示欲を満たしてるに決まってるんだ」
「悔い改めよ、殺し屋ちゃん。チクタク・チクタク……」
「待って」突如、薄目になってキーを眺めていた猫王が叫んで、ALSライトをもう一度当てる。「指紋が重なってる。複数押されてるキーがある」RとEを指す。「Rが三回、Eが二回……」
「まじか」〈ブルー・ハワイ〉車内が再びキーボードを叩く音に満たされる。
「ヴァニティ、さっきなんて言ってた? 語尾が……」
「えーっと、-tion ?」
「残り5秒」
猫王が一気呵成にパスワードを入力、確定ボタンを押す。巨大な包丁を叩き落とすような金属音が内部から聞こえた。そして、静かになった。猫王がゆっくりとドアの取手を引いてみると、ガスの抜けるような感触、隙間から白煙が漏れてきた。LED照明が点灯され、部屋の行き止まりに白い空間が出現する。血液が水たまりになって、奥の床へ続いていた。曇った眼鏡を裾で拭いて、「ヴァニティの勝ち」と猫王が言った。
「で、答えは?」
「Resurrection」眼鏡をかけ、金庫の中へ踏み込む。「〈復活〉だ」
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