個人部屋

【書き方】文末の表現をどのように選ぶのか

 先日ツイッターで、文末がそろっていると気持ち悪いと思っていたけれど文豪の作品を見るとそんなことなかった、力量だったんだというような発言を拝見しました。少しくすりとしてしまうような言葉選びで微笑ましく思いながら、わかるなあ、というのが個人の感想ですね。

 自分が文豪と並ぶなんてとんでもない意味ではなく、ただただ個人的な感覚で、文末はさほど問題ないという思想だったので非常に好ましく納得したのを覚えています。


 よく文末が揃っていて駄目だ、というのを自作他作問わず言う方がいらっしゃいますが(自作は好きに言っていいとは思いますが、あまり他作にその基準は好みません。が、その件についてはあとで記述したいと思います)、実際のところ文末だけが問題ではないと私は思っています。だってそう、それは非常に些細な、目に見えやすい違和感でしかないと思うのです。


 そもそも文末、みなさんはどのような意図で行っているでしょうか?

 人によりけりなのでこれは好みでいいと思っています。ただ私個人としては、「貴重な読み手の時間を操作できるもの」として用いています。そういうわけで私自身、文末は基本的に連続しやすいです。それが合う・合わないは個人の物ですし、技法について勉強していないので実際のところどの程度私の意図が叶っているかは不明ですが――そうですね、簡易ですが文末の表現について拙作から抜粋させてください。

 地の文章が多い人間なので、面倒でしたら「――引用ここから――」「――引用ここまで――」を飛ばしてもかまいません。必要箇所を抜き出しながらお話ししますので。


――引用ここから――

 改めて日暮をきちんと見る。平塚の眉は凛々しいというのが相応しいような形をしていたが、日暮は本当に普通、というのが見合っていた。横須賀のように下がった気の弱い形でもなく、かといって主張が強いわけでもない。その下、眼鏡の奥の瞳は真っ黒だ。睫は少し短く、瞳に影をあまり落とすこともない。カメラのレンズのように光を取り込んで黒に変えてしまうような瞳は、山田が言うように感情を読みとりづらいものがある。少し下瞼のあたりにたるみがあるが、年齢からしてそこまで違和感のあるものではないだろう。むしろ会話や視線が動く度、下瞼がなにも動かず瞬きくらいしか見て取れない方が違和感なようにも思える。

 首は体躯に見合ってがっしりしている。喉仏や首の骨のラインが少し浮き出て見え、きっちりと閉められた襟元には濃紺のネクタイ。スーツ自体は少しくたびれているようだが、体に馴染んでいると言って問題ない程度だろう。

 そうやって眺めていると、ふと、日暮の視線が横須賀から外れた。どうしたのかと視線を追いかれば、日暮が山田の方に向き直ったのがわかる。

「彼は相棒か」

 のっぺりした問いかけに、山田が日暮を見、横須賀を見る。相棒、という言葉に落ち着かない心地で横須賀は鞄の紐を握った。

「ああ、まあそんなところです。使い勝手は悪くない奴ですよ」

 山田の言葉に倣うようにして横須賀が頭を下げる。名前を、と思い口を開こうとした横須賀は、しかし横須賀の方を再度向いた日暮に言葉のタイミングを失う。

 改めて頭の先から足の先まで横須賀を眺めた日暮は、山田をもう一度見下ろして浅く頷いた。

「どうしたんですグレさん」

「いや」

 平塚の言葉に、短い否定が返る。横須賀と山田のような身長差はないものの、横須賀の猫背と違い通った背筋が日暮の背丈と山田の背丈の違いを強調するようだった。

 三十センチ近く身長が違うのにそれでも飲まれないのは山田の強さだろう。二人の様子を見守っていると、日暮は特に感情を含ませることなくパカリと口を開いた。

「随分愛らしくなったな山田」

「相対物で大きさが違って見えるから出世しないんですよ刑事さん」

 日暮の抑揚のない言葉に、ぶ、と平塚が思わずと言った様子で噴き出す。山田の声は日暮に合わせるように平坦だったが、しかし呆れた調子も含んでいた。

 あいらしい、という言葉を復唱し、横須賀は山田を見下ろす。愛らしくなったというのなら以前と違うところがあるということだろう。横須賀は以前を知らない。山田を観察するように見下ろす横須賀を見て、山田の眉間に皺が寄った。

(『探偵 山田太郎と記録者 横須賀一の物語』第二話「うつわ(後編)」より抜粋)

――引用ここまで――


 どのように感じたかは個々のものだと思いますが、おそらく進行形と過去形のバランスで言えば進行形が多く感じられたのではないでしょうか。

 実は例としてあげるならもっとわかりやすいシーンがあるのですが、少々過激な表現を含むためこちらの表現にしました。一応こちらも同じような文末が揃っていると思います。

 この表現で違和感を覚えられた場合は多分文章との相性でしょうね。あくまで私はこの表現だと違和感がない、という形で話を進めるので話半分かこちらのページを閉じていただけると幸いです。


 さて上記の表現、私には違和感がありません。なぜかというと、文末に意味があり、その意味を私は好んで用いているからです。先に申し上げました「読み手の時間を操作できる」ですが、言葉を言い換えると私は「カメラの動きを操作するもの」として用いています。実際どこまで読み手の時間を操作できているかというと読み手の感覚なので言えませんが、書いている人間の意図としてはカメラ操作ですね。


 ある意味では今更な言語化かもしれませんが、一個ずつ追いかけながらお話します。興味のある方はこのままお付き合いください。


『改めて日暮をきちんと見る。平塚の眉は凛々しいというのが相応しいような形をしていたが、日暮は本当に普通、というのが見合っていた。』


 この二文では、「見る」「見合っていた」で進行形過去形でつながっています。ここで一拍間を作っているのが、私の感覚です。カメラが日暮に行き、こういう人だ、という感想を一個。この人物は普通ですよ、が言いたいことでしたので、一度一呼吸。


『横須賀のように下がった気の弱い形でもなく、かといって主張が強いわけでもない。その下、眼鏡の奥の瞳は真っ黒だ。睫は少し短く、瞳に影をあまり落とすこともない。カメラのレンズのように光を取り込んで黒に変えてしまうような瞳は、山田が言うように感情を読みとりづらいものがある。少し下瞼のあたりにたるみがあるが、年齢からしてそこまで違和感のあるものではないだろう。むしろ会話や視線が動く度、下瞼がなにも動かず瞬きくらいしか見て取れない方が違和感なようにも思える。

 首は体躯に見合ってがっしりしている。喉仏や首の骨のラインが少し浮き出て見え、きっちりと閉められた襟元には濃紺のネクタイ。スーツ自体は少しくたびれているようだが、体に馴染んでいると言って問題ない程度だろう。』


 ここまでで一区切り。長いですね。私の話は「描写されたことがそのまま推理ショーに使われる」ことがあるので、描写は多めです。少ないと違和感をもたれてしまうので、木の葉を隠すなら森の中という感じに関係ないものも多くなるのですね。

 そういうわけで段落分けがあまりないです。ここ読み飛ばしてもいいよ、という意図を込めて文章を固めたりします。読み飛ばしてもいいけどあとで推理に使うかもね! という混ぜ方もしますが、一カ所だけでは浮くので全体的にそんなかたちです。


 さてそういう中なので、最初の段落はカメラがぐーっと日暮の描写でずらずら並んでいます。過去形を挟まず、ない、だ、ない、ある、だろう、思える。なんとなく「ない」はテンポのいい言い切り、「だ」は少しテンポがそれより遅くなるものの過去形より早く、「ある」はだと似た感覚。「だろう」で少しだけテンポが遅くなって、「思える」に流れるように見ています。速度感覚は個人のものなので、私の心地よさですよ、念のため。


 顔の描写を終えた、との宣言で段落を変えて、さくさくと日暮の体格描写。段落で宣言をしていますが進行形のままカメラは止めません。必要ないですしさーっと流します(個人の感覚です)。


『そうやって眺めていると、ふと、日暮の視線が横須賀から外れた。』


 ここでようやく過去形が入りますね。「外れた」という視線でカメラを止めるわけです。ここで「外れる」ってしてしまうと個人的に流されすぎてしまうので、見ていた日暮の所作で一度間を空けたほうが心地よいな、という感覚でした。


『どうしたのかと視線を追いかれば、日暮が山田の方に向き直ったのがわかる。

「彼は相棒か」

 のっぺりした問いかけに、山田が日暮を見、横須賀を見る。相棒、という言葉に落ち着かない心地で横須賀は鞄の紐を握った。』


 流れるように日暮が向き直り、台詞で少しだけ人の意識がここで止まる、ような気がします。個人的に「」は地の文がずらずら並んでいる時は余計目が止まりやすい気がするんですよね。そうして山田の所作をさらっと流して、横須賀の鞄の紐を握る手を注視させる心地の過去形。


 さらっと順繰りに説明しましたが、私はこんな感覚で文末を使っています。といっても書きながらそんな細かいことを考えているわけではなく、こういうほうが心地よいなあという感覚で全部流れでやっています。書いている手を止めるよりも進んだ方が私にはあっているので、考えながらよりかは心地よさで、その心地よさの理由が上記のような流れではないだろうか、と思っているのです。


 ではなぜこんな言語化をしているかというと、「なぜかをわかっていた方が、校正する時自分の指針にできるのではないだろうか」というのが理由です。


 たとえば先ほどの文章の中ですが、


『山田の言葉に倣うようにして横須賀が頭を下げる。名前を、と思い口を開こうとした横須賀は、しかし横須賀の方を再度向いた日暮に言葉のタイミングを失う。

 改めて頭の先から足の先まで横須賀を眺めた日暮は、山田をもう一度見下ろして浅く頷いた。』


 これ、私には気持ち悪い、と感じられます(私にとって、です)。なぜかというと、「頭を下げる」は流していい所作ですが、「タイミングを失う」は、ここでカメラを止めたい、と少し思えたからです。日暮に対して言葉のタイミングを失うような状態は、は、と少し横須賀自身に間が出来る――読者にも間を持って欲しいかな、という感覚ですね。


 そうすると上記の場合、「タイミングを失った」という過去形が心地よいでしょうか。しかしその場合、一回止めた後の一行『改めて頭の先から足の先まで横須賀を眺めた日暮は、山田をもう一度見下ろして浅く頷いた。』が気持ち悪くなります。

 なぜでしょうか。私個人としては、失った、と一度カメラを止めたのにその後の文章があまりに流暢で、一気に進みすぎるからだろうと思います。前後で合わせるとカメラの速度が止まったあとの急発進。がく、と足並みが崩れてしまう心地になってしまいます。

 なのでこの場合は「改めて頭の先から足の先まで横須賀を眺めた」と「山田をもう一度見下ろして」の箇所を分割する必要があるでしょう。しかしそうするとどうしても、横須賀の視点とカメラがちぐはぐで気持ち悪いままです。眺めた、で切ると主格が表示されずに突然変わります。しかし「日暮は」から始めると横須賀視点から急に日暮に切り替わりすぎてしまう。

 今直すなら「日暮の真っ黒い目が、つい、と横須賀の頭の先から足の先までを追う。横須賀がその視線に言葉を取り戻そうと口を開くのと、日暮が山田をもう一度見下ろして浅く頷くのはほとんど同じだった。」くらいのペースでしょうか。即興なので改善の余地はありですね……。難しい。


 これで良しとするかどうかはきちんと物語と向き合わないとこの場所だと難しいのでおいておきまして、でも、こういった形で基準があると私にとっては校正のとっかかりになるな、と思っています。自分がどういうテンポで、どこを見て欲しいのか。文末を変えればカメラの速度が変わります。変わった、ということは、続く絵の見せ方も先ほどと変わるわけです。

 個人的にこういう、「前後で意味が変わる、見え方が変わる」という流動性を文章で愛しているので、これは私にとって大事な基準ですね。


 なんだか私のことなんですが偉そうに見えていないといいなあと思っています。個人の楽しみ方です。なんども言いますが、これは人それぞれの基準だと思っています。たとえば文末を私のように流動性で用いる人もいれば、音の連なり、心地よさで用いる人もいます。変化を文末で見せる為のひとなんかは、最初の文末が揃いすぎると気持ち悪く感じてしまうかもしれません。どれがよい、ではなく、書き方は人それぞれ。物語それぞれなのです。

 そしてそもそもこの校正はマイナスを減らす行為でしかなく、プラスを作り出すものとは別です。考えて立ち止まるなら書ききった方が作品になりますし、読む人は結構気にならないと言う意見もあります。気になる気にならないもそれぞれ。ただ、書けば進むのは事実です。

 だからこそ何度も言いますが、これは一つの基準、私の指針でしかありません。


 そういう訳でこの場所は、私はこういう意図でやっていたんだなあ、おもしろいなあくらいの感覚で記述しています。言語化が好き、は、はじめにでも申した通りです。この語りを書くのは、私と文章の改めてお互い自己紹介をするような、向き合う心地がとても楽しく、ある意味では読み手の方にのろけているようなものかもしれませんね。

 だから何度でもいいます。文章、物語との向き合い方はひとそれぞれ。そこをわすれないでくださいね。


 なぜこう繰り返すかというと、先に少しだけ触れたように、私は他人の創作物に対して文末だけをとって指摘するような人間が好きでないのです(文末以外も同じくですが、今回は文末の話題なのでこちらでお話しします)。

 下記は私と文章ののろけ話でなく、なぜ文末だけの指摘が好ましくないのかという個人的主観であり、あまり人様に聞かせるようなものではないかもしれないものです。

 それでも言葉を綴りますのは、もしそういったことで自信を無くしている方とご縁があって、その方に貴方の文章は貴方のものですよ、が伝えられたら行幸だと考えるからでもあります。

 個人的な信条であり、文学の勉強をしていない趣味人間ののたまうことですので、問題ないかただけおつき合いください。非常に感情論な自覚もありますので……。




 さて私は文末だけを拾い上げて、他者の創作に口を出す人間がとても好きでありません。過激に言えば馬鹿か貴様は、と思ったりもします。

 なぜかというと先に述べたように、文末って結局使い方の一端でしかないんです。カメラの操作としましたが、その操作は実のところ文末だけでコントロールしません。

 先ほどの拙作の例ですが、文末を直した後、他の文末を直せばよし、ではない違和感だったのを共感いただけたでしょうか? いただけたいただけていないはおいといて、私にとっては文末を直すことは同時に他の映像を変えることです。それは、文末だけでは直りません。

 だから違和感というと、もしその違和感が「正しい」ものだとしても、文末が原因ではないケースも多いです。そしてそもそも違和感が「正しい」かどうかもわかりません。書き手の意図によって変わるからです。

 たとえば少女マンガのヒーローを書きたい人と少年マンガのヒーローを書きたい人の方向は同じでしょうか? 力量が追いついていなくそれらがどちらかわかりづらい場合、書き手の書きたいものと逆側を偉そうな顔で説明している自分がいないとなぜ言えないでしょうか?

 上達するためには物語の方向を把握し、向き合い、そちらに向かって歩いていく必要があります。それなのに「自分のルール」を他人に強要して他人の為としていないと言えるでしょうか?

 私はそういう、小さい部分でしか判断しない人が一等苦手です。物語を叩き潰す行為だとすら思います。

 そもそも教えるということは技術が必要な行為なのです。講師、評論家。どれも仕事として成り立つものを、あまり軽率に他人が出来るものと考えてしまうのは危険でしょう。


 だから何度も繰り返します。ここは私と物語のひとつの向き合い方で、貴方の物語は貴方と物語が向き合って、もし楽しそうと思ったら試してみて、同じだったらわかると笑って。それくらいでいきましょう。

 もし不幸にもそんな指摘があったら自分の物語をまず抱きしめてください。そこがきっと、貴方にとって大切だと思います。

 アドバイスとか他者の言葉は、自分の書きたいもの、に合っていたら試すくらいにのんびりするといいんじゃないかなあというのが個人的な考えです。まあこれも個人的なものでしかなく、趣味で楽しむ人間の言葉なので話半分で流して貴方の中で決めていただければよいですが。


 それにですね、先ほどもちらっと言いましたが、非常にどうしようもないことをぶっちゃけますとそもそも文末が気になる時点でおもしろさが書き手と読み手であっていない、貴方向けじゃなかったのね案件もあるので本当正解は難しいんですよねぇ……。

 まあとりあえず、そんなこんなの私にとっての基準と、ちょっとしたぼやきでした。

 おしゃべりしたくなったらまたなにか綴ります。ひとまず今日はここまで。


 気が向いたらまた覗いてお話を聞いてくださると、幸いです。


(2018/03/09)

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