Ⅱ 秘めた想い

 アドビスと結婚したリュイーシャは、彼の子供を身籠ったため船を下り、五才年下の妹リオーネと共にグラヴェール屋敷に住んでいた。


 彼女が屋敷に来る前まで、この庭は好き勝手に植物が生い茂り、手入れが全くされていなかった。


 無理もない。グラヴェール屋敷に住んでいるのは、現当主であるアドビスの父親と彼の二人だけ。母親は海軍のことしか考えない父親に愛想をつかし、十年前に若い愛人を作って王都ミレンディルアへと行ってしまった。


 しかも、この二人は海軍の軍人であるため、平気で半年以上屋敷を不在にする。庭のことなどにかまけている暇も時間もない。



『まあ綺麗。これは何という花かしら』


 この荒れた庭を散策し、雑草の合間に生えているエルシャンローズを見つけたリュイーシャは、いたくかの花を気に入った。


 そして自らの手を土まみれにしながら雑草を引き抜き、リオーネやエイブリー、時には屋敷に戻ってきたアドビスや、屋敷を訪れた私も、彼女の理想とする『庭作り』に手伝わされた。


 一月後。

 そこには色とりどりの花をつけるエルシャンローズの見事な庭園が完成した。


 適度に剪定された緑葉樹のお陰で庭園に光が入り、以前の鬱蒼とした闇は駆逐された。雑草まみれの地面には芝が植えられ、それはまるで青々とした海原を思わせる。その芝には、赤や黄色。紫や真珠色。エルシャンローズの亜種の花木が、島のようにバランスよく配置されている。


 そう。リュイーシャはこの庭に『海』を作ったのだ。

 遥か遠い故郷の島を思ってなのか。

 それともアドビスと共に船に乗れない寂しさを紛らわす為なのか。  

 リュイーシャの想いはなんだったのか。


 それがぐっと私の胸を締め付ける。

 庭園を歩きながら、私は思い出していた。

 リュイーシャと最後に過ごした、あの日の夜の事を。




 ◇◇◇



『今晩は。リュイーシャ』

『オーリン。あなたがいらしたということは、アドビス様は例の方の所なのね』


 私がリュイーシャを訪ねるのは、それが世間の暗黙の了解とされている礼儀――アドビスが不在だと確実に分かっている時だけだ。


 アドビスはひと月置きに、昔の女である『月影のスカーヴィズ』の所へ数日通っていた。ただしそれはエルシーア海賊の動向を知るためだ。


 この頃はエルシーア海の覇権を握ろうと、多くの海賊達がしのぎを削っていた時代だった。同業者を海軍に売ってまで――。


 私はスカーヴィズとアドビスの事をリュイーシャに告白していた。

 アドビスが屋敷に戻らないのに、副長である自分がリュイーシャを訪ねるのは、あまりにも不自然だからだ。


 下手に彼らの関係を誤魔化して、リュイーシャに心労をかけるくらいなら、アドビスは仕事の為にあの女海賊に会っていることを知っていた方がよかれと思ったのだ。


 否。

 それは、違うか。

 それは私がリュイーシャに会うための言い訳だった。


 彼女は海のように寛大な心の持ち主だっただけだ。

 すべての思いを――自分の本心さえも包み込んでしまうほど、広い器を備えた女性だっただけだ。


 海に見立てた庭園には、アドビスと座ることもあっただろう――二人がけの大理石で作られた長椅子が置かれていて、そこで何時も私とリュイーシャは語り合った。



『私は海に出られないから……あの方のお役に立てないのね』

『リュイーシャ。そんなことはない』


 あの夜。彼女は何時になく気落ちしていた。

 繰り返し、アドビスの役に立てない自分を責めていた。


 責めるべきはアドビスの不実な行為で、彼女に落ち度は何一つない。生まれたばかりの赤子を育てながら、船乗りの妻として、海に出ている夫の代わりにその留守を立派に守っているのだから。


 リュイーシャは俯いていた。滝のような淡い金髪が滑り落ちて顔を隠していたが、その合間から、白い頬がのぞいていた。

 そこに夜露のような雫がすっと伝い落ちていくのを見た時。

 私は律していた自制の糸が切れそうになった。


『私ならあなたに、そんな苦しい思いを一時たりともさせはしない』


 それがアドビスを愛する故に流されたものだというのはわかっている。

 わかっているからこそ、震える彼女の体を抱きしめて、その言葉が偽りではないことを、あの男以外に彼女を支えてやれるものが側にいるということを、心の底から伝えたいと切望した。


 だが私がリュイーシャに触れることはなかった。

 手を伸ばせばその肩に触れられる距離に座っていながら。

 白い月光に滑らかな輝きを放つその髪の一筋さえも。


 触れることはできる。

 けれどそれですべてが終わりになる。


 リュイーシャがアドビスの不在中に私と会ってくれるのは、友人としての節度を遵守しているからだ。

 それが破られればリュイーシャは屋敷の門扉を閉ざし、二度と会おうとしてくれないだろう。


 だから私は密やかなる彼女への思いを抱きつつ、しかしそれを口にはしなかった。その言葉を口にすることを、私自身が許さなかった。


 リュイーシャはアドビスの妻であり、今は母親でもあるのだ。

 私は己の気持ちを伝えるよりも、彼女の幸せな姿を近くで見ることを選んだ。こうして許された限られた時を、共に過ごすことができることを望んだ。


 けれどそれは望んではならぬことだったのか――。

 結局、リュイーシャはあの夜より三日後、帰らぬ人となる。


 アドビスと付き合っていた『月影のスカーヴィズ』のアジトを、海軍が内偵の結果突き止めた。

 リュイーシャは、それを急襲する計画を海軍高官のアドビスの父から聞いた。

 何と言う事だろう。


 彼女はアドビスとスカーヴィズにそれを知らせる為、風を吹かせてアドビスの元へと船で駆けつけてきたのだ。

 そして、海賊船に包囲されたアドビスを救うため、術者の禁忌を破り、その命を失ったのだ。


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