Ⅰ 庭園の記憶


 ◇


 死んだ人間に会うことはできない。

 けれどこの想いは――何処へ行くのだろう。


 

 エルシャンローズの青色い花々が咲き乱れる季節になった。

 楚々とした香りは、私の大切だった『彼女』の存在を――七年経った今でも鮮やかに、胸の内へ否応もなく呼び覚ます。


 きっと薔薇の香りに誘われたせいだ。

 私が「グラヴェール屋敷」を訪れたのは。



 ◇



「これはツヴァイス様。お久しゅうございます」


 屋敷の通用門で私を出迎えたのは、齢五十才ぐらいの執事だった。


「ちょっと近くまで来たものだから、寄ってみたのだ。元気そうだなエイブリー」


 執事は私の姿を頭の頂点から、足のつま先まで素早く見つめた。

 海軍本部を出た足で屋敷を訪ねてしまったので、私は濃紺のコートタイプの軍服に黒の長靴を履いた姿だった。

 けれどエイブリーが一番驚いたのは私の顔だった。


「眼鏡をかけられたのですか。ツヴァイス様」


 私は右手を銀縁の眼鏡の鼻当てに添えると、ゆっくりと頷いた。


「海上を長い時間見ていると、目が疲れるようになってしまってね」


「左様でございますか。海軍の仕事は我が主の方々を見ていて、その大変さは存じております。ですが、お体を損ねないよう、どうかご自愛下さいませ」


「ありがとう。久々に――グラヴェール少将閣下にお会いしたいと思って来たのだが」


「申し訳ございません。アドビス様は現在、艦隊を率いて海賊討伐へ出られており不在でございます」

 

 それがわかっているからやってきた。

 けれど私は少し残念そうに唇を歪めた。


「そうか。私も一昨日、アノリアの哨戒任務から戻ったばかりでね、知らなかったよ」


 そう呟きつつ、私の視線はグラヴェール屋敷の方を向いていた。

 あちらにエルシャンローズの庭園があるのだ。


 アスラトルの街でグラヴェール家の庭園は、エルシャンローズの隠れた名園として知られている。今日はわからないが、領民や王都からの観光客が、花を見にここまで訪れるというのを聞いたことがある。


「折角いらしたのですから、お茶でもいかがでしょうか。それにエルシャンローズが丁度見頃なのですよ。庭園でお待ち下さいませ――昔のように」


 私ははっとした。


「エイブリー」


 執事はさも理解したように頷いた。


「リュイーシャ様のお作りになった庭園は、エルシャンローズが咲くこの季節が一番美しいのです」



 リュイーシャ。

 その名前を聞いた私の心は、一瞬で七年前に戻った。

 あの頃の私は二十七才の海尉で、狙った海賊は必ず拿捕するアドビス・グラヴェールの船に副長として乗り込んでいた。


 リュイーシャはアドビスの妻だった。

 二十才という若い身空で彼と結婚したばかりだった。


 月影を映す長い金髪を海風に舞わせ、海の色と同じ青緑の瞳を持つ故に、彼女は海軍内で『エルシーアの碧海の乙女』とも呼ばれていた。


 リュイーシャは風を自在に操れる「術者」だった。それ故にアドビスの船に乗り、嵐や海賊との戦闘で艦隊の窮地を幾度も救った。


 崖に一輪だけ凛と咲く白百合のようなひとだった。

 そして、もう、彼女はいない……。




「それではエイブリー。お前の言葉に甘えてもいいだろうか。久々に彼女の庭を散策したい」


「どうぞ。リュイーシャ様もあなたのご来訪をお喜びになると思います」


 執事エイブリーは一礼し、母屋の方へと歩いて行った。

 その背を一瞥し、私は右手の庭園をそっと見やった。入口にはアーチ状に組まれた木材の上を、のたうつ蛇のように生い茂ったエルシャンローズが青白い花をいくつも咲かせている。


 少し冷たい涼やかな風が、ほんのりと花の甘い匂いを運んできた。

 私は庭園へと歩きながら、その香りと共に、今は亡きリュイーシャを思った。





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