【35】南に吹く風

 海面に浮上したリュイーシャとアドビスは、スカーヴィズのガグンラーズ号の甲板にすぐさま引き上げられた。

 リュイーシャは甲板で座り込んだまま空気を求め、激しく喘いでいた。

 その隣でアドビスが深海魚のように仰向けに横たわり、青灰色の瞳を見開いてリュイーシャの方を見つめていた。


「リュイーシャ」


 青ざめたアドビスの唇がゆっくりと動き、その名を呼ぶ。

 リュイーシャは顔をあげて我に返った。そしてアドビスが自分を見ている事に気付いて、思わずその体に取りすがった。


「アドビス様! アドビス様! 大丈夫ですか?」


 リュイーシャは手を伸ばしアドビスの頬に触れた。

 海に落ちたせいでリュイーシャの手もアドビスの頬も冷えきっていたが、アドビスは元気そうに唇を歪めて微笑した。


「私は大丈夫だ」


 リュイーシャはアドビスの顔を見て、一瞬どういう表情をしたらいいのかわからなくなった。嬉しいはずなのに何故か胸が詰まった。

 声がでない。

 目の奥が熱いもので一杯になり溢れてきそうになる。

 その時、リュイーシャはアドビスの首に見慣れた紐が巻かれている事に気付いた。黒い硝子状の小さな粒を、いくつも紐に通したもので光沢がある。


「これ……」


 リュイーシャはアドビスの首にかけられていた紐をたぐりよせ、ぶらさがっていた鱗のような形をした石を見て驚いた。

 どこかに落として無くしたと思っていた、少年水兵ジンからもらったあの首飾りだ。


「貴女が落としたのを、ハーヴェイが拾って私に渡してくれた。でも、この石が急に様々な色で光ったから、私は貴女に見つけてもらえたのかもしれないな」


 アドビスはそういって再び唇に笑みを浮かべた。

 リュイーシャはつるりとした石に触れながら思い返していた。

 石をくれた蜂蜜色の髪の少年を。


『姉ちゃんがおいらが海に出る時にくれたんだ。何の鱗かよくわからないけど、姉ちゃんは一度だけ願いを叶えてくれる、『お守り』だって言ってた』


 リュイーシャはぎゅっと石を握りしめた。

 心の中で『ありがとう』とつぶやいた。

 この石がなかったら、アドビスを見つける事ができなかった。きっと。



「それにしても、貴女が海に飛び込んでくるとは思わなかった。下手をすれば貴女だって溺れる所だったんだぞ」


 アドビスは体をよじり身を起こそうとしたが、その腕はまだ縛られたままになっている。リュイーシャは短剣を取り出して戒めをすぐに解いた。


「アドビス様を助ける事ができるなら、私は何だってやってみせます」

「リュイーシャ。貴女って人は……」


 アドビスは絶句して、どうしたものかというように、濡れて雫が落ちる金髪頭に手をやった。


「本当によくやったわ。アドビスを連れて帰ってくるか心配してたけど、大したものだわ」


 ブーツの靴音を軽く響かせて、銀髪の女海賊がリュイーシャとアドビスの前に歩いてきた。アドビスはスカーヴィズをちらりと見て、ふっと微笑した。


「手荒な方法だったが世話になったな。スカーヴィズ」


 スカーヴィズは『おや?』と眉間をしかめて、豊かな谷間を見せる胸の前で腕を組んだ。


「悪いけど、礼を言うにはまだ早いみたいなのよ。ほら」


 スカーヴィズはアドビスに後方を見るようにうながした。

 アドビスとリュイーシャはすっかり小さくなってしまったアノリア港の方へ顔を向けた。

 朝日に照らされ白く光る海を、ロードの黒い大型軍艦がガグンラーズ号を、そして先行して帆走しているフォルセティ号を追ってくるのが見える。


「……どうする?」


 スカーヴィズは判断をアドビスに委ねる口調で訊ねてきた。

 アドビスはゆっくりと立ち上がった。

 濡れた白い綿のシャツの裾を捲って水気を切り、両手をこめかみに添えてなでつけるように髪から海水を落とす。


「振り切れそうか?」


 スカーヴィズは小さく首を横に振った。


「無理だね。外海に出てしまったから、このままだと一時間後には追いつかれる」


 リュイーシャはそっとアドビスの隣に立った。

 一つの三つ編みにまとめた髪は水を吸って重く、スカーヴィズから借りたブラウスは肌に貼り付いてうっとおしく、着替えられるなら早く着替えたかったが、そんなことを考えている状況ではない。


「アドビス様」

「リュイーシャ。心配はいらない。向こうが仕掛けてくるなら、こちらも迎え撃つまでだ」


 振り返ったアドビスはマストのように長身で、その隣に立つとリュイーシャはただの幼い子供のように思われた。

 リュイーシャは青緑の瞳を細め、アドビスを見上げた。

 彼の後ろにはガグンラーズ号のメインマストがあり、四枚の青い帆が風を受けてぴんと張っていた。

 風はガグンラーズ号の左舷後方――南西から吹いている。


「私に、任せて下さい」

「リュイーシャ?」


 リュイーシャは徐々に距離を詰めるロードの『銀の海獅子』号を睨み付けた。


「ここはエルシーアの領海。リュニスの皇子には本国へ帰ってもらいます」


 アドビスが怪訝な顔でリュイーシャを凝視する。

 鋭い青灰色の瞳が『まさか』といわんばかりに見開かれた。


「本国って……」


 リュイーシャは両手を広げると、頭上へ高く高く掲げた。


 ――風よ。

  どうか、あの船を遥か遠き国へ連れていって。


 リュイーシャの体を取り巻くように空気が動いた。

 それは螺旋を描くように上昇し、リュイーシャの編まれた髪を一気に振り解いて辺りに四散した。

 バタバタバタ……。

 ガグンラーズ号の青い帆がすべてだらりと力なく垂れ下がった。

 風が絶えた。

 誰もがそう思った時、後方を帆走する『銀の海獅子』号に向かって、大きな大きな波が押し寄せていくのが見えた。


 白い牙をみせながら、大波はどんどんその高さを増し、船を飲み込まんと迫っていく。けれど大波は『銀の海獅子』号の下に潜り込むと、高々と船体を持ち上げて、信じられない早さで西へと運び去っていくではないか。

 『銀の海獅子』号の姿はあっという間に小さくなり、やがて青白い水平線の彼方へ消えてしまった。




 さわり。

 すっかり解けてしまったリュイーシャの長い金の髪を、すくいあげるように風が吹いた。

 再びガグンラーズ号の青い帆が、南西からの風を受けて膨らんでいく。

 リュイーシャは両手を頭上に掲げたまま目を閉じた。

 心の中に積もり積もっていた澱のようなものが、一瞬で昇華されたような大きな開放感を感じながら。

 だから自分の体が何時の間にか後方へ倒れていく事に気付かなかった。

 まるで空を漂っているように体は軽く気持ち良かった。


「リュイーシャ、大丈夫か?」


 声をかけられてリュイーシャは目を開けた。

 誰かが肩を掴んで顔を覗き込んでいる。

 リュイーシャは後ろから体を支えるアドビスに向かって微笑んでみせた。


「アドビス様」

「何だ?」

「私、ずっと思ってました。ロードが消えてくれたらいいのにって。だから、波で押し流してやりました」


 アドビスは困惑するように眉間をしかめていたが、リュイーシャの言葉を聞いて小さく笑い声を漏らした。


「……怖い人だ。私も気をつけなければな」

「えっ?」


 アドビスはリュイーシャの肩に手を添えたまま、身を屈めて小さく囁いた。


「また貴女に船を飛ばされないように」

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