【34】船底くぐり
「へぇ……リュニスのオジサン皇子様は、本当に品性のカケラもない野蛮人だね。アドビスを『船底くぐり』にするなんて、時代遅れもいいとこだ」
風に乗って海を疾走する青い帆の武装船は、月影のスカーヴィズの持ち船であるガグンラーズ(勝利する者)号だった。
スカーヴィズは一つに束ねた青銀の髪を波濤のようになびかせながら、望遠鏡でロードの『銀の海獅子』号の様子をのぞいていた。
「船底くぐり……?」
リュイーシャはロードの黒い『銀の海獅子』号を見つめながら、隣の舷側に手をついて、半ば身を乗り出すようにしてアドビスの姿を探した。
リュイーシャは長い髪を一つの三つ編みにして、スカーヴィズから借りた白いブラウスと細身の黒いズボンをはき、足は裸足になっていた。
アドビスをロードの船から助けるために、リュイーシャは単身、スカーヴィズの船に乗り込んでいたのだ。
スカーヴィズは海賊なので、その手下達も当然海賊だ。
彼等は皆、個性的な格好をしていた。てっとりばやい言い方をすれば、海賊稼業で手に入れた略奪品を好きなように好きな格好で身につけていた。
舵輪は大柄で背の高い、赤銅色の髪をした若い大男が握っていた。まるで熊のように大きくて、針金みたいに鋭い髭を生やしている。
男はちらりとリュイーシャの方を見たが、スカーヴィズが気をとられるんじゃないといわんばかりに睨み付けると、再び舵取りに専念した。
望遠鏡で様子を探りながら、スカーヴィズが言った。
「『船底くぐり』は、元は海賊が始めた刑罰なんだけどね。罪人の足に砲弾を括り付けて帆桁の端から吊るし、その縄の一方を前方――船首の船底から竜骨に沿って船の後方――船尾までくぐらせてから、吊していた方とは反対側の帆桁に回すんだ。綱を引っ張れば、哀れな罪人は海に落ちて、そのまま船の下をくぐり再び帆桁の反対側へ吊るし上げられる」
リュイーシャは『銀の海獅子』号を見ながら、その刑罰の残酷さにぞっとした。
「船の下って……ロードの船は約八十リール(1リール=1メートル)はある大型船。それだけ長く息を止めることができるのかしら」
スカーヴィズは望遠鏡から目を放して、小さく溜息をついた。
隣で舵を取る赤い熊の男が、リュイーシャに向かって説明した。
「お嬢さん。船底くぐりで溺れ死ぬ奴は運がいいんだよ。あんたは知らないだろうけど、船の底は貝殻やら海中生物がびっしりとはりついていて、いわば岩礁みたいになっている。そこをずりずりひきずられるんだ。船尾から引き上げられた罪人の体は引っ掻き傷だらけで、赤いボロ切れのようになるんだぜ。はははっ!」
「……ティレグ!」
スカーヴィズが赤熊の男の名を強い口調で呼んだ。
「や、すまねえな。船長。俺はこのかわいらしいお嬢さんに、『船底くぐり』の現実を教えてさし上げただけですぜ」
「……」
リュイーシャはぐっと両手を握りしめた。唇が震える。
「あの方をそんな目に合わせたら、私はロードの船を必ず沈めます」
「おお、怖い怖い」
舵輪を握るティレグはおどけたように肩をそびやかした。
スカーヴィズは望遠鏡をぴしゃりと折り畳んだ。
「リュイーシャ、そろそろ準備をして。間もなくロードの船に接近するから」
「はい」
リュイーシャはうなずいて、スカーヴィズと共に舵輪のある船尾楼から階段で下に降りた。
「ヴィズル! 銃と火薬を持ってきて!」
「はい船長!」
上甲板に下りたスカーヴィズは、そこで待機していた子供に向かって手を伸ばした。
リュイーシャはその光景に一瞬驚いた。
灰色がかった銀髪の小さな子供が、自分の背丈を遥かに超える長銃を持ってぱたぱたと走ってきたからだ。
年の頃は五、六才にみえるが、もっと幼いかもしれない。子供は褐色の肌に夜の闇を思わせる、深い青色の瞳を輝かせながら、得意げにスカーヴィズに銃と火薬の入った革袋を差し出した。
「よし。さ、危ないから、あんたは下に下りてるんだよ」
「うん!」
スカーヴィズはくしゃりと子供の頭を撫でて、小さな肩を押しやった。
子供はリュイーシャに白い歯を見せてにやりと笑うと、裸足で甲板を駆けながら、下に降りる昇降口へあっという間に姿を消した。
「寄せるぜ、船長!」
舵輪を握るティレグが一気に『銀の海獅子』号の右舷側へと近付づけた。
同時に、ガグンラーズ号の左舷側の砲門蓋が船首方向から順番に開く。そこからは配置についた手下達が、一斉に鈍色に光る大砲を押し出した。
『銀の海獅子』号は沖へ向かうフォルセティ号を追うため、ようやくすべてのマストの帆を展帆しだしたが、満足に広げられているものは一枚もない。
西風を受けても帆はそれらをはらむことなく、洗濯物のようにただはためいているだけだ。
けれどガグンラーズ号の接近に気付き、『銀の海獅子』号も一斉に右舷側の砲門蓋を開いた。
ガグンラーズ号の大砲がおもちゃのように見える程、重厚で破壊力がありそうな大砲が、足並み揃わぬ様子で一つ二つと外へ押し出される。
だがガグンラーズ号はそれにひるむことなく近付いていく。
その距離、三百リール……二百リール……百五十リールを切ったところで、スカーヴィズは発射命令を叫んだ。
「今だよ!」
ガグンラーズ号の大砲が一斉に轟き、それらは白い煙を周囲にまき散らしながら『銀の海獅子』号の甲板めがけ飛んでいく。
煙幕だった。
同時にスカーヴィズは、ガグンラーズ号の左舷舷側で銃を構え、アドビスを帆桁に吊り下げているロープを二本撃ち抜いていた。
『銀の海獅子』号に接近したガグンラーズ号は、もう一度煙幕を発射した後、そのままかの船を追い抜き、外海に向かって帆走を続けた。
◇◇◇
一方リュイーシャは、アドビスが吊されていた帆桁から海に落ちたのを見て、ガグンラーズ号の舷門からためらうことなく海へ飛び込んだ。
リュイーシャの腰には細いロープが括りつけられていて、その端はガグンラーズ号の後部甲板に設置されている巻上げ機に固定されている。
リュイーシャはただひたすら『銀の海獅子』号を目指して泳ぎ続けた。
――急がなくては。
アドビス様は両手両足を縛られていた。
あれでは満足に泳ぐ事もできない。力尽きたら溺れてしまう。
泳ぎは得意だ。潜水だって多分十分ぐらいまでなら頑張れる。
けれど夜明け前の海は、まるで故郷クレスタの北の浜の先にある、『海神の嘆き』と呼ばれる海のように青暗く、それがリュイーシャの視界を遮っていた。
けれど真夜中ではないので、朧げだがロードの『銀の海獅子』号の船体が黒く横たわる影のように見えてきた。
リュイーシャは懸命にアドビスの姿を探した。
――アドビス様。どこですか。
一体どこにいらっしゃるのですか!
リュイーシャは『銀の海獅子』号の落とす影の中を海底目指して泳ぎ続けた。心の中で何度も何度もアドビスの名を呼びながら。
暗い。
何も見えない。どこまでいっても青い闇しか見えない。
リュイーシャは気も狂わんばかりに辺りを眺めた。
もう少し港に近い湾の中なら、水深はさほど深くない。けれどロードの大型軍艦が座礁せずに浮いていられるこの海域は、きっと湾の倍――いや、それ以上の深さがあるだろう。
海に飛び込んでからどれくらい時が過ぎただろうか。
リュイーシャ自身も息苦しさを感じ始めた。限界が近付いてくる。
唇から漏れた息の泡がゆっくりと海面に向かって上がっていった。上はきらきらと白い光が小窓のように輝いている。
太陽が昇り始めているのだ。
だがそれが上がりきるまで、リュイーシャにもアドビスにも待つ時間はない。
――アドビス様! お願いです!
どこにいらっしゃるのか、どうか応えて!
リュイーシャはひたすら潜り続けた。
絶対にアドビスを死なせるわけにはいかない。
でないと自分は、本当に大切なものを永遠に失ってしまう。
この海の底のように深い深い悲しみに囚われて、二度と浮き上がる事ができなくなってしまう。それだけは、心臓の鼓動のように確信できる。
暗き水をかき分けて、腕に力が入らなくなるのを無理矢理動かし、リュイーシャはひたすらアドビスを呼び続けた。
そのうち、リュイーシャの右手にはめている海色の指輪が、いつしか小さな明かりを灯し始めた。まるでリュイーシャの祈りに応えるように。
母ルシスが海に帰された時、幼いリュイーシャは次代の巫女として認めてもらうため、海神の深い嘆きが沈む海へと落とされた。
あの時も指輪が導きの光を放って、自分の行くべき所を指し示してくれた。
――青の女王様。
私は島を離れてもあなたにお仕え続けます。
そして役を終えた時は、その魂をあなたに捧げます。
ですから、どうかあの方を私にお返し下さい。
返して下さい!
リュイーシャははっとした。
指輪の水色の光が一方向に収束して、矢のように足元の海底を指し示したのだ。
同時にその光を受けて、別の光が明滅した。
まるで一度に七色の輝きが放たれたような、とても眩しい光がリュイーシャの願いに応えるように光ったのだ。
リュイーシャは光を目指して潜り続けた。
七色の光は赤や白。淡い緑、紫と、変化しながらリュイーシャを呼んでいた。
その光はやがて海の底に沈みつつあるアドビスの姿をも照らしていた。
リュイーシャは一気にアドビスへ近付いた。
アドビスは縛られた両足を動かして泳ぎながら、同じく縛られた手首を口を使って解こうとしていた。けれど砲弾を括りつけられているため、彼の体はひたすら海底へと落ちていく。
リュイーシャはアドビスに近付いた。
指輪の光に気付いたアドビスが顔を上げる。
リュイーシャはズボンの上からベルトで固定してあった短剣を引き抜くと、一気に潜って、アドビスを沈めようとしている砲弾のロープを切り離した。
砲弾はみるみる海底の暗き闇へ吸い込まれるように落ちていった。
同時にリュイーシャの指輪の光はその明るさが弱まっていった。
そしてついにきらりと名残り惜しむように一度だけ光った。
その光の中で二人は視線を交わした。
互いの無事を確かめあうように、ただ見つめ合った。
『私につかまって下さい』
リュイーシャはアドビスの体を抱きしめ、腰に結んだロープを強く二度引っ張った。
これを合図にガグンラーズ号がリュイーシャの体を海上までひっぱってくれるのだが、二人の息はもうほとんど限界だった。
絶対に離さない。
絶対に死なせない。
執念にも似た思いでリュイーシャはアドビスの体に手を回したまま、ひたすら遠い海面に向かって泳ぎ続けた。
もう駄目かもしれない。何度そう思い、だがそれを否定しただろう。
リュイーシャの視界を闇が覆い、ちかちかと星が瞬いて見えた頃――。
リュイーシャの体を誰かが上へと押してくれたような気がした。
見えない手が子供をあやすように、やさしく――。
気付くとそこは波頭が煌めく海上だった。
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