【33】祈り


 危惧している事がある。

 彼女なら自分を助けるために、自ら『銀の海獅子』号へ来るかもしれないと。


『絶対に、来るな』

 東の空が白んでいく様を、アドビスは祈りながら見つめていた。




 リュニス近衛兵団長クライラスが来た時、反対にその身を拘束して『銀の海獅子』号をアノリアから退去するよう勧告してもよかった。

 だがアドビスは何の権限もない、いち海軍士官である。

 表向きは公表されていないが、リュニスの第二皇子ロードとアノリア領主は親交が厚く、そのおかげでリュニスとエルシーアの領海は互いに侵攻されることもなかった。よって重要な拠点港であるにもかかわらず、アノリアにはエルシーア海軍の常駐する軍艦は一隻も配備されていなかった。

 港はリュニス群島国向けの奴隷船が何隻も立ち寄り、彼等相手に商売する店ばかりが増え、街にはリュニス人が住む区画もできていた。

 エルシーアという国でありながら、この街はリュニスに浸食されつつあった。

 だからアノリア領主にリュイーシャ達の保護を訴えても無駄であることは目にみえていた。いや、きっと反対に彼女達は海賊に攫われていたのだから、元いた場所――ロードの船に乗せるべきだといわれるのが関の山だ。


 リュイーシャ達はまだ無事だろうか。

 いや、無事だからこそ『銀の海獅子』号は夜明けが近くなったというのにまだここにいる。

 アドビスは夜通し縛られて強ばった両腕に力を込めた。だがロープはゆるむことなくびくとも動かない。

 リュニス人はとかく野蛮だ。客のもてなし方がなっていない。

 アドビスは『銀の海獅子』号のフォアマスト(船首より一番目)の下から数えて二番目の帆桁の端に吊されていた。

 正確には、帆桁から吊り下げられたロープで両腕を縛られ、足も足首で別のロープで縛られた上におまけとして砲弾が二つ括りつけられていた。

 固定しているロープを切れば、まっ逆さまに足元の海に落ちるという寸法だ。

 それはまるで船上で絞首刑に処せられ、見せしめのために放置された、哀れな罪人のようであった。

 むしろそう見えるようにしたいのであろう。

 その割に、アドビスの濃紺の軍服の上着を剥ぎ取るあたり、エルシーア海軍士官であることは周囲に知られたくないらしい。


 

「よく眠れたかな」


 甲板を歩く長靴の音と共に、暗紫色の外套を風にはらませながら、額に金の環を戴く男がやってきた。

 年は四十代を少しすぎたぐらい。威風堂々と風を切り、黒い上等な上着に金色の凝った装飾がされた幅広の剣を腰に帯びている。

 アドビスは返事をせず黙ったまま、白んできた空から消えようとする明星を見ていた。


「お前がリュニス語を話すというのはクライラスから聞いている。言葉がわからない振りは通じんぞ」


 軍隊の指揮官のような出立ちの男は、アドビスの足に括りつけられた砲弾のロープを掴んでひっぱった。

 なるほど。

 この男がリュニスの第二皇子ロードか。

 アドビスは視線を下に落とした。


「……では訊ねるが、意味もなくエルシーア海軍士官を連行し、リュニスの船に拘束することは違法ではないのか? 私はこの行為を誘拐とみなし、そちらの皇帝に強く抗議する!」

「……くく……ははは」


 額に金の環を戴いた男――リュニスの第二皇子ロードは、背中をそらせて笑い声をあげた。


「リュニス皇帝はここにいる。この俺だ。まもなくそうなる」

「……」


 ロードは船縁へ歩み寄り吊されているアドビスへ近付いた。


「あの姉妹をどこへ隠した。死にたくなければさっさと言え」

「お前の部下に言った通り、二人はとっくに私の船を降りた」

「それはさんざん聞いて聞き飽きた。その先を話せ!」

「わからない。きっとアノリアの街のどこかにいるはずだ」


 アドビスは風に任せるまま乱れた濃い金髪を振りながら、不敵な笑みを浮かべてロードに言った。


「アノリアは決して大きな街ではない。地の利のないリュニス人の幼い姉妹、探せばすぐに見つかるんじゃないのか? それなのに、一昼夜もかかって見つけられないあなたの兵は、こういってはなんだが、無能ばかりのようだ」

「……き、貴様!」


 海風に紫苑の外套を舞わせながら、ロードが顔を紅潮させたかと思うと、彼は腰の剣を抜きはなった。

 重量がある青白い刃は幅広くて輝きは鈍い。

 ロードの剣は物を切断するのではなく、その重さで叩き潰す類いのものだ。

 鎧など重装備をした相手と戦うための剣で、何度も鍛えた鉄で作られているので滅多な事では折れない業もののようだ。


 ――本当に野蛮だな。リュニス人は。


 流石にそれは口に出さなかったアドビスだが、ロードを怒らせた所で今の状況は何も変わらない。いや、怒らせた分だけ少し悪くなったか。

 ロードはかん高いリュニス語で何やら悪態を叫んでいる。

 リュニス語の悪口は全部知っているわけではないので大半は聞き流せる。

 と、アドビスは目の端で動くあるものを凝視した。船だ。

 アノリア港の西端にいる『銀の海獅子』号と、アドビスのフォルセティ号。両者の間は帆走しても三十分はかかるくらいの距離が離れている。

 そのフォルセティ号が三本のマストにすべて白い帆を上げ、船首をアノリア港とは逆の方向――外海に向けて動きだしている。


「ロード殿下! フォルセティ号が出港しようとしています!」


 そういいながら後部甲板から船首甲板へと走って来たのは、リュニス近衛兵団長クライラスだ。黒い外套と一つに束ねられた淡い金髪をなびかせながら、彼は主の元へと疾風のように駆けてきた。


「どういうことだ。クライラス!」


 ロードは抜き身の剣を握りしめたまま、甲板に膝をついたクライラスを睨み付けた。


「わかりません! 港の待機部隊から連絡を待ってますが、いまだ何も報告が来ないのです」


 太陽はまもなく水平線から姿を現わし、暗い海を輝きで満たすだろう。

 紫色になった空と、帆を上げて外海へと舳先を回すフォルセティ号を見つめながら、アドビスは込み上げてくる笑いを一人噛み潰した。


 ――リュイーシャ達が船に戻ったら、直ちに出港してアスラトルへ帰れ。


 ここに連行される前に副長シュバルツにはそう命じておいた。

 やれやれ。

 これでひと安心というべきか。


「おい。何を笑っているんだ? お前の部下は、お前がここにいるのを知っていて船を出港させたのだぞ!」


 下からロードが叫んでいた。

 いい加減、そのぶっそうな抜き身はしまえばいいものを。野蛮人め。


「そのようだな」

「そのようだな――って、さては、まさか!」


 クライラスは血相を変えてロードに言った。


「ロード殿下。ひょっとした姉妹はやはり、フォルセティ号に隠れていたのかもしれません。それをあざむくためにこの男は、我々にわざと連行されたのでは……」


 ロードの顔つきが見る間に険悪なものへと変貌した。

 茶色の髪を振り乱し、わなわなと唇を震わせ、その視線は焦るように、徐々にアノリア港を離れていくフォルセティ号へと注がれた。


「追え。何としてもあの二人を連れ戻すのだ!」

「はっ!」


 クライラスが畏まって頭を垂れる。

 そしてさっと立ち上がると「出港だ! 錨を上げろ! 急げ!」と兵士達に命じながら船尾の後部甲板の方へ向かい走り去る。

 その時、『銀の海獅子』号の右舷側で見張りをしていた兵士が叫び声を上げた。


「船籍不明の船が接近してきます! 本艦の右舷側……!」

「錨を早く上げろ! クライラス! フォルセティ号を早く追え!」


 ロードはいらいらとクライラスの後を追って甲板を走り出した。

 一人帆桁ヤードに吊されたアドビスは、『銀の海獅子』号に近付いてくる一隻の船に釘付けになっていた。


 まだ夜が明けきらない薄紫の暗い闇から、濃紺の帆を張った三本マストの武装船が西風を受けて物凄い早さで帆走してくる。


 嵐の時のように舳先を海中に時々突っ込ませながら、船体に腕が生えて水をかくように派手な飛沫をあげて走っている。

 まるであそこだけ追い風が吹いているようだ。


 一方、『銀の海獅子』号は、その巨艦故に動きがのろい。

 三層の甲板にそれぞれ三十門の大砲を備えているせいで、とてつもなく重い船なのだ。

 やっと錨を上げたようだが、帆はまだ帆桁ヤードに巻き付けられたままで、それを解くのにもしばし時間がかかりそうだ。


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