【終章】あなたと共に


 ◇◇◇



 すっかり太陽は天へ昇り、雲一つない青空が広がっている。

 ロードの船を振り切ったので、フォルセティ号とガグンラーズ号は海に浮かぶ水鳥のように並んで波間に揺られていた。

 白い帆を掲げるフォルセティ号から、青い帆の小柄なガグンラーズ号へ一枚の渡り板が伸びる。

 アドビスとリュイーシャは、渡り板で繋がったガグンラーズ号の舷門げんもんに並んで立った。

 その時、メインマストの前に佇んでいたスカーヴィズが、やおら手にしていた巻き物のようなものをアドビスに投げた。


「忘れ物よ、アドビス。アノリアに来たのはこれが欲しかったからでしょう?」


 放り投げられたそれをアドビスは片手で掴む。

 そして申し訳なさそうに目を伏せた。


「いつもすまないな」

「ふふ……あんたが奴を捕まえてくれれば、私の目的も一歩近付く。まあ、礼は先に『とっておき』のマルティーニャをもらったから、それで今回はよしとしておくわ」


 スカーヴィズは意味ありげに指を唇に付けて、それをアドビスに向かって投げてみせた。


「何……? 『とっておき』のマルティーニャって、まさか!」

「そうそう」


 スカーヴィズは瞳を細め、瞠目するアドビスを無視して隣に佇むリュイーシャへ近付いてきた。

 腕を伸ばしその華奢な体を抱き締める。そっとスカーヴィズが、聞き取れるか取れないくらいの小さな声で囁いた。


「アドビスを頼んだよ」

「えっ」

「愛する男じゃないと、暗闇の海に飛び込むという勇敢な行動はできない」


 リュイーシャは頬が熱くなるのを感じた。

 リュイーシャの心を覗き込むように、その瞳を見つめたスカーヴィズは、腕を軽く叩いて抱擁を解いた。


「スカーヴィズさん、本当にありがとうございました」


 スカーヴィズは宝石のように美しい夕闇色の目を細め小さく頷いた。


「リュイーシャ姉様~!」

「リオーネ」


 リュイーシャは振り返った。

 リオーネがハーヴェイに体を支えてもらいながら、フォルセティ号の舷側に立って手を振っている。


「じゃ、そろそろ戻るか。リュイーシャ」

「はい」


 アドビスにうながされて、リュイーシャは舷門に渡された板の前まで歩いた。


「まっすぐフォルセティ号まで歩けばいい。船同士はロープに括り付けた四つ鉤でしっかりと固定されているから、傾くことはあっても決して板が海に落ちる事はない」

「はい」


 アドビスのいうことは正しいとわかっているが、船は波のせいで右に左に動いて片時もじっとしていない上に、甲板は海面から二リールほどの高い位置にある。

 リュイーシャは足が竦んで震える前に、人一人がやっと通れる狭い渡り板を半ば走るようにして渡った。


「お帰りなさい。リュイーシャ姉様!」

「おかえり」

「よく戻ったね」

「無事で本当によかった!」


 リオーネやコーラル夫人。頭に包帯を巻き付けたハーヴェイや、渋い顔をしながらも、唇に笑みを浮かべて見つめる副長シュバルツ。薄暗い医務室から滅多に出てこないマヌエルまでもが、フォルセティ号に戻ったリュイーシャへあたたかい言葉と笑顔で迎えてくれた。


「ありがとう、皆さん。本当にご迷惑をおかけしました」


 リュイーシャは甲板に集まったフォルセティ号の乗組員に頭を下げた。


「何言ってるんですか、リュイーシャさん。私はあなたがロードの船を押し流してくれたのをみて、本当に胸がすく思いがしましたよ!」


 リオーネの隣でハーヴェイが興奮したように叫ぶと、周りの水兵たちも満面の笑みで「そうだそうだ」と発言を支持した。


「……さて諸君。そろそろ騒ぎは解散して、作業に戻ってもらおうか」


 こほんと咳払いをして、フォルセティ号に戻ってきたアドビスは、甲板の水兵達を鋭い瞳で見渡した。


「……!」

 まだ青白い顔をしたハーヴェイが、うっかりしたように「あ」と小さくつぶやく。

、ご無事でなによりでした」

 アドビスは珍しく唇に笑みを浮かべ、寂しそうに肩をすくめてみせた。

、帰ってこなくてもよかったらしい」


 副長シュバルツは頬を引きつらせた。

 航海長ウェッジは口を開けたままアドビスの顔を凝視した。

 女医のマヌエルは小さく「ひっ」と一人で笑い、

 掌帆長オルソーは額に冷や汗を浮かべながら、水兵達に「持ち場に戻れ!」と叫びながら船首甲板へ逃げ出した。


「あ、スカーヴィズさんのお船が向きを変えてる」


 リュイーシャの腰に抱きついたリオーネが、小さな指を東に向けた。

 青銀の髪を月光のヴェールのようになびかせて、スカーヴィズがガグンラーズ号の舷門に立っているのが見えた。

 リュイーシャは彼女に向かって手を振った。

 そして彼女の船に良い風が吹く事を祈った。

 美しき女海賊の乗る船は、朝日に眩しく光る海の彼方へ速度を上げ消えていった。



「私、あの方とはまた会う気がするわ」


 スカーヴィズの船が小さくなっていく様を見つめながら、リュイーシャは一人つぶやいた。


「リュイーシャ姉さ……」

「おおリオーネちゃん、ここにいたのかい。ひっ」


 リュイーシャの服にまとわりついていたリオーネは、マヌエルに呼び掛けられて頭を横に巡らせた。


「リオーネちゃん。ちょっと一緒に来て、お茶の支度を手伝ってくれないかね。グラヴェールの若旦那はいつも甲板で海水を被ってるから構わないが、あんたのお姉さんに、温かいものをあげたいんだよ」


 リオーネはリュイーシャを見上げた。

 そしてはっと気がついたように、リュイーシャの腕をさすった。


「本当。姉様、ずぶ濡れ! 私、下で着替えとお茶の用意をしてくるわ! 支度が出来たらまたくるから、それまでアドビス様の所にいてねっ」

「……え、あっ、リオーネ!?」

「じゃー、後でね~」


 リオーネはマヌエルの所に駆けていくと、相変わらず黒いヴェールを被った女医の手を取り、意味ありげに顔を見合わせた。

 そしてもう一度だけこちらをちらりと見て、二人の姿はメインマスト前の昇降口へと消えた。


「……一体どうしたのかしら」


 リュイーシャは呆然と妹とマヌエルの後ろ姿を見送った。

 気付いたら舷門付近の甲板には誰もいなかった。

 アドビスもいない。

 水兵達は飛沫のかかる船首甲板に集まり、妙にかん高い掌帆長オルソーのかけ声で、遅くなった甲板磨きを始めている。


「やっぱり着替えてこようかしら」


 リュイーシャはブラウスの袖をひっぱった。

 確かに服は濡れているので寒くないと言えば嘘になるが、我慢できないほどではない。その時、背後からふわりと肩口に布のようなものが被せられた。


「取りあえず海図室から持ってきた」


 振り返るとアドビスが、銀で縁取られた濃紺の上着をリュイーシャの肩にかけてくれた。恐らく彼の予備の軍服だろう。

 それは外套のように大きく、すっぽりとリュイーシャの体を包み込んでしまった。


「ありがとうございます。でも、寒くないですから。それよりアドビス様も、着替えて来られた方が」


 アドビスはゆっくりとうなずいた。

 けれどその顔は何か言いたげに強ばっている。


「どうかなさいましたか?」

「……」


 アドビスは黙ったままリュイーシャの隣に並んだ。

 けれど黙っていたのは僅かな間だった。

 しかし、いつもはっきりとした物言いをする彼が、ためらいがちに口を開いた。


「リュイーシャ。もう一度、貴女に聞いてみてもいいだろうか……」

「えっ」

「貴女はどこに行きたい? 私は貴女の望む所なら、世界の裏側までこの船で駆けよう」


 リュイーシャは被せられた上着を右手で押さえながら、思いつめたように真摯な瞳で見つめるアドビスを見上げた。

 吹きすさぶ風がアドビスの金の髪を舞い上げている。

 夢でいつか見た、金色の鷹が目の前の空を飛翔していった。

 果てしなく続く海をどこまでも駆ける孤高の鷹が。


「アドビス様。私……本当はわからないんです。私は今までずっと故郷の島で島民達を嵐から守りながら、海神に仕える暮らししか知りませんでした。だからその生活を失った私は、何処に行きたいのか、何をしたいのか、どうすればいいのかわかりません。でも……」


 リュイーシャは己が腕で自らを抱いた。


「でも、青の女王様は島を離れた私に、風を操る力を使う事を許して下さいました。だから私、思ったんです」


 例えるならそれは『必然』。

 何かを成すために、自分の力はまだ必要とされている。

 そう――信じたい。


 リュイーシャは手を伸ばしアドビスの右手を取った。

 それはリュイーシャの手を覆い隠すほど大きくて力強い。

 リュイーシャは俯いた顔を上げてアドビスに思いを告げた。


「私はスカーヴィズさんのように剣や銃は使えません。けれど、あなたが海を駆けるために、私はあなたの風になれる」

「リュイーシャ」

「それでは……駄目ですか」


 アドビスは一瞬瞠目し、リュイーシャの顔を信じられないといわんばかりに凝視した。だがアドビスは自分の手を握るリュイーシャを、そのまま自らの懐に引き寄せ抱きしめたのだ。

 それは唐突であったが、リュイーシャはアドビスの胸に頭を寄せた。

 以前二人だけで語り合った時のように、この腕に支えられたいと思った。

そして自分も支える事ができたらもっといいと思った。

 リュイーシャを抱きしめたままアドビスが口を開いた。


「リュイーシャ。貴女の申し出は本当にありがたいが、急いで決めることはない。考え直したいのならいつでもそう言って欲しい」


 リュイーシャはゆっくりと頭を振った。


 ――私の力はあなたが成すべき事のために存在する。

  そうすることで、私はもう一度自らに与えられた力を受け入れ、

  前を向いて生きていく事ができるのです。

  あなたと共に。


「まあ、アドビス様ったら。『貴女はどこに行きたい?』って聞いておいて、今度は『急いで決めることはない』ですって? 私はどうすればいいのですか?」


 リュイーシャは微笑みながら、けれど眉をしかめてアドビスを見上げた。

 アドビスの顔がみるまに困惑に歪む。

 彼はおもむろに抱擁の腕を解いた。


「いや、その。私は……」


 アドビスは照れたようにリュイーシャから体を離し、傍らの船縁に腕をのせて海を眺めた。

 青とも緑ともいえない淡い色彩の海は、穏やかでどこまでもどこまでも果てしなく波を送っている。

 リュイーシャはアドビスの隣に並んで、同じように船縁に肘をのせた。


「アドビス様。フォルセティ号はこれからどこに向かうのですか?」

「……そうだな。アノリアで食料を積み損ねてしまったから、一旦アスラトルへ帰港しなければならなくなった」

「アスラトル……それは、アドビス様の故郷ですよね」

「ああ」


 アドビスは小さく相槌を打った。

 乾き始めた髪がまるで金色の獅子の鬣のように風に靡いていた。

 リュイーシャはそれを眩し気にみつめながら、おもむろに上空へ右手を差し上げた。きらりとその指にはめられた海色の指輪が一瞬輝く。

 同時にフォルセティ号の後方から、まるで船を押しやるように一定の強さを保った風が吹いてきた。

 それはフォルセティ号の白い帆を十分すぎる程ふくらませ、かつ、海流と同じ方向へ船を進ませることができる申し分のない順風だった。


「リュイーシャ、一体何を」


 突然変わった風向きに、アドビスが思わず声を上げる。

 リュイーシャは耳元で囁く風と語りながら、差し上げた右手をアドビスへと伸ばした。


「少し急いでもいいでしょう? あなたの故郷を早く見てみたいのです」




 海神に仕えし巫女は、風に靡く金色の髪に包まれながら、海色の瞳を輝かせて三日月の島クレスタでの暮らしを思い出していた。


 今はまだ、あそこへ戻ることはできない。失ったものが多すぎて――。

 けれど、私の魂はいつか海へ還ります。

 すべての場所につながる海へ。

 その時まで待って下さい。

 母なる海よ。





 「エルシーアの金鷹と碧海の乙女」 ―完―

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