【29】月下の邂逅

 アドビスがリュニス近衛兵団長クライラスに『銀の海獅子』号へ連行された頃、アノリアの街にたれ込めていた重苦しい霧は完全に晴れた。

 けれど日没を迎えた街には夜の帳が下りて、辺りは黒き闇に覆われていた。


 ごつごつとした岩壁のような建物が作り出す夜陰に身を隠しながら、リュイーシャはリオーネと共に、リュニス兵のいない場所を求めて、港からアノリアの市街地に足を踏み入れた。


 日が落ちたので、石造りの建物の窓には赤々としたランプの灯が灯っている。

 リュイーシャはそれらを避けるように、暗闇を求めるように、石造りの建物が立ち並ぶ間の狭い路地へ体を滑り込ませた。

 夕餉の支度をしているのか、肉を焼くような甘い匂いが、かすかに路地の前方から漂ってくる。


 どうしよう。

 リュイーシャはリオーネの小さな手をつかんだまま、ゆっくりと薄暗い路地を歩いていった。

 アノリアで妹と二人、ひっそりと暮らすつもりだった。

 それなのに。ロードは何時の間にかやってきて、自分達を探している。

 このまま逃げ続ければ、いつか捜索を諦めてくれるだろうか。


 リュニスの王宮にいる皇帝の命は風前の灯だという。ロードが次期皇帝の座を狙っているのなら、こんなところでいつまでも、幼い姉妹を追いかけ回す暇などないはずである。


「……だめ、姉様。ここにも兵隊さんがいる」


 リオーネがリュイーシャの手を引っ張った。

 危ない所だった。

 考え事をしていたせいか、注意力が緩慢になっていた。リュイーシャはもう少しで路地から少し開けた石畳の通りへ出る所だった。


「ありがとう、リオーネ」


 リュイーシャはきゅっと薄い唇を噛みしめ、僅かに外へ出した顔を引っ込めた。無意識のうちにフードの縁を左手でかき寄せながら。

 一瞬だが確かに見えた。

 百歩といかぬ道の角に二人の人影が立っているのを。


 リュイーシャとリオーネは顔を見合わせ、そして小さく頷いて、建物の影から再び顔を覗かせた。

 一人はすでに見慣れてしまった黒と銀の軍服を着たリュニス兵。もう一人は長い赤毛をふわりと盛るように結い上げ、背中が大きく開いた淡い黄色の服をまとった女性。

 二人は傍目からわかるほど親し気に会話をしていた。


 その声は聞こえなかったが、赤毛の女性は白い手をリュニス兵の首に回し、何事かを囁いている。が、男の方はそれどころではないといわんばかりに、女の手から体を離そうとしている。でも、女に抱きつかれるのは嫌ではないようだ。


 このまま人目がある街にいては危険だ。

 リュイーシャはそう思った。

 アノリアはエルシーアの港かもしれないが、リュニス本島が近いせいで、リュニス人とアノリアの住人の親密度はかなり高いとみえる。

 もしもロードがアノリア領主にかけあい、住人達にもリュイーシャ達の姿をみかけたら通報するようにとふれ回っていたら。


 リュイーシャは目を閉じた。

 そうであれば誰にも接触することはできない。

 誰も信じることなどできない。


「……リュイーシャ姉様!」


 リオーネが心配そうにリュイーシャの名を呼んだ。


「リオーネ?」


 リュイーシャは灰色のマントの裾を大きく翻しながら振り返った。

 リオーネがリュイーシャの腰に手を回してすがりつく。妹が怯える要因は、リュイーシャのすぐ目の前にあった。


「……あなた、は」


 リュイーシャは愕然と立ち尽くした。


「久しぶりだな。海神の巫女姫さま」


 家々の窓から漏れる弱い光が路地裏を薄暗く照らしていた。その薄闇の中から、漆黒のマントとフードに身を包んだ男が現れたのだ。

 カッ。

 重い長靴の音を響かせて、男は左足を引きずりながら歩いてきた。


「おや、俺の事忘れてたって顔だな? 俺は忘れたくてもあんたのこと、忘れられなかったぜ? 麗しき巫女様?」


 男の手には短刀が握られている。身の危険を感じたリュイーシャはゆっくりと後ずさった。込み上げてきた嗚咽を喉元でなんとか飲み下しながら。

 薄明かりに照らされた男の顔は右目に赤黒く引き攣れた刀傷があり、顔色は死人のように青ざめ、唇が腫れ上がっていたが、それは確かに海賊シグルスのものだった。


「……生きていたの?」


 シグルスは右目の無惨な傷跡を隠そうとせず、唇に歪んだ笑みを浮かべた。


「ああ、生きてたさ。何度死んだ方がマシかと思ったけどな。でも、もう逃がさないぜ海神の巫女。一度はあんたに騙されてやったが、今度はそうはいかない」


 シグルスは右手を上げて短刀を顔の前に添えた。


「皇子様があんたらをご所望だ。夜明けまでに船へ連れていかないと、俺の命が危ういんでな」


 リュイーシャはリオーネの肩を抱えその身を庇いながら、シグルスに向かって叫んだ。


「逃げればいいじゃない! あなたも。だから私達の事は放っておいて!」


 くっくっとシグルスは喉を鳴らした。

 血走った右目が鋭利な光を帯びリュイーシャを睨みつける。


「そうはいくかよ。元はといえば、あんたが俺の船を金鷹の船とぶつけなければすべては上手くいってたんだ! ロードから逃げおおせて、今頃は東方連国に向かって順調に航海してるはずだった。あんたらだって、好きな港で下ろしてやるつもりだったんだぜ? それなのに、俺を……俺を騙しやがって! だから、俺が今まで受けた苦しみを、お前に味わわせてやる。因果応報って知ってるか? 人を騙した人間は、遅かれ早かれその報いを必ず受けるって言うんだよ!」


 シグルスは短刀をかざしリュイーシャへと斬り付けてきた。

 刃は咄嗟に顔を伏せたリュイーシャのフードを切り裂き、同時に月影の光を宿す長い髪の一部をも無惨に引き千切った。細かな金の筋が火の粉のように一瞬煌めき夜空に舞う。

 リュイーシャはリオーネの頭を抱え込むように抱き締め、その場に膝をついた。


 ――大丈夫。

  この男は私達を殺せない。

  だって、生きたままロードの所へ連れていかなければならないもの。


「さあ、皇子様がおまちかねだ」


 シグルスの黒い革手袋をはめたそれがリュイーシャの腕を掴んだ。

 そのまま容赦なく上に持ち上げられる。


「……離して」


 乱れた髪を振り払い、リュイーシャは顔を上げた。目の前にはシグルスの引きつった笑い顔があった。


「そうはいくか。虫一匹殺せないようなその綺麗な顔に、俺はもう騙されないからな」


 シグルスはリュイーシャの腕を強引に掴んだまま、港へ向かうために後方を振り返った。


「……がっ!」


 その時、シグルスの体が持ち上げられるように空中に浮いた。

 右目の傷跡が目立つ顔が、がくんと後ろへのけぞったかと思うと、シグルスはそのまま後方へと吹っ飛んだ。

 リュイーシャとリオーネはそれを呆然と見つめていた。


「えっ……」


 シグルスは前方に立っていた黒いつば広の帽子を被った何者かに蹴り飛ばされたのだ。


「あんたも沢山人を騙して裏切ってきたじゃない? これはその報い」


 シグルスの体は路地裏の冷たい土の上に、仰向けに倒れていた。

 両目は虚空を睨み付けるように見開き、口からは白い泡がこぼれている。


「ここにいては危険。あなたたち、私と一緒に来て」


 美しい脚線美を披露してシグルスをたった一撃で蹴り倒した人物は、リュイーシャに向かって声をかけてきた。リュイーシャより少し背が高いが、体つきは思ったより華奢で丸みを帯びている所から女性だというのがわかる。

 帽子のつばを持ち上げた白い指は細く、その影から現れた瞳は夕闇を思わせる高貴な紫色をしていた。


「さ、早く」


 リュイーシャはうなずいた。

 彼女が何者であるかはあとで明らかになるだろう。

 どのみちここにいてはリュニス兵に見つかってしまう。

 リュイーシャはリオーネの手を掴み、自分達を助けてくれた不思議な人物の後を追って駆け出した。



 ◇◇◇



 どこをどんな風に走ったのかは覚えていない。

 入り組んだ路地裏をいくつも通り、リュニス兵に出くわすと、リュイーシャ達を助けてくれた帽子の女性は、溜息が思わず出るような、鮮やかな足技で彼等を叩き伏せた。


「随分お強いんですね」


 走りながらリュイーシャは帽子の女性に訊ねた。


「あなた、こんな状況でよくそんな話ができるわね」


 帽子の女性は息一つ乱さず、艶やかな紅を引いた唇を震わせ笑みを浮かべた。

 路地裏では薄暗くて顔がよく見えなかったが、月明かりがほのかに照らす港に近付いたせいか、女性の白い面がちらりと見えた。


 冴え冴えとした三日月をそのまま横顔にしたような、怖気立つ程の美女だ。

 首の後ろで一つに束ねられた、夜の海に光る波濤のような長い銀の髪が、彼女をまるで水晶細工のように気高く美しく見せていた。


「まあ、泣き叫ばれるよりずっといいけど。……ふうん。リュニスの皇子様が血眼になって探すのもわかる気がする。あなた、まるで海の精みたい。海の男が憑かれてやまない海の色。青緑の瞳――」


 リュイーシャが帽子の女性の顔を見ていたように、先方もリュイーシャの顔を覗き込んでいた。


「私は……クレスタのリュイーシャです。そしてこっちは妹のリオーネ」


 帽子の女性は夕暮れ色の切れ長の瞳を細めてうなずいた。


「自己紹介は私の船に着いてからさせてもらうわ。さ、ついてきて」


 リュイーシャは黙って女性の指示に従った。

 が、胸の内では疑問が雲のように沸き上がっていた。


 彼女はどうして自分達がリュニス兵に追われているのを知ったのだろう。

 そして何故、助けてくれるのだろう。

 あるいは、助けると思わせて、彼女がロードの所まで自分達を連れていこうとしているのではないだろうか?

 自分達に懸賞金がかけられていたら、その賞金目当てということも考えられる。リュニス兵を足技で簡単に倒してしまう技量からみて、ただ者ではないのだから。


 アノリアの市街地を抜けて潅木がまばらに生える野原まで来た時、帽子の女性は立ち止まって西の海を指差した。


「あの湾に私の船があるの。あともう少しいけば着くから」

「……」


 リュイーシャは頷いた。

 ずっと走り通しだったので息が切れかけていた。


「リオーネ、大丈夫?」


 額に浮いた汗を拭い、リュイーシャは妹の顔を覗き込んだ。


「大丈夫。姉様。わたし、走るの好きだもん」


 リオーネの頬は熟れた林檎のように赤かったが、リュイーシャほど息を切らせてはいなかった。


「そうね。あなたは風のように浜を駆ける子だもんね」


 そういうとリオーネは口元をすぼめリュイーシャを上目遣いで睨んだ。


「そんなことないもん! 私だっていつまでも子供みたいに、かけっこばっかりしないもん!」

「はいはい。あなたもきっとお姉さんのように綺麗な女になる。子供じゃないなら、いう事をきいて私の後をついてくるの」


 帽子の女性は身を屈めてリオーネに微笑んでみせた。


「う、うん……」


 リオーネは戸惑いながら、リュイーシャの手を握りなおした。


「あの」


 リュイーシャは帽子の女性に声をかけた。

 女性はリュイーシャ達の足に合わせて歩いてくれている。


「この港、ひょっとした奴隷船専用の港じゃ……」


 女性は振り返らずに答えた。


「そうよ」

「ちょっと待って下さい。あなたはひょっとして私達を……」


 草原を抜け、港に下る山道でリュイーシャは足を止めた。

 そこからはハーヴェイに決して近付いてはいけないと言われた、西の奴隷船専用の港が月明かりに照らされていた。

 アノリア港のように海に向かって多くの桟橋が突き出ていない代わりに、港内には四、五隻の小型船が錨を下ろして停泊している。

 リュイーシャのいわんとすることを察したのか、女性は静かに首を振って肩をすくめた。


「安心して。私は奴隷商人じゃない」

「じゃ、何者なの? それを教えて下さるまで、私はここから動きません」


 リュイーシャは女性を真っ向から睨み付けた。

 帽子の女性は柳眉をしかめたが、目はあきれたように笑っていた。

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