【28】金鷹の選択
「……ふ、ふふ。それで、我々が立ち去るとでも?」
クライラスは額に手をやり、淡い金髪の髪を払った。
「……」
百を超える銃口を向けられているというのに、リュニス近衛兵団長クライラスは動じる事なく、寧ろ暗くなった空に向かって低く笑い声をあげた。
「撃ちますか?」
シュバルツがさも撃ちたそうにアドビスに訊ねた。
「馬鹿。こっちから手を出したら相手の思うつぼだ」
「しかし。あの女みたいに高慢ちきな顔を見たら、撃ちたくて仕方ないんですよ」
アドビスはシュバルツを睨み付けた。
リュニスとエルシーアは、決して友好関係というわけではない。寧ろリュニスは隙あらばエルシーアへ攻め入るきっかけを狙っているともいわれている。
エルシーア海軍であるアドビスと、リュニス皇家の近衛兵団が戦闘を起こせば、エルシーアはもとよりリュニスの皇帝が黙ってはいない。
だから、両国の間で戦争が始まるきっかけを、自分達が作るわけにはいかない。
それにしても。
アドビスは唇を噛みしめながら、クライラスのあの余裕はどこから出てくるのだろうと考えた。
「おや。威勢がいいのもここまでですか」
涼やかなクライラスの声にアドビスは不気味なものを感じた。
「一体、何を企んでいる?」
ふっとクライラスが笑んだ。
「いえ、私も軍人の端くれ。機会があれば是非、高名なあなたの戦いぶりを見てみたいと思っていました。ですが、今回はおとなしく私の言う事を聞いた方がいい」
「何だと」
「後ろをご覧なさい。エルシーアの金鷹よ」
アドビスとクライラスの視線が絡み合う。
「心配する事はない。後ろを見るまであなたの部下の首は落とさないから」
アドビスは渋々背後を見やった。
同時にその光景に目を見開いた。
「船だ! 何時の間に」
武装している水兵達が口々に叫んだ。
間もなく日が沈む西の水平線に、黒い影のような大型の軍艦が浮いていた。
フォルセティ号よりひと回り大きいその船は、アノリア港と対峙する形で船腹を横に向けて一時停船をしている。
「我々の『銀の海獅子』号です。エルシーア流に言えば二等軍艦クラスの船だが、大砲は90門積んでいます。これだけの火力があれば、一時間でアノリア港は瓦礫の山となるでしょう」
「……」
アドビスは再度『銀の海獅子』号を睨み付けた。
霧が発生した頃を利用して、砲撃ができるぎりぎりの位置まで船をつけたのだろう。
「構いませんよ。私は。あなたと一戦交えたって」
クライラスは海風に漆黒のマントを翻しながらアドビスに告げた。
その態度はいかにもアドビスを挑発するかのように好戦的だった。
「アノリアをリュニスの領土にすることも厭いません。ですが――私の今の任務はあの姉妹を連れて帰る事です。大人しく二人を連れてきてくれれば、あなたの部下もこれ以上傷つかずにすみますし、我々も本国へ帰ります」
アドビスは再び舷側を握りしめクライラスに向かって叫んだ。
「二人はいない。もう私の船を下りたのだ!」
「では一体どこに行ったのです?」
アドビスは唇を噛みしめた。
推測は確信に変わった。
思った通り、クライラスはリュイ-シャ達の居所を知らない。
そして恐らくそれを知っているのはハーヴェイだが、彼は何が何でも二人の居所をクライラスに話さなかったのだ。
「わからない。だが、船を下りた事は確かだ」
アドビスは再び同じ言葉を繰り返した。
クライラスは話にならないと言わんばかりに肩をいからせ声を張り上げた。
「いい加減にしてもらおうか! 私はあなたの戯れ言に付き合う暇はない!」
アドビスは怒鳴り返した。
「いないものはいない。納得がいかぬのならいいだろう。乗艦を許可するから好きなだけ船内を捜索するが良い」
アドビスは振り返ってシュバルツに武装解除の命令を出した。
水兵達は怪訝な顔をしてリュニス兵達から渋々銃の狙いを外した。
クライラスは意外なものを見るように目を見開いていた。
「そんなに隠し場所に自信があるのか。それとも……」
クライラスの目はひたとアドビスに注がれている。まるでその真意を探るかのように。アドビスはまったく動じる事なく、ただ静かにクライラスの視線を受け止めていた。アノリア港を狙う『銀の海獅子』号の存在を気にしながら。
夕日が水平線の彼方へ吸い込まれるように消えていく。
血のように赤い残照を浴びながら、口を開いたのはクライラスの方だった。
「言ったはずだ。私は急いで二人を連れて帰らなければならないと。残念だが悠長にあなたの船を捜索する暇はない」
「では、私の部下をとっとと解放して、船に戻ったらどうだ?」
アドビスはクライラスを睨み付けながら、再び右手を上げて水兵達に戦闘配備を命じた。
このまま両者睨み合いが続くのか。
アドビスがそう思った時だった。
遠雷を思わせる破裂音が聞こえた。同時に、夕闇に暮れるアノリア港の桟橋から二本、三本と水柱が吹き上がった。
「何! 砲撃かっ!」
シュバルツが叫ぶ。
アドビスは見た。
雑用艇に乗ったリュニス兵が、手にした角灯に覆いを被せたり、外したりしながら明かりを明滅させ、沖合いの『銀の海獅子』号に向けて合図を送っているのを。
「今のはほんの試し撃ちです。大分日が暮れてきましたが、今の砲撃で狙いを定める事ができたでしょう」
「クライラス」
「グラヴェール艦長。あなたに選択の余地はありません。あの姉妹をどうしても連れてこないと言うのなら、代わりにあなたを連行します」
「……どういうことだ」
クライラスはいらいらとリュニス語で呟いた。
<その方が早くあの姉妹の行方が掴める>
アドビスは嫌みたっぷりにリュニス語で言い返した。
<私を捕らえても二人がお前達の船に来る事はないぞ>
<それはやってみなければわからない>
クライラスは腰に帯びていた銀の剣を抜き放ち、完璧なエルシーア語でフォルセティ号の水兵達に呼びかけた。
「フォルセティ号の水兵達よ、よくきいてくれ。誰かが一発でも銃を発射したら、我が君ロード殿下が『銀の海獅子』号でアノリア港を砲撃する。君達の艦長をしばし借りていくが、あのリュニス人の姉妹を『銀の海獅子』号へ連れてくれば、二人と交換に艦長の身柄は解放する。そして我々はアノリアには手を出さず、本国へ帰る事にする」
クライラスはアドビスへ鋭利な目を向けた。
<あなたに選択の余地はない。部下とアノリアの住人の命が大切ならば>
「……」
アドビスはぐるりと甲板を見回した。
銃を手にした水兵達の目が、今か今かと攻撃命令を待っているのがわかる。
綱止め棒を握りしめる他の水兵達も、心配げにアドビスの顔を見つめている。
アドビスは目を伏せ息を吐いた。
こちらが不利なのは誰の目からみても明らかだ。
クライラス達を殺したら、『銀の海獅子』号はアノリアを確実に砲撃する。
港を、家をこなごなに砕き、多くの住民達の命を失わせる事になる。
<選択の余地はない……か>
リュニス語でつぶやくと、クライラスの目に初めて笑みが浮かんだ。
<悪いようにはいたしません。あの姉妹が見つかればすぐ船に戻れます>
「グラヴェール艦長!」
一歩、舷梯へと足を踏み出したアドビスの腕を誰かが掴んだ。
アドビスは海風に乱された前髪を手で払いのけながら振り返った。
シュバルツの不安げな顔がそこにあった。
アドビスはシュバルツの肩を引き寄せ、その耳に小声で囁いた。
――リュイーシャ達が戻ってきたら、直ちに出港してアスラトルへ帰れ。
「頼んだぞ」
「グラヴェール艦長!」
アドビスは舷梯に足をかけ、あっという間に雑用艇へ飛び乗った。
いや。正確には、クライラスめがけて飛び下りたのだ。
クライラスはかろうじてアドビスの体当たりを躱した。
けれどその勢いで雑用艇は、荒波に揉まれる船のように激しく左右に揺れた。
「荒っぽい男だな。船が転覆したらどうする!」
アドビスの思わぬ行動に動揺したのか、船底に座り込んだクライラスの声は少し裏返っていた。
「ふっ。そうしてやろうと思ったのに、フォルセティ号の雑用艇は船体の安定性が優れた船だというのを忘れていた」
不敵な笑みを浮かべたアドビスは、腕を掴もうとしたクライラスの手を振り払い、反対にそれを右手で掴んだ。
「さて、人質交換といこうか。ハーヴェイを返してもらおう」
「……」
アドビスはクライラスの手首を掴むそれに力を込めた。
クライラスの白い顔が怒りのせいか、それとも手首をつかまれた痛みのせいか朱に染まる。
その時、クライラスの隣にいた中年のリュニス兵が、さっとアドビスに短銃を突き付けた。
「貴様。クライラス団長から手を離せ!」
それをきっかけに、他のリュニス兵も一斉に隠し持っていた銃をアドビスに突き付けた。
アドビスは自分に銃口を向けるリュニス兵を睨み付けた。だがそれは僅かな間だった。アドビスはリュニス兵を一瞥した後、クライラスの手首を解放した。
「危害を加えるつもりはない。ただ、私の部下の受けた痛みは、こんなものではない」
「グラヴェール艦長。部下を傷つけられたせいで、あなたが怒るのはよくわかる」
アドビスに掴まれた右手をさすりながら、冷ややかにクライラスが言った。
「おい、あの士官をこっちに連れてきてやれ」
クライラスの指示でハーヴェイがアドビスの前に連れてこられた。
「……つっ!」
「ハーヴェイ」
狭い雑用艇で足をとられたのか、ハーヴェイの体が前方へよろめいた。
アドビスは咄嗟に倒れるその体に手を伸ばした。
背中に腕を回して崩れ落ちそうになる体勢を支えてやる。
『グラヴェール艦長』
意識が朦朧としていると思われていたハーヴェイが、しっかりとした口調で、けれどクライラスに気付かれないよう小声で呼びかけてきた。
アドビスはハーヴェイの体を支えながら、クライラスに背を向けた。
フォルセティ号の舷側で待機しているシュバルツにロープを下ろさせ、ハーヴェイの体をそれで縛り甲板に上げるためである。
気力だけで立つハーヴェイの顔は青ざめて血の気が失せていたが、彼はアドビスに支えられながら再び身を起こした。
その時アドビスは、ハーヴェイが軍服の上着のポケットに、何かを入れたのを感じた。
『グラヴェール艦長。リュイーシャさん達は無事です』
ハーヴェイはそう囁き、額から流れる血を拳で拭いながら唇に笑みを浮かべた。
アドビスは黙ったまま頷いた。
それだけで十分だったが、ハーヴェイの体が甲板へと持ち上げられた時にアドビスは声をかけた。
「何も心配するな。お前はよくやった」
「……」
力なく目を閉じたハーヴェイの顔には、穏やかな微笑が浮かんでいた。
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