【27】招かれざる客

 レナンディ号を追跡していたあの時も――こんな霧が出ていた。

 体にまとわりつくようにじっとりと重く、辺りを見透かせそうで実は、幾重も薄いヴェールを重ねたようにそれは視界を遮る。


「……」


 アドビスは視界のきかない海上を、フォルセティ号の滑らかな舷側に腕を預けて、ただ一人見つめていた。

 白い霧の闇に閉ざされてしまったせいか、さほど離れていない海上で錨を下ろしているはずの商船ですら、かき消えてしまったかのように、何の物音も気配すらも感じられない。

 聞こえるのはフォルセティ号の船腹にひたひたとぶつかる波音と、自分の溜息混じりの重い息遣いだけだ。


「霧と共に現れて、霧と共に行ってしまったか。貴女は、本当は――青の女王の眷属だったのかもしれないな」


 アドビスは白い霧の彼方を見据えながら、船を下りたリュイーシャの姿を繰り返し脳裏に甦らせていた。

 



「グラヴェール艦長、大分霧が晴れてきましたよ」


 アドビスは背後から近付いてきたシュバルツを見る事なく、俯いていた面を黙って上げた。

 揺れる波間ばかり見ていたので気付かなかったが、シュバルツの言う通り、霧が薄くなっている。山を背後にアノリアの街が、うっすらと幻影のように浮かび上がっているのが見える。

 山から吹き下ろす風が霧を追い払っているせいだろう。


「……何時だ?」


 アドビスはシュバルツに訊ねた。

 シュバルツは怪訝な顔をして唇を尖らせた。


「18時です。さっき、船鐘を鳴らしましたが。聞こえませんでしたか?」

「……」

 アドビスは眉間をしかめ、「聞こえなかった」とつぶやいた。

「珍しい」

「……」


 口が裂けてもこいつだけには言えない。

 いや、誰にも言うものか。

 アドビスはシュバルツに背を向けて、リュイーシャのことで一時間も思いを巡らせていた己自身に驚いていた。


「それよりもグラヴェール艦長。霧が晴れて来たので、そろそろ私もアノリアへ上陸しようと思うのですが」


 アドビスは再びシュバルツの方へ振り返った。

 食料の補給はハーヴェイに行かせたが、シュバルツには長期の航海で傷んだ箇所を修繕するため、円材や帆布といった資材を調達させることにしたのだ。

 半年ぶりの陸のせいか、アノリアへの上陸をシュバルツに命じた途端、彼の機嫌はすこぶる良くなった。

 リュイーシャが船から下りたせいで、虫の居所が悪いアドビスとは対照的に。


「行きたいなら行けばいいだろう。視界も良くなって来たしな。じゃ、船尾の雑用艇をこっちへ回して……」


 アドビスは薄暗くなった海上に、見覚えのある一隻の小船が近付いてくることに気付いた。


「あれは……ハーヴェイ? いや違う」


 アドビスの視線を追って海に顔を向けたシュバルツがつぶやいた。

 小船は船首に明かりを灯し、フォルセティ号へと近付いて来る。

 舳先で明かりを持つ人間は黒い軍服姿で、袖口や襟元に刺繍された銀糸がきらりと光を受けて輝いている。しかも船に乗っているのは一人だけではない。

 ざっと見た所二十名ばかり乗り込んでいるようだ。


 アドビスは舷側の縁を無意識のうちに力を入れて掴んでいた。

 見間違いようがない。

 あの黒と銀の軍服姿はリュニスの軍人たちである。

 しかも彼等は、どういうわけかフォルセティ号の雑用艇に乗ってこちらへとやってくる。アノリアへひと足早く上陸したハーヴェイの乗っていた船だ。

 船首で明かりを持つリュニス兵の隣で、すくっと影が立ち上がった。

 漆黒のマントをなびかせた若い士官と思しき男だ。


「フォルセティ号! 我々はリュニス群島国第二近衛兵団である! 艦長はいるか!」


 甲板長の吹く呼び笛のように張りのある声が、黄昏の海上で響き渡る。


「ほう。完璧なエルシーア語ですね」

「感心してどうする」

「す、すみません」


 シュバルツに呆れながらアドビスは唇を引きつらせて、誰何してきた若いリュニスの士官を睨み付けた。


「リュニスの軍人が何用だ。ここはエルシーアの港だぞ」

 リュニス兵を乗せた雑用艇は、アドビスが立つ後部甲板の舷梯の下へと近付いた。

「あなたがフォルセティ号の艦長ですか?」


 アドビスとあまり年の変わらないリュニスの士官が再び訊ねてきた。

 本島のリュニス人なのだろう。月の光のように淡い金髪を背中で一つに束ね、鋭利な刃物のような目つきをした男だ。


「艦長、船の中にハーヴェイがいます」


 背後でシュバルツがアドビスに囁いた。

 アドビスもその事に気付いていた。

 雑用艇の船尾の方に、リュニス兵に両腕を掴まれたハーヴェイらしき人間が座っている。他にフォルセティ号の水兵達は乗ってはいない。


 ハーヴェイはぐったりと頭を垂れてうつむいている。どうやらリュニス兵に不意をつかれたかどうかして襲われたらしい。意識があるかどうかは不明だ。

 一体何のためにハーヴェイを?

 しかもここはエルシーア国の港なのだ。

 アノリアとリュニス本島が近いとはいえ、事と次第によっては、不法侵入したリュニス兵は全員拘束してくれる。


 アドビスは不快感も露に、常人なら思わず目を逸らせてしまうような険悪な視線で、リュニスの士官を睨み付けた。

 それはまるで羽毛を逆立て闘争心をむき出しにした鷹のようだ。

 殺意すら感じる凶悪なアドビスの視線に一瞬怯んだのか、リュニスの青年士官はおずおずと再び問いかけた。


「あなたが、フォルセティ号の艦長ですか」


 アノリアから吹く乾いた風が、アドビスの紺碧の軍服の裾をはためかせた。


「そうだ。エルシーア海軍のグラヴェール大佐だ。貴様は?」


 リュニスの士官は鋭利な目を細め、端正な顔に笑みを浮かべた。


「リュニス第二近衛兵団長のクライラスと申します。ほう、あなたが『エルシーアの金鷹』で名高いグラヴェール艦長でしたか。狙った海賊は必ず捕まえるとのことで、お噂は予々きいております」


 アドビスはクライラスの言葉を嘲るように鼻で笑った。


「世辞を言うためにここへきたわけではあるまい。何の用だ」

「おや、客人を船に乗せてはいただけないのですか?」

「リュニス兵を招いた覚えはない」


 クライラスは微笑みながら困ったように眉間をしかめた。

 その右手は意味ありげに、腰に吊された銀の剣の柄に添えられている。

 アドビスもまた振り返り、シュバルツに小さく囁いた。


『総員戦闘配置につかせろ。急げ』


 シュバルツは頷いて背後の後部甲板の開口部へ姿を消した。

 マストの影で様子を伺っていた当直の水兵達に、素早くアドビスの指示を伝えながら。


 水兵達は手近にあった帆の上げ綱を巻き付けるための棒を抜き取り、それを握りしめると、そそくさとアドビスが佇む舷側の後ろへついた。

 リュニス兵がフォルセティ号の甲板へ乗り込んできたら、容赦なくその頭を叩き割ってやるためである。

 クライラスは苦笑しながら、剣の柄に添えた右手を腰に当てた。


「確かに招待してもらってませんが、艦長の船に私達の大事な『客人』が乗っているということがわかったので、こうしてわざわざ迎えに参ったのですよ」


 アドビスは両腕を組んだ。


「客人?」


 クライラスは「ええ」といわんばかりに頷いた。


「そうです。あなたが海賊シグルスから救って下さったリュニス人の姉妹です。彼女達は我が君、ロード皇子の座乗する『銀の海獅子』号で本島に向かっていたのですが、シグルスに攫われその行方がわからなくなっておりました。それでいろいろ探しておりましたら、あなたの船が彼女達を保護したということがわかりまして。それでこうして二人を迎えに参ったのです」


 アドビスは腸が煮えくり返るような、熱い憤りを奥歯で噛み殺していた。

 よくもぬけぬけと。

 その情報はアスラトルへ帰港中のレナンディ号を襲って、シグルスに吐かせて手に入れたのではないのか。

 クライラスの目的はリュイーシャとリオーネだということは最初(はな)からわかっていたが、アドビスはおくびにも出さず大仰に溜息をついた。


「近衛兵団長クライラス殿。あなたは勘違いをしているのではないか? リュニス人の姉妹だと? そのような者、私の船には――」

「グラヴェール艦長。知らない振りはしない方がいい」


 クライラスは冷ややかな声で一喝した。


「うっ!」


 両腕を掴まれているハーヴェイが呻いた。

 彼を拘束しているリュニス兵の一人が、ハーヴェイの灰色を帯びた金髪を掴んでその顔を上向かせていた。

 角灯の明かりにハーヴェイの青ざめた顔が浮かび上がった。

 頭を殴られたのか、額からは赤い血がいく筋も流れ頬を伝っている。右目のまぶたは痛々しい程腫れ上がっているので、目も開けることができないようだ。


 クライラスはちらりとハーヴェイを見やり、そして再びアドビスの方へ向き直った。口元は友好的な笑みを浮かべているのに、鋭い瞳はアドビスへの敵意に満ち満ちてぎらついた光を放っている。


「全部知っています。あなたの部下が話してくれました」


 アドビスは嘆息した。

 ハーヴェイがリュイ-シャ達のことをどこまで話したかはわからない。

 でも。

 こうしてわざわざクライラスがフォルセティ号まで来たという事は、リュイーシャ達はまだ彼等に捕まってはいないということだ。


 アドビスはハーヴェイが苦痛に耐えながら、必死で自分を見つめるのに気が付いた。ハーヴェイはリュイーシャ達をフォルセティ号に乗せてアノリアへ来た事までは話したのだろう。

 だからクライラスは、リュイーシャ達がまだ船にいると思ってここへ来たのだ。

 そこまで考えを巡らせて、アドビスはとぼけたようにつぶやいた。


「それで私は、どうすればいいのだ?」


 クライラスは呆れたように整った眉を吊り上げた。


「私の話をまさか今まで聞いていなかったなんて言い出すんじゃないでしょうね? この船にあの姉妹が乗っているのはわかってるんだ! 部下の命が惜しければ、私達の『客人』を呼んでいただけますか」

「くぅっ!」


 ハーヴェイを抱えるリュニス兵がその喉元に短剣を突き付けた。


「……」

「さあ、早く!」

「……クライラス殿」


 アドビスは両腕を組んだまま呼びかけた。


「何だ? 私達は急いでいる。さっさとあの姉妹を本島へ連れていかねばならないのだ!」


 クライラスはいらいらとした口調で叫んだ。

 だがアドビスは船縁からクライラスを見下ろしながら、残念そうに頭を振った。


「確かにリュニス人の姉妹を私は保護した。だが、もうこの船にはいない」

「何だと!?」

「行ってしまった。風のように。私の目の前から消えてしまった」


 クライラスは右手を腰の剣の柄に添えた。


「ふざけるな! 私は本気だぞ? さっさと姉妹を出さなければ、お前の部下の首と胴は切り離される事になるぞ!」


 アドビスは組んでいた両手を外し、右手を上げてみせた。


「おい! リュニスの近衛団長とやら!」


 アドビスの背後に銃を構えたシュバルツが立っていた。


「我々の戦闘配備は完了している。さっさとハーヴェイを引き渡してここから立ち去れ! さもなくばハーヴェイの首を落とす前に、貴様達全員の体に風穴が開く事になるぞ!」


 フォルセティ号の三本あるマストのうち、一番真ん中のメインマストと、最後尾のミズンマストの中程にある足場に、長銃を手にした狙撃手達が待機していた。彼等は銃の狙いを雑用艇に乗るリュニス兵へと向けている。

 マストだけではなく、アドビスが立っている左舷側にも、撃鉄を上げいつでも発砲できる状態で銃を構えた水兵達が並んでいた。


「よくやった。シュバルツ」


 アドビスは小声で言った。

 副長は小さく頷きながら油断なく銃を構え、その狙いをクライラスに向けた。

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