【26】逃避行
心の奥底で本当は期待していたのかもしれない。
『行くな。リュイーシャ』
そう――アドビスが自分を引き止めてくれることを。
リュイーシャは、すっぽりと体を覆う灰色のマントに付いたフードを目元まで引き下げ、思わず涙ぐんだ自分にリオーネが気付かないことを祈った。
アノリア港へ向かう雑用艇には、食料を補給すべく選ばれた水兵達14名と、彼等を指揮する士官のハーヴェイ、そしてリュイーシャとリオーネが乗り込んでいた。
雑用艇の船尾では、濃紺の軍服を着たハーヴェイが舵柄を握って操船を担当し、その前の座板にリュイーシャとリオーネが並んで腰掛けている。
二人はコーラル夫人が余った白い綿布で作ってくれた、エルシーア風の服を身に付けていた。頭からすっぽりと被るゆったりした服で、腰より少し上の位置でリュイーシャは紺色の飾り紐、リオーネは深い赤色のそれを巻き付けて結んでいる。裾は膝下ぐらいで、深緑に染められた柔らかい革の靴を履いている。
その服の上から、これまたコーラル夫人の箪笥の肥やしになっていた、黒いベルベットのベストを着た。ベストには銀糸で絡み合う植物の刺繍が美しく施されていた。
『まあ、どっかに上陸した時の為に持ってきていたよそ行きの服なんだけど。私の年じゃもう着れなくなってね。あなたたちが着てくれたらうれしいんだけど』
コーラル夫人の屈託ない笑顔が脳裏に蘇ってきて、リュイーシャは再び潤んできた瞳をしばたいた。
フォルセティ号の人達には大変世話になった。
彼等のやさしさやもてなしが、どれだけ荒んだ心を癒してくれたことだろう。
『その格好では危ないな。それにアノリアの夜は結構冷えるのだ。備品で悪いがこれを持っていくがいい』
リュイーシャ達を一番怖れていた副長シュバルツまでもが、出発間際に山羊の柔らかい毛で織った灰色のマントを手渡してくれた。
シュバルツの言う事は正しかった。
アノリア港の背後にそびえる山から吹き下ろす風は乾いていて冷たい。
そしてフードを被ってしまえば、顔を覗き込まれない限り、他所から来た人間だと思われないだろう。
リュイーシャは唇を結んだまま、胸元に下げた首飾りを無意識の内に握りしめていた。少年水兵ジンからもらった、七色に光って見える鱗のような石がついた不思議な首飾り。
「……」
アノリアでリオーネと二人。新たな暮らしができるのか。
不安は募る一方だが、首飾りをにぎりしめているとその不安がほんの一時だが薄らいだような気がする。ふわりと薄絹の衣で体を包まれたように、優しい気持ちが満ちてくる。
「ハーヴェイさん」
その時、櫂を握り船を漕いでいた中年の水兵が後ろを振り返った。
水兵は戸惑ったように眉をしかめ、ハーヴェイに訴えた。
「桟橋にリュニスの軍人が何人も立ってますぜ。何かあったんでしょうか」
リュイーシャは黄昏の光に満ちた桟橋を見つめた。そこに着くまであと十分はかかりそうなくらい距離はあるが、見覚えのある黒っぽい服を着た人間が数名立っているのが見える。
彼等は時折海上のフォルセティ号を見るように顔を向けたり、背後の白壁の家々を眺めたりしているようだ。
「アノリアにはいつも……ああしてリュニスの軍人がいるのですか?」
リュイーシャはフードの裾を手で押さえながら、ハーヴェイの方に振り返り訊ねた。
ハーヴェイもまた怪訝な様子でリュニスの軍人達を見つめている。舵柄を握る両手の拳が白くなるほど力を込め、緊張しているのか口元をきつく噛みしめている。
「まさか。アノリアはエルシーア国最南端の港ですよ? だが、妙なものものしさを感じます。そうか……」
ハーヴェイはかさついた唇を舌でしめらせ思案顔になった。
「ひょっとしたら、大規模な奴隷市場が開催されるのかもしれない」
「……奴隷市場?」
「ええ」
ハーヴェイは軽くため息をつき、リュイーシャに向かって薄く微笑した。
「リュイーシャさん。向かって左側……つまり、港の西側の岬なのですが、あの裏側には決して行ってはいけませんよ。あそこは奴隷船専用の港になっていて、そこで奴隷市場も開催されるんです。エルシーアでは奴隷制は廃止されましたが、リュニスでは未だに続いています。アノリアで奴隷市場が開催されるのは本来許されざるべきですが、場所代や港使用料が街の貴重な収入源になっているので、アノリア領主が目溢しをしているのです」
奴隷。
この言葉にリュイーシャは、身を震わす程の恐れと悲しみを思い出した。
クレスタの島民達は、島に突如現れたリュニスの第二皇子ロードによって一家離散させられた。男はロードの私兵として彼の軍艦に乗せられ、女子供は奴隷として売りさばかれるために、別の船へと連れ去られたのだ。
リュイーシャはかろうじて声が震えるのを抑えながら、ハーヴェイに訊ねた。
「奴隷って……どこから連れてこられるんですか?」
ハーヴェイは眉間をしかめ、小さく頭を振った。
「世界中から、といっても過言じゃありません。が、リュニスは昔、それぞれの島に王がいて島ごとに統治されていました。しかし本島の現リュニス皇帝の先祖が軍隊を率いてそれぞれの島を制圧し、自らの属国にして現在のリュニス群島国ができたそうです。本島は各島の領主に年貢を納めさせていますが、払えなかった島では住民を奴隷として納めるんです」
「えっ……」
リュイーシャはハーヴェイの言葉に動揺した。
リュニスという国は多くの島が集まってできた国だと。
単純にそんな風に思っていたからだ。
そしていかに自分が世間を知らず、自由な場所で育ち、守られてきたのだということも、今更ながら実感した。
クレスタも当然、本島へ年貢を納めていたはずだ。
父カイゼルが島で採れる真珠を、正当な価格で売りさばく仕組みを作ってくれたおかげで、クレスタは年貢を滞りなく納める事ができた。
島民を奴隷として誰一人、差し出すことをしなくて済んだのだ。
一方ハーヴェイもまた、何かを思うように前方を見つめながら再び口を開いた。
「エルシーアに奴隷制はありません。だが、一部のエルシーア海賊たちが貴族の船を襲撃し、虜にした人間を奴隷市場で売りさばいている。アノリアの市場を閉鎖させない限り、我々が根絶させたい横暴な海賊は決して消えない」
穏やかな口調の中に、静かに燃える炎のような怒りが含まれていた。
「それが、あなた方の戦う理由なのですか」
リュイーシャは背後で舵を取るハーヴェイを振り返った。
「あっ! いや……その!」
ハーヴェイの青白い頬がみるみる赤く染まっていく。
「あ、いえこれはグラヴェール艦長の受け売りなんです。艦長はいつか自分が海軍内で力を得たら、海賊拿捕専任の艦隊を作り、いずれアノリアの奴隷市場も閉鎖させたいとおっしゃってました。普段自分の考えを他人に話される方じゃないんですけど……」
ハーヴェイは少年のように頬を赤らめながら、照れたように視線を伏せ、ごにょごにょと小さく呟いた。
「えっ。何?」
「あ、そ、そのですね……」
ハーヴェイは右手で舵柄を押し付けながら、左手を上げて風に吹かれてなびく灰色がかった金髪頭を掻いた。
「いや、ちょっとだけ嬉しかったんです。あの気難しい方が、私に自分の考えを話して下さったことが。信用して下さっているのかなって。私のことを」
リュイーシャは柔らかく微笑みながらうなずいた。
「ええ。ハーヴェイさんはいい方です。あなたを信じているからこそ、アドビス様は私達を送って下さる方を、あなたにしたんじゃないかしら」
「……ありがとうございます」
ハーヴェイは小さくリュイーシャに頭を下げたが、その顔は警戒するかのように険しいものになっていた。
「……」
雑用艇は目指すアノリア港の桟橋と、沖合いに停泊しているフォルセティ号との中間までやってきていた。
「多いな」
前方を見据えるハーヴェイが密かにつぶやきを漏らす。
先程から気になっていたが、黒と銀の軍服をまとったリュニス兵の数が明らかに増えている。
港内には行商人の小舟やら、錨を下ろし停泊中の商船が10隻ほどいるので、桟橋に近付くリュイーシャ達の雑用艇はさほど目立たない存在だといえる。
けれど。
リュイーシャはリュニス兵の姿を目にした時から、とてつもなく大きな不安を感じていた。
先日、海賊シグルスを連行中だったレナンディ号が、何者かに襲われて無惨な姿で海に漂う所へ遭遇したけれど、あれはひょっとしたらロードの仕業ではないだろうか。
そう思う根拠はある。
シグルスはロードに無断でリュイーシャとリオーネを彼の船から連れ出した。それに気付いたロードがレナンディ号を探し、報復したというのは十分考えられる。
シグルスは捕えられ、ロードにアドビスのフォルセティ号に拿捕されたことを話したとしたら。
いや、仮定ではなく、話したと思うべきだろう。
あの男は形勢が不利になった途端、あっさり立場を逆転させる卑怯者である。リュイーシャたちがアドビスの船に保護された事はしゃべっているはずだ。自分の身の安全を守るために。
そうなれば、ロードがアノリア港へ来る可能性は高い。
いや、もうすでに来ているのかもしれない。
リュニス皇家に仕える近衛兵達の軍服は、黒と銀色をしていた。
リュイーシャは黄昏の空を仰いだ。日没までまだ一時間ぐらいありそうだ。このまま桟橋に近付くと、リュニス兵がきっとやってくる。
港を見張るのは人の出入りを監視するためだ。
もしも自分達を探していたら、ハーヴェイは勿論、アドビスにも迷惑がかかる。
リュイーシャは静かに目を閉じ風に命じた。
重き雲を運べ。
山から吹き下ろす猛き風よ。白き蒸気のヴェールで港を覆って。
「おや、急に霧が出るなんて珍しい。アノリアは夕刻に霧は出ないんですけどね」
ハーヴェイが意外なものを見るように呟いた。
湿った風が頭上を薙ぐように吹いたかと思うと、みるみる周囲の景色は白い大きな布を広げたようにかすんできた。
「姉様、ひょっとして」
リオーネがそっとリュイーシャの腕をつついた。
新緑色の瞳が何かを悟るようにリュイーシャの顔を見上げている。
リュイーシャは黙ったままうなずいた。
リオーネはリュイーシャが霧を呼んだ事を知っている。
「リュイーシャさん、リオーネさん。桟橋についたら、今夜の宿へ御案内します。艦長の知り合いがやっている宿屋で、面倒見のよい女将がいるんです。ちょっとお金にがめつくて、圧倒されるかもしれませんが、彼女はリュニス語もできますから、きっとアノリアで暮らす貴女達の力になってくれると思いますよ」
「何から何までお世話になりっぱなしで、ごめんなさい。ハーヴェイさん」
リュイーシャは頭を下げた。
霧はあっという間に、船と港とアノリアを象徴する緑の山が見えなくなるぐらいの濃さで、すっぽりと町全体を包み込んだ。
「針路真直ぐ。このまま漕げ。間もなく桟橋が見えるはずだ」
霧に包まれる前にハーヴェイは桟橋との距離を測っていたのだろう。
櫂を握り雑用艇を漕ぐ水兵達に、的確な指示を出していく。
リュイーシャも同じだった。
もう少し。
桟橋に着いたら迅速に行動しなくては。
リュイーシャは隣に座るリオーネの手を強く握りしめ、口をリオーネの耳元へ近付けた。
『船が止まったら、すぐに降りるの。手を離しちゃだめよ』
『わかったわ。姉様』
それから間もなくのことだった。
雑用艇は唐突に白い霧の壁から現れた、杭を打込んだ木製の桟橋にぶつかることなく着き、漕ぎ手の水兵達が櫂を収めて船を止めた。
船首にいた小柄な水兵が雑用艇を舫い、次にハーヴェイが先に降りて、リュイーシャ達に手を貸す。
リュイ-シャはリオーネを抱えてハーヴェイに預けた。
ハーヴェイは軽々とリオーネを受け止め、優しく桟橋にその足を下ろしてくれた。
「手を出して下さい」
ハーヴェイの伸ばされた手を取り、リュイーシャは雑用艇から桟橋に降り立った。
「アロンゾとジニー。私が戻るまでここで待機してくれ。後の者は私と一緒に来て、補給物資の調達と本船への運搬を行う」
ハーヴェイが水兵達に指示を出すため、リュイーシャ達へ背中を向けた。
「行くわよ、リオーネ」
リュイーシャはリオーネの手を掴んで、霧の中に吸い込まれるように静かにその場を立ち去った。
「リュイーシャさん!?」
ハーヴェイの声が風に乗って聞こえて来た。
――ごめんなさい。ハーヴェイさん。
そして、今まで本当にありがとう。
リュイーシャは黙ったままリオーネの手を引き、桟橋から転げ落ちないように注意しながら足早に港へと駆けた。
霧はねっとりと絡み付くような湿気と重さを伴っていた。
シュバルツから貰った灰色の山羊のマントは、それらの湿気を弾いてくれた。ただし、露出している顔は湿っぽくなったが、服は全く濡れなかった。
「姉様……っ、どこにいくの?」
「取りあえず港を離れるの」
桟橋から落ちないように小走りで走り、久しぶりに踏み締める動かぬ大地に、リオーネがよろめく。
ここで海に落ちたらハーヴェイは勿論、港にいるリュニス兵にも気付かれてしまう。
リュイーシャは手を引いて、体勢を崩したリオーネを懐へ引き寄せた。
「地面が揺れてる。なんか、ふらふらして歩きにくい」
「そうね。でも、がんばって。リオーネ」
リュイーシャはリオーネを立たせて急かした。
クレスタを離れてからどれくらいが過ぎたのか。長い間ずっと船に乗り、波間に揺れるその生活に、体がすっかり慣れてしまったせいなのだが、船乗りではないリュイーシャ達にそれを知る術はない。
「がんばって。リオーネ」
リュイーシャは焦っていた。
ハーヴェイが自分達を呼んでいる。
その声が霧の中からかすかに聞こえてくるのだ。
『……シャさん。リオーネ……さん。ど……です……か!?』
――やめて、ハーヴェイさん。
私達の名を呼ばないで。
リュニス兵があなた達の所へ来てしまう!
リュイーシャはそう念じながらも、念じるだけで精一杯だった。
今は一刻も早くリュニス兵がたむろしている港から離れなければならない。
リオーネが何かに足をとられて、小さく声を上げた。リュイーシャは右手に見えた建物の影にリオーネを連れて隠れた。
路地裏と思しきそこには、降ろしたばかりなのか、大きな樽がいくつも並んで置かれていた。
その樽の影に身を寄せた途端。
「……ロード殿下が仰っていたエルシーアの軍艦が、アノリアの外海に停泊しているそうだ」
「では、あの姉妹が乗っているかもしれないんだな」
「やれやれ。これで四日続いた捜索も終わる。それにしても深い霧だ。じめっぽくて息苦しい」
「早く本島に帰りたいな」
「だな。ただ、新皇帝の座を巡って、王宮では争いが避けられないだろう。ロード殿下が即位されれば、リュニスは世界の海をも支配することになる」
「じゃ、手始めにエルシーア海進出もお考えなのか。やはり」
「それは知らん。何しろ、あの方は理想だけは高いものをお持ちだからな」
「……」
リュイーシャはリオーネの肩を抱きしめたまま、息を思わず止めて、二人のリュニス兵が自分達に気付かない事を祈った。
二人は談笑しながら路地裏を通り過ぎ、港の方へ行ったようだ。
遠くなる足音と話し声に、リュイーシャは安堵の息を吐いた。
もう少しここに身を潜めることが遅れていたら、きっと鉢合わせしていたに違いない。
「リュイーシャ姉様。やっぱり兵隊さん、私達を探していたみたいね」
「うん」
「大丈夫かな。ハーヴェイさん。アドビス様」
「……うん」
リュイーシャはリオーネをひしと抱きしめた。
願わずにはいられなかった。
どうか、ご無事でいて下さい。
私達は大丈夫ですから。
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