【20】ひとときの休息

 ◇◇◇


「さあできたよ。お飲み。これで少しは体も暖まるだろう。ひっ」

「ありがとうございます」


 リュイーシャはマヌエルから温かい液体が入ったカップを受け取った。

 普段は薄暗い医務室だが、リュイーシャが身を起こしている吊り寝台の前にある卓上には、いつもの倍の数の蝋燭を灯した燭台が置いてある。


 橙色に輝く蝋燭の光は暗すぎず、また明るすぎず、リュイーシャの心から覆い被さるような不安を追い払い、徐々に安らぎをもたらしてくれた。

 カップを両手で包み込むようにして持つと、マヌエルがくれた温かい飲み物からは果実のような甘酸っぱい香りが立ち上ってきた。

 島の岬で風に吹かれ海を眺めていた光景がふと脳裏をよぎる。

 なんだか、懐かしい香り。


「これは……何の飲み物なのですか?」


 相変わらずマヌエルは、口元以外をすっぽりと覆う黒いヴェールを被っており、その表情を伺う事はできない。


「茶だよ。ええと……なんて言ったかね。シルダリアという国の茶なんだけど。忘れちまったよ。ひっ。まあ、体にいいものだから、冷めないうちにお飲み」

「はい。いただきます」


 リュイーシャはカップに唇をつけた。

 マヌエルの風貌は明らかに怪しいが、リュイーシャも風を操る術者の端くれである。外見が隠れていても、その人間の本質を見抜く技量ぐらい持ち合わせている。


 だから目が覚めた時、すっぽりとヴェールを被った女性が自分の顔を覗き込んでいても怖くなかった。

 むしろ彼女――マヌエルは、リュイーシャに危害を加えるどころか、その穏やかな眠りを守ってくれていたのである。


『悪霊に耳を貸してはいけないよ。あんたには力がある。それを行使するだけの魂を持った存在なんだから、もっと自信を持つんだ。そうすれば悪霊どもはあんたに手出しなどできなくなる』


「とても美味しいです。マヌエル様」

「様はやめとくれ。虫酸が走るわ。ひっ」


 女医は片手をひらひら振って肩をそびやかした。

 リュイーシャは体の中に温かいものが満ちていくのを感じていた。

 

「失礼する。貴女の目が覚めたときいたので、様子を見にきてみたが」


 こほんと小さく咳払いする音が聞こえたかと思うと、青い航海服姿のアドビスが医務室の出入口に立っていた。いつもの通り、常人より遥かに背の高いアドビスは、天井の梁に頭をぶつけないよう首をななめに傾けている。


「リュイーシャ姉様! アドビスさまをお連れしたわ。あ、すごくいい香りがする~」


 リオーネが吊り寝台の上で体を起こしたリュイーシャの元へ駆け寄り、手にしたカップの中身を覗き込んだ。


「はいはい。リオーネ嬢ちゃんと艦長の分も作ってあるよ。ひっ」


 ゆらりと黒衣の裾をひらめかせ、マヌエルが立ち上がった。

 そのまま真後ろのタペストリーで区切られた小部屋に入り、再びリュイーシャの寝台の方へ二つのティーカップを手にして現れた。


「甘酸っぱくて素敵な香り~。私の好きなリンゴの香りがする」


 マヌエルから茶の入ったカップを受け取ったリオーネは、リュイーシャの枕元に置かれている低い木の丸椅子に腰を下ろした。


「艦長も嬢ちゃんの隣に座りなさいな。ほら、これを持って。ひっ」


 マヌエルはアドビスにカップを手渡した。

 立ち上る茶の香りのせいか。強ばっていたアドビスの顔がふっと緩む。


「医務室で薬以外のものが出るのを初めて見た」


 するとマヌエルが怒ったようにそっけない口調で言い返した。


「これはとっておきでね。誰にでも出してるもんじゃないんだよ。お前さんに頼まれたって、もう二度と出さないからね! ひっ。今回は病人に元気になってもらうために、と・く・べ・つ!」


 リュイーシャは二人の言い合いを傍目でみながらもう一口茶をすすった。

 必ずしもここは外の甲板に比べると快適な場所とはいえない。湿気は多いし、薬やら船底に溜まる垢水の臭いが混じりあっていて、鼻がどうかしそうだ。

 其れ故、マヌエルの入れてくれた茶の放つ香りが、とても清涼感に満ちているような気がする。

 前向きな気持ちにさせてくれるような気がする。



「わーい。とっても甘くておいしい! 私、このお茶大好き!」


 リオーネがカップを両手に持って、ごくごくと茶を飲み干している。

 妹がとても喜んでいるので、リュイーシャはその様子に思わずくすりと笑いを漏らした。


「なんだ。ちゃんと笑えるんじゃないか」

「えっ」


 リュイーシャは咄嗟にアドビスの方へ視線を向けた。

 アドビスもまたリュイーシャの方を眺めている。リュイーシャがリオーネを慈しむような目で見るように、アドビスもまた、どことなく親愛の情に満ちた優しい眼差しでリュイーシャを眺めていた。

 視線が交わると、アドビスははにかんだように肩をすくめた。


「いや……貴女はずっと沈んだ顔をしていたから……」

「アドビス様」


 不意にマヌエルが自分の席から立ち上がった。

 燃えるような赤毛を一本の三つ編みにしたそれが、黒いヴェールの隙間から飛び出し肩に垂れた。


「リオーネ嬢ちゃん。私の部屋にいかないかい? 実は糖蜜のお菓子も用意してあるんだ。ひっ。お茶のおかわりもあるよ~?」


 リオーネは空になったカップを持ったまま、リュイーシャの顔をじっとみつめた。

 リュイーシャは笑みを浮かべリオーネにうなずいた。


「行ってらっしゃい。その間私はアドビス様に、大切なお話をするから」

「う…うん。あ、あの……マヌエルさん」


 リオーネは椅子から立ち上がってマヌエルの黒衣の裾を掴んだ。温かいお茶を飲んだおかげで、頬がほんのりと林檎のように赤く染まっている。


「行ってもいいけど、後でリュイーシャ姉様にもお菓子……もらってもいい?」


 マヌエルの唇が笑みを形作った。


「いいとも。好きなだけ持っていけばいいよ。ひっ」


 リオーネの瞳がきらきらと輝いた。ぎゅっと、マヌエルの衣の裾を握る手に力が入る。リオーネは隣に座るアドビスの顔を不意に見上げた。


「じゃ、アドビスさまの分も」

「……!?」


 手が大きい故に今にも握りつぶせそうなティーカップを、右手だけで持って茶を飲んでいたアドビスがむせた。


「ひっ。ひひっ!」


 マヌエルの笑みはさらに大きくなった。

 脇を突いただけでも、今にも笑い転げそうなくらい、女医は頬をひきつらせてそれを堪えている。


「笑い死にしそうだ。海賊共を恐怖の淵に叩き込む鬼艦長も、無垢な子供の前にはかたなしだね」

「……違う。船が揺れたから、茶が気管に入って、それでむせたのだ」

「はいはい。そういうことにしておこうかね。ひっ」


 マヌエルは右手を出してリオーネと手を繋いだ。


「マヌエル……貴女ってひとは」


 マヌエルはくるりと背中を向けて、タベストリーをめくりあげた。

 アドビスを無視してリオーネに話し掛ける。


「さ、リオーネ嬢ちゃん。私らは奥で先にお茶会をしていようね。ひひっ」

「リュイーシャ姉様、アドビスさま。後でお菓子持っていくから、楽しみにしててね」


 リオーネがリュイーシャと何故か顔を赤くしているアドビスに向かって笑いかけた。

 リュイーシャはカップを持たない空いた方の手を振り、それに応えた。

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