【21】私の罪
燭台の上で燃える蝋燭がじっと小さな音を立てた。
リュイ-シャとアドビスは黙ったまま、しばしマヌエルの入れてくれたお茶を飲んでいた。
口を開いたのはリュイーシャの方だった。
「アドビス様。クレスタという島をご存知ですか?」
「噂程度なら知っている」
「あ」
アドビスの手が不意にリュイーシャの方へ伸ばされた。
茶をとうに飲み干して、空になっていたリュイーシャのカップを掴む。
「……ありがとうございます」
アドビスの手にカップを渡し、リュイーシャは気恥ずかしさにうつむいた。
アドビスもまた茶を飲み干していたのだろう。空になった二つのカップを背後にあるマヌエルの卓上に置いた。そして膝に肘を乗せて頬杖をつくと、記憶を辿るような口調で呟いた。
「正確な位置までは知らない。リュニス本島より遥か東にある島で、リュニスの皇子の一人が、そこに住む海神の巫女に惚れて、島の住人になったとか……」
ふうとため息を吐き、アドビスが顔を上げた。
「そんな話をきいた事がある」
リュイーシャはうなずいた。
「そのリュニスの皇子と海神の巫女が、私達姉妹の両親です」
「……何?」
頬に片手を添えたまま、アドビスは鋭い青灰色の目を月のように丸く見開いた。
驚くのは無理もないというべきか。
リュイーシャは肩をそびやかした。
寧ろ内心驚いていたのはリュイーシャの方だ。
自分の両親の話が噂として、外の国の人間にも知られていたと言う事がわかったのだから。
「父カイゼルは、現リュニス皇帝の三番目の息子でした。けれど母ルシスは海神に仕える巫女の為、島を離れる事ができません。よって父は、母のために皇位継承権を永久に放棄し、クレスタの民となったのです」
リュイーシャは今まで胸の内に抑えていた思いを吐き出すように、これまでの出来事をアドビスに語った。
クレスタの巫女の役割のこと。
母が死んだため、幼くして自分がそれを担った事。
そして、父カイゼルの異母兄ロード皇子が島に来たあの日の夜の事を。
アドビスは頬杖を止めて黙ったまま、リュイーシャの話に耳を傾けていた。
リュイーシャも淡々と話を続けた。
島民達が成す術もなく、目の前で家族や恋人たちと引き裂かれていく光景を語った時、リュイーシャは堪えきれなくなった涙を流した。
彼等の為に自分は何もできなかった。
否。
しようとしなかった。
「私は――卑怯です」
溢れた涙は頬を伝い、上掛けの上に置いた手の甲を濡らしていった。
「私ならできたのです。私が願えば、ロードの船を沈める事ができた。でも私は――私に与えられた力を、人の命を奪う事には使わないという海神に立てた誓いを……破る事ができなかった」
「リュイーシャ」
リュイーシャは俯いていた顔を上げた。
涙に濡れたリュイーシャの手を、アドビスがその大きな掌で包み込むように載せたからだ。
「誰も貴女を責めることはできない」
「でも私は、クレスタの民を守る巫女です。私は皆を守るだけの力を持っているのです」
手を掴むアドビスの指に力が込められた。鋭利な青灰色の瞳がくっと細められる。
「誓いを破れば海神は怒るのではないのか? その結果、貴女の救いたかった者達は、本当に救われたのだろうか? 皆ロードの船と共に沈んだかもしれない……そうは思わないか?」
「……」
リュイーシャは目蓋を閉じた。溢れた涙が再び目の端からこぼれ落ちていく。
それはリュイーシャの手を握るアドビスの、がっしりとした手の甲に落ちて真珠のように弾けた。
「そうだったかもしれません。でも……そうではなかったかも……」
「リュイーシャ。貴女は大きな力を持ったひとかもしれない。だが、貴女も私と同じ、一人の小さな人間だということを忘れてはいけない」
リュイーシャは震える唇を噛みしめた。
けれど今度は肩が、手が、体全体が震えてきた。
リュイーシャはたまらずアドビスの手を振り払い、それで顔を覆った。
「リュイーシャ。すまない。大丈夫か?」
呼び掛けるアドビスの声は、リュイーシャを包み込むような優しさに満ちていた。
けれどその優しさが、リュイーシャの抱く罪悪感を一層深くさせていく。
島民を助けるために、海神との誓いを破ることを躊躇した――本当の理由が棘のように心を刺す。
「私は……」
リュイーシャは苦いものと一緒に、ゆっくりと言葉を飲み下した。
私は、怖かったのだ。
誓いを破る事が。
島の人達を守る事が、本当に私の『守りたいもの』だったのか。
多くの人達と、私の命を引き換えにしてでも守りたいものだったのか。
海神の巫女として、そうするべきなのか、最後の瞬間まで迷っていた。
『……貴女も私と同じ、一人の小さな人間だということを忘れてはいけない』
アドビスの言葉が脳裏に蘇る。
リュイーシャは顔を覆っていた両手を、だらりと上掛けの上に下ろした。
海神の巫女としてではなく、一人の人間として自分の心に問いかける。
ああ、そうなのか。
リュイーシャは長い息を吐いた。
自分の心が、今はっきりとわかった。
リュイーシャは唇をかすかに震わせ、自分の中の精一杯の勇気を奮い立たせた。息をちゃんと吸って深呼吸し、高ぶった感情を落ち着かせる。
そして顔を上げ、アドビスを見つめた。
アドビスの目には自分を案じる光が宿っていたが、リュイーシャの視線を黙って受け止めてくれている。
海に引きずり込まれようとしたあの時、アドビスはリュイーシャの手を取り自分の方へ引き寄せて助けてくれた。その力強い眼差しが、今はリュイーシャに口を開かせるための勇気をくれた。
「きいて下さい、アドビス様。私の罪は、皆を助けたいと心から思えなかったこと。だから、海神との誓いを破り、死ぬ事がこわかったのです……」
「そうか……」
アドビスは静かにうなずいた。
ともすれば気難しく見える鋭い目を細め、もう一度深くうなずいた。
「それでいい。貴女もひとりの人間なのだから……それでいいんだ。よく言ってくれた。リュイーシャ」
リュイーシャは再び目が熱くなるのを感じた。
積み上げた勇気の塔が、アドビスの言葉と共に崩れていくのがわかる。
幼い頃から海神の巫女としての立場を意識してきた。
させられてきた。
人前では常に凛とした態度で接し、島民に不安を与えてはならない。
裏を返せばそれは、自らに与えられた力は絶対だという自信の表れだった。
けれど今のリュイーシャは、巫女としてではなく、一人の人間に立ち戻っていた。
恐ろしい力を振りかざさないで、ただの無邪気な少女に戻りなさい。
自分の心に蓋をして、その中から響く声を無視するのはやめなさい。
ぐらりと揺れた視界を、誰かが肩を掴んで支えてくれた。
アドビスだ。
目を開けると、俯いたアドビスの鋭利な横顔と、深い金色の髪が燭台の光に赤く照らされているのが見えた。
何かを思うように唇を閉ざし、青灰色の瞳は床の一点を凝視している。
そこには二百人の乗員をまとめる艦長としての横顔ではなく、リュイーシャの身を案じるひとりの若い青年の顔だった。
「今日はこれで十分だ。もう休みなさい」
落ち着いたアドビスの声が、ぎしぎしとしなる船の音と共に静かに響いた。
「いえ、大丈夫です」
リュイーシャは肩を抱くアドビスの腕に手を添えた。
元々上等な布地で仕立ててある紺碧の軍服は手触りが良く、その下にあるアドビスの力強い腕の筋が感じられる。
――このままずっとあなたが支えてくれたら。
私は再び前を向いて、歩いていく事ができるかもしれない。
ふと、そんな考えが脳裏をよぎる。
「……大丈夫です。私はすべてをアドビス様に話す事を決めたのです。だから、もう少しだけ聴いて下さい」
私は、離れなければならないから。
あなたから。
リュイーシャは穏やかな微笑を唇に浮かべ、アドビスに向かってうなずいてみせた。
あなたを頼る事は、これで最後にしますから。
どうか。
リュイーシャは寝台の上で姿勢を正した。すっぽりとリュイーシャの手を覆うアドビスの大きな掌をつかみ、肩から離す。
「無理はするな。私はあなたが呼べば、何時でも話をききにここに来るのだから」
「ありがとうございます」
リュイーシャはまだアドビスの手を離さなかった。
蝋燭の明かりに照らされたそれには、海賊との戦闘で負ったのだろう、いくつも白い刀傷がついていた。
きっとこの傷はこれからも増えていくのだろう。
それが彼の選んだ自分の道ならば。
リュイーシャはアドビスの手を離した。
そして、ロードの船に乗せられた後の事。
風を操る巫女の力に目を付けた海賊シグルスが、ロードからリュイーシャ達を無断で連れ出したことをアドビスに話した。
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