【19】リオーネの勇気

「さて、どうする」


 冷ややかな声が背後から聞こえたので、二等士官ハーヴェイは驚きながら振り返った。


「シュバルツ、副長」

「副長」


 ハ-ヴェイの隣にいた掌帆長オルソーも釣られるように振り返る。

 海水に濡れて黒々とした光沢を放つ髪を額に貼付けたまま、シュバルツは青ざめた唇を歪めて海を見つめていた。

 正確には海で溺れかけた水兵と、海神の眷属かもしれないリュニス人の女を乗せてフォルセティ号へ戻る、アドビスの背中を。


「あの女は海の上に立っていたんだぞ? きっと海神の魔女だ。我々の魂を海神に捧げるため、嵐を起こして船を沈めようとしたに違いない」


 シュバルツは海に背を向け、ぐるりと自分を取り囲むように立つ水兵ひとりひとりの顔を眺めた。


「そう思わないか? えっ? ハーヴェイ、オルソー、お前達だって本当はそう思ってるんだろ?」

「……」


 オルソーは黙ったまま俯き甲板を見つめている。


「わ、私は……」


 ハーヴェイは言葉を濁しつつ、けれど意を決して口を開いた。


「副長の仰る通り、リュイーシャさんが普通の人間ではないというのはわかります。ですが、私は、彼女が我々の船を沈めようとしたなんて、到底思えないのです」

「何だって?」


 シュバルツが怒気を含んだ声で叫ぶ。

 その時だ。

 水兵達の輪が自然と開き、小柄な金髪の少女が甲板に現れたのは。


<リュイーシャ姉様はそんなことしてない>


「リオーネさん!?」


 白い布を頭からすっぽりと被るだけの寝巻き姿で、少女――リオーネはまっすぐハーヴェイとシュバルツの元へ歩いてきた。

 誰の付き添いもなしで。


「無事でよかった。船室の窓が割れていたから心配してたんですよ」


 ハーヴェイが心からほっとしたように、リオーネに向かって声をかけた。

 リオーネはまだ十三才だが、姿勢を正し、自分を取り囲むように見つめる男達に物おじすることなく歩いてきた。真綿のようにふわりとした白金の髪が揺れ、森の緑を集めたような瞳はひたとシュバルツを捉えて離さない。


「お前は……あの娘の妹……」


 リオーネはエルシーア語がわからないはずだったが、シュバルツの顔を見たままうなずいた。


<私の姉様は、クレスタを嵐や風から守る巫女姫。海に沈んだこのお船だって、姉様が青の女王様にお祈りして助けてもらったのよ>


「ハーヴェイ、この子供はなんて言ってるんだ?」


 リュニス語のわからないシュバルツは、隣に立つハーヴェイに訊ねた。

 ハーヴェイは甲板に膝をついて、リオーネと同じ目線になるようにした。


「そうだったんですか。やっぱりリュイーシャさんが、我々を助けて下さったんですね」


 リオーネは大きくうなずいた。


「そんな……そんなこと、信じられるか」


 ハーヴェイはそっとリオーネの肩を抱きしめた。


「シュバルツ副長。本当の事だから、リオーネさんはここに来て、それを我々に話してくれたのです。大変な勇気のいることですよ」

「うっ……俺、こういうのに弱いんだよな……。国にいる娘を思い出しちまう。くっ」


 普段がさつで知られるオルソーが、くるりと背を向け袖口で鼻をすすった。


「そうだよな。だって、あの子の姉さんは、海に落ちたジンの野郎を腕に抱えてたんだぜ」


 最初に海に立つリュイーシャの姿を見つけた水兵クーリが、両隣りの同僚達に向かってつぶやく。


「俺達の魂を海神に捧げるつもりだったら、何故、ジンの野郎を助けた? おかしいじゃねえか?」

「それに……すげえきれいだった。魔女っていうのは、もっと妖艶で禍々しいもんだって、死んだばっちゃんからきいた事がある」

「まるであのひとが青の女王様みたいだった」

「その意見にワシも賛成じゃ」


 何時の間にか舵輪を離れ、ウェッジ航海長も水兵達の輪に加わっていた。


「……」


 シュバルツは黙ったまま水兵達を睨み付けた。

 その形相に水兵達は一斉に口を閉ざした。話し声が絶える。


「おい甲板! ハーヴェイ!」


 そんな気まずい空間を断ち切るように、アドビスの声がした。

 それをきいてハーヴェイは弾かれたように立ち上がった。

 その場に立ち尽くすシュバルツの前を横切り、舷門へ駆け寄る。


 そこから海を覗くと、アドビスが雑用艇をフォルセティ号に横付けさせ、舷門から垂れた縄梯子を右手で掴んでいる所だった。

 雑用艇の船底には少年水兵のジンと、まるで手折られた白百合のように横たわるリュイーシャの姿があった。

 二人は死んだように微動だにせず、深い眠りに陥っているようだった。


「すぐ船医の所に運びます」


 ハーヴェイはジンとリュイーシャをフォルセティ号の甲板に上げるため、もっと人手がいることに気付いた。


「ここは私がやる。お前はマヌエルの所に行って、寝台を整えさせろ」


 ハーヴェイは驚きに一瞬目を見開きながら、小さくうなずいた。

 副長シュバルツが、数名の屈強な水兵達を伴って背後に立っていた。


「副長」


 シュバルツは視線を地に落としたまま、上品故に冷たさを感じる唇を歪めて肩をすくめた。


「少々気が動転していたようだ。もしもあの女が魔女なら、シグルスの船だってとっくの昔に沈めていたはずだ。シグルスめ……あの女が風を操る術者ということをわざと隠したに違いない」

「それは……どうしてですか?」


 ハーヴェイはシュバルツに訊ねた。

 するとシュバルツは呆れ果てたようにハーヴェイを睨み付けた。

 こういう時のシュバルツは、リビエラ伯爵家の嫡子として、貴族としての高慢な一面を露骨に見せる。


「わからないか? 愚か者。海では風を制する者が戦闘で勝利する。風下より風上側の方が攻撃も逃亡も有利だ。けれど、あの女が風向きを自在に操れるとしたら、その定石が覆されるのだ。それがどれほど恐ろしく、そして強力な武器となりうるか……ハーヴェイ、そんなこともわからず海尉なんかやっている貴様の頭は、霞がかかってるんじゃないか?」

「……」


 ハーヴェイは唇を噛みしめた。


「そうですね。私はそんなこと、考えた事もありませんでした。では船医の所に行って、二人の為の寝台を用意してもらいます」

「……ああ。そうしろ」


 シュバルツはため息を漏らした。ハーヴェイは舷門から立ち去りながら、シュバルツの横顔をちらと見た。

 彼は雑用艇に立つアドビスを羨望の眼差しで見つめていた。

 その口は独り言を漏らしていた。


「エルシーアの金鷹は無敵だ。本当に『風』を手に入れてしまった。どこへでも自由に飛ぶ事のできる『風』を……」



 ◇◇◇


 

 夜はすっかり明け、さらに半日が過ぎていった。

 海草まみれだった甲板は水兵達の手できれいに掃除され、海に一度沈んだ船とは思えないほどの状態に戻りつつあった。

 アドビスは船尾にある吟味台に海図を広げ、あの嵐でわからなくなったフォルセティ号の現在位置を確認していた。


「正午の天測の数値に間違いはなかったと思うが?」

「間違ってはいません」


 にこにことウェッジ航海長が、こつこつと海図を叩くアドビスの指を見つめ、答える。

 だがアドビスは納得がいかないように海図を再びのぞきこんだ。

 嵐に遭う前に書き込んだ昨日夕刻の船の位置と、先程正午に測って計算した船の位置は、アドビスがかつて見た事のないほどの距離が開いている。

 普通は計算間違いを疑うが、アドビスにウェッジ航海長、そして副長シュバルツの三人で計算して、みんな同じ答えを出した結果がこれなのだ。


「あの嵐で三日分の距離を走ったというのか……?」

「そういうことになりますなぁ」

「ウェッジ航海長。あんたの方が航海年数は長いが、これほど早く走った船に乗った事はあるか?」

「いいや。初めてですよ。しかし、フォルセティ号は海に一度沈んで、あの娘によって風で飛ばされた」


 ウェッジ航海長は年甲斐もなく、きらきらと少年のように瞳を輝かせてアドビスに微笑した。


「そう! ひょっとしたらフォルセティ号は『飛んだ』のかもしれませんね。その瞬間をみたかったが、ワシは海に沈んだ事で腰が抜けて、意識が朦朧としておりましたから……」

「しかし、こんなこと、信じられん……」


 アドビスは手にしていたディバイダーを海図の上に投げ捨てた。

 ははは、とウェッジ航海長が乾いた笑い声をあげる。


「艦長。世の中には不思議なことがあるってことですよ。いいじゃないですか。それだけアノリア港に近付いた。あと三日もあれば陸が見えてきます。久々に旨い酒と新鮮な食い物にありつける日が早まったんですから、水兵達に言ってやったら大喜びしますぜ」


 アドビスは顔を上げて唇に笑みを浮かべた。


「ああそうだな。思えば半年ぶりの陸だ」

「あの、お話中お邪魔してすみません」


 アドビスは前方に見える二重舵輪の横を通って、こちらにやってくる女性の姿を目にした。


「お、お前。ここは士官の指揮所だ。許可なくお前が上がってきていい場所じゃないぞ!」


 ウェッジ航海長が細君であるコーラル夫人に向かって両手を振った。


「今日はいい。航海長」

「え、あ、すいません、艦長」


 ウェッジ航海長は薄くなった額の毛を右手で掻いた。


「何用かな?」


 アドビスは吟味台から離れ、コーラル夫人に近付いた。

 コーラル夫人は茶色の長い髪を綺麗に結い上げ、白い前掛けをかけたゆったりとした裾の普段着姿だった。その裾がざわりと揺れたかと思うと、真綿のような柔らかい白金の髪の女の子がアドビスを見上げていた。


 リュイーシャの妹、リオーネだ。

 リュイーシャが静けさを伴った海のような娘なら、その妹のリオーネは、長い時をかけて島の緑を育む風のようだ。


「アドビスさま、こんにちわ」


アドビスはゆっくりとうなずいてリオーネの挨拶に応えた。

何分男ばかりの軍艦なので、彼女達の身の安全には特に気を配る必要があった。けれど例の嵐の件で、水兵達の態度があからさまに一変したのである。


『グラヴェール艦長は助けた姉妹を艦長室に囲っている』

 そんな噂がアドビスの耳まで入っていたということはさておき、水兵達はハーヴェイやコーラル夫人に連れられて甲板に姿を見せるリオーネに、手を振ったり、笑い返したりするようになった。


 互いの言葉はわからないが、けれどリオーネには相手の心を読む能力があるのだろう。なんといってもあのリュイーシャの妹である。なんとなく身ぶり手ぶりで会話が成立する。そんなことをハーヴェイが口にしていた。

 もっとも、あの嵐の夜からまだ半日しか経っていない。

 身をもってフォルセティ号を救ったリュイーシャの目はまだ醒めない。


 水兵のジンはとっくに目を醒まして、非番の彼は昼食を下甲板でとっている。水兵達の態度が徐々に変わりつつあるのは、彼の存在が大きく影響しているのだろう。

 そんなことを思いながらアドビスは甲板に膝をついた。

 座ってやらないと、自分を見上げるリオーネの細い首が疲れてしまう。


「アドビスさま。あのね、姉様の目が覚めたの」

「……そうか。それはよかった」


 くるりと巻いた毛先を揺らし、リオーネがほっとしたように微笑した。


「だからアドビスさま、姉様の所に来て。姉様がアドビスさまとお話したいって待ってるの」

「……」

「グラヴェール艦長。甲板はワシと副長だけで大丈夫ですから、行ってこられては」


 ウェッジ航海長がにやついた笑みを浮かべてアドビスに言った。


「リュイーシャさん、どうしても艦長にお話したいことがあると言ってました。来られないのなら、甲板まで行きますって……」


 コーラル夫人がそう言い終わらないうちにアドビスは立ち上がった。


「まったく無茶なことを言うな、あのひとは。わかった、すぐ下に降りる。ウェッジ航海長、何かあったらすぐ呼んでくれ」

「はい、艦長」


 ウェッジ航海長とコーラル夫人は、意味ありげに視線を交わした。

 そしていかにも夫婦らしく同じようににやついた笑みを浮かべると、互いに肘でこづきあいながら、甲板を立ち去る二人の背を見送った。

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