【13】船底の魔女

 アドビス・グラヴェールは五等級の軍艦フォルセティ号の艦長で、二百名の乗組員を統率する人間である。

 けれど艦長だからといって、おいそれと立ち入る事ができない場所が船内にはいくつかあった。

 今いる医務室もその一つである。

 しかしアドビスが第三甲板の医務室まで下りることは滅多になく、あるとしても、病人やけが人を見舞う程度しかなかった。


 そこは船の喫水線より下に設けられた一区画。

 終日灯されているのは樹脂ランプの放つ橙色の朧げな明かりのみ。

 日の光が惜しみなく降り注ぎ、海を渡る風を感じる甲板と比べて、ここは地の底のような別世界――。


 船の下層甲板には、鼻をつまみたくなる独特の湿った臭いが漂っている。その臭いの原因は、船底に溜まる『垢水(あかみず)』だ。

 甲板から染みた雨水や海水などは、船壁などを伝って船底へと流れ込み、垢水として徐々に溜まっていく。定期的にそれらは手押しの汲み上げ機でかい出してはいるが、航海に出ている以上、全てなくなくことはありえない。


 それ故に、垢水の放つ臭いは船底に近い医務室まで漂い、消毒薬のすえた臭いと混ざりあって、下層甲板独特の暗く陰気な空気を作り出していた。

 例えるなら、土のない墓場のような――。



「……ひっ。それでお前は助けたというわけかい?」

「やむを得まい。あのリュニス人の姉妹は保護を求めていた」

「保護、ね。ひひっ」

「一体何がおかしい」

「別に。それにしてもつまらないケガをしたもんだ。お前さんなら、ぶっそうな軍刀で綱止め棒の一本や二本、払いのけられただろうに」

「私を買い被るな。そんな余裕はなかった」

「ああそうかい。ひっ」

「……!」


 アドビスは青灰色の瞳を細め、医務室の主を恨めし気に睨み付けた。

 医者が何の予告も無しに、縫合した左腕の傷口へ、消毒液をたっぷりとしみこませた布を半ば叩き付けるように置いたからである。


「マヌエル、もう少しそっとやってくれないか」

「おや痛かったかい? 別に骨が折れてるわけじゃあるまいし。ひひっ。ちょっと手がすべったのさ。悪かったね。ひっ」


 医者――マヌエルは、二百人の乗組員の中で、二人しかいない女性のうちの一人だった。

 けれどいつも目深に黒繻子のヴェールを被っており、小さく『ひっ』と笑う口癖があるので、乗組員からは『船底の魔女』とか『まじない婆』と呼ばれ、奇特な目で見られている。


 若いのか中年なのか老婆なのか。

 マヌエルの顔を白日のもとで見た事があるものは恐らく誰もいないし、アドビスでさえ、彼女がどれくらいの年なのか知らなかった。

 彼女はごわごわとした燃えるような赤毛を一つの三つ編みにして後ろに垂らし、黒い繻子織りのヴェールを被っていた。服も黒いゆったりとした長衣をまとっているので、医者というより辻占い師といった方がしっくりくる。


「運命の風がお前を呼んだね」

「……何?」

「お前が助けたあの娘のことだよ」


 アドビスは眉をひそめ、ただでさえ鋭い青灰色の瞳を細めた。

 マヌエルが水兵達に『まじない婆』と呼ばれる由縁がもう一つある。

 彼女は時々予言めいた言葉を口にした。そしてそれは良い事も悪い事もぴたりと当てるのだった。


 アドビスは黒いヴェールごしに見つめるマヌエルの視線を感じた。

 底意の見えない、けれど何かを確信するような強い視線を。

 女医は「ひっ」と小さく唇をすぼめて笑った。


「私には透視みえるんだ。人の魂のかたちってやつがね。例えば――」


 腕を引っ込めかけたアドビスのそれをマヌエルは容赦なくつかみ、手際良く包帯を巻いていく。

 女医の手は病的に白く魚の腹のようだった。皺一つ刻まれていないそれを見る限り、やはり老婆という年齢ではなさそうだ。

 けれどその声。

 古くなった滑車が立てるような、きいきいとした声は、うら若き乙女というには程遠い。


「お前は海をさすらう孤高の鷹。誰もお前についていく事はできないし、ついてくることを許さない。お前は高みを目指し飛ぶ事を宿命づけられているが、そのためには風をつかまなくちゃならない。お前がお前らしく飛ぶためにやってくる――運命の風を」

「……マヌエル」


 女医はアドビスの手をつかんだまま、熱にうかされたようにつぶやいた。

透視みえるよ。お前が『駈けるものレナンディ』の甲板で出会った風の姿が」

 アドビスは身動き一つすることなく、ただ、ぽっかりと開いた深淵を思わせるようなマヌエルの黒いヴェールを見つめていた。


『――呼ばれた、気がした』

 アドビスは眼を開いたまま、レナンディ号の甲板にいた少女の姿を思いだした。

 何時からそこにいたのだろう。

 白い波飛沫が舞う船首甲板で、彼女は後方から吹きすさぶ風に月影色の淡い金の髪を翻し、あたかも海からやってきたようにうずくまっていた。

 冴えた青い衣のひだが幾重にも水のように広がっていた。

 真珠の肌に、引き込まれそうな深淵をたたえた――青緑の海色の瞳。

 例えるなら、そう。

 碧海の乙女――。

 

 でも彼女は、あの娘は、その華奢な体からは想像できないくらいの声で叫んでいた。

『――今こそそなたの翼で飛ぶ時が来た!』


 途端、強い意思を伴った風がレナンディ号を走らせた。

 私に追いつけるものなら追いついてみるがいい。

 そういっているような気がした。

 


「さあ、できた。グラヴェールの若旦那」


 包帯を巻き終えたマヌエルが、アドビスの左手の甲をぴしゃりとはたいた。

 はっとアドビスは我に返った。


「私、は」


 白昼夢から醒めた後のように、頭がぼうっとしている。

 アドビスは咄嗟に右手で自身の右太腿をつねった。

 鈍い痛みが走る。

 思わず顔をしかめると、マヌエルがアドビスの前に小瓶を置いた。


「痛むのなら薬をあげるよ。ロメイン草の8%溶液だ。これをワインに入れて飲めば、痛みも感じず穏やかに眠れる」


 アドビスは簡素な木の椅子から立ち上がった。医務室はもとより、船内の天井は低いので、長身のアドビスはいつも前かがみの姿勢でないと、頭を太い梁にぶつけてしまう。

 アドビスは椅子の背にかけておいた濃紺の軍服を取り上げ、急いで袖を通した。


「不要だ」


 マヌエルの顔で唯一見る事ができる赤い唇が笑みを浮かべた。


「この薬はいい……。夢を見ない健やかな眠りへ誘ってくれる……」


 アドビスは辟易しながら頭を振った。


「私は滅多に夢をみない。マヌエル、ロメイン草は依存性が高い劇薬だ。あまり多用はしないでくれ」


 黒いヴェールの頭がゆっくりとうなずいた。


「おや、心配してくれるなんて珍しいね。ひっ」


 アドビスは肩をすくめた。


「あんたのことじゃない。私の水兵達を薬漬けにして、肝心な時に使い物にならなくされたら困るということだ。じゃ、世話になった。私は甲板へ戻る」

「若旦那はお忙しい」

「マヌエル。その言い方を甲板でしたら、いくら貴女でも容赦しないぞ」


 マヌエルはぶるっと体を震わせた。黒繻子のヴェールがざわりと揺れる。


「怖い怖い」

「私は貴女の方が恐ろしいがな――船底の魔女よ」


 アドビスはマヌエルを睨み付け、踵を返して医務室を出た。

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