【14】アドビスの横顔

 アドビスの軍艦にリュイーシャたちが救助されてはや三日が過ぎた。

 食事を運んだり、必要なものを届けたりと、リュイーシャ達の部屋を訪れるのは士官ハーヴェイと、もう一人の女性乗組員――ウェッジ航海長の細君コーラル夫人の二人だけだった。

 今までシグルスの船に囚われていた事や、男ばかりが乗っている軍艦ということを考慮して、リュイ-シャ達の部屋に入る事ができるのはこの二人だけらしい。


 コーラル夫人はリュニス語が話せないので、部屋に来る時はいつもハーヴェイを伴って来た。四十前後のふくよかな体型の人で、ハーヴェイいわく海賊をフライパンや鍋を振り回して倒したことがある武勇伝の持ち主らしい。

「やーね! 恥ずかしいから、そんなこと話すもんじゃないよ!」

 コーラル夫人が勢い良く回した腕は、成年男性のハーヴェイより太く、彼は肩を叩かれた拍子に大きくよろめいて部屋の床に尻餅をついた。

 

 コーラル夫人は普段第二甲板にいて、隣の士官部屋にいる三人の士官候補生たちの面倒をみている。まだ十七才の少年である彼等は、読み書きや数学を彼女の夫であるウェッジ航海長から習っているので、彼等の相談にのったり、ほつれた上着の繕いなど、こまごまとした身の回りの世話をするのが、いつしかコーラル夫人の仕事になっていた。

 リュイーシャとリオーネの所に初めて来た時、彼女は二人をやさしく抱きしめてくれた。


「可哀想に。怖い目にあっただろう。でも、この船にいたらもう安心だからね」


 リュイ-シャ達にコーラル夫人のエルシーア語はわからなかったが、彼女の温かい思いやりの気持ちは心に強く染み入った。

 そして彼女は様々なものを用立ててくれた。身を整えるための手鏡や櫛はもちろんのこと、白い綿布を裁って着替え用の衣服まで作ってくれた。


「艦長がどこか補給のために港に寄ってくれたら、もっといい布が手に入るんだけどね」

「いいえ。何から何までお世話になりっぱなしで……ありがとうございます」


 リュイーシャはコーラル夫人に礼をのべてそれらの品を受け取った。

 国籍も違う見知らぬ人間のために尽くしてくれる親切。

 その気持ちはうれしかったが、コーラル夫人やハーヴェイに気を遣ってもらえばもらうほど申し訳ない気持ちで一杯になる。


 二人はリュイーシャたちに何も訊ねなかったから。

 出身はどこで何故シグルスの船に乗っていたのか。

 これからどうするつもりなのか。

 それをきかれる事がリュイーシャにとって今一番怖れていた事だった。

 けれどその時はやってきた。


◇◇◇


 船では時鐘を鳴らす事によって現在の時刻が知らされる。

 それをハーヴェイが教えてくれたので、リュイーシャたちは時の流れを、以前よりもっと正確に知ることができるようになった。


「姉様、今、鐘が八回鳴ったわ。夜の八時ね」

「そうね。そろそろ寝る時間よ、リオーネ」


 船の揺れに合わせて揺れるハンモックに、コーラル夫人が作ってくれた寝巻きを着たリオーネが滑り込んだ。


「姉様、あのね。ハーヴェイさんが明日甲板を案内してくれるって言ってたことだけど……」


 リオーネは新緑色の瞳をリュイーシャに向けておずおずとつぶやいた。

 リュイーシャは無言のまま頷いた。

 ハーヴェイが今夜の夕食を片付ける時に、ずっと船室にこもりきりの自分達を気遣って、天気が良ければ甲板へ出ましょうかと誘ってくれたのだ。


 リオーネはリュニス語ができて春の日だまりのような、やわらかな笑顔を向けるハーヴェイに懐いていた。彼に船の中や仕事の事など、何でもいいからお話してと、せがむようになっていた。


「天気がよかったら行きましょう。そしてハーヴェイさんの言う事をちゃんときいて、彼を困らせないこと」

「わかったわ。私、ハーヴェイさんを困らせない」


 リオーネは小さな唇をきゅっとすぼめて上掛けを顔まで引き上げた。

 その時、いつものように扉を二回叩く音がした。


「こんな時分、誰かしら」


 ハーヴェイさん?

 それともコーラル夫人?

 リュイーシャは船室を二つに区分けできる引き戸を引いて、ハンモックで眠るリオーネにランプの灯が当たらないようにした後、「どうぞ」と覚えたばかりのエルシ-ア語で返事をした。


「夜分遅く失礼する」


 聞き慣れぬ声にはっとしたとき、来客はゆっくりと開いた扉から、長身を折り室内に入って来た。


「あ……」


 リュイーシャは部屋の中ほどに置いてある机の隣で暫し立ち尽くした。

 濃い金髪を手櫛で無造作にかき上げた濃紺の軍服姿の男。

 このフォルセティ号の艦長、アドビス・グラヴェールだ。

 リュイーシャは黙ったままアドビスに頭を垂れた。月の光を集めたような髪がさらさらと肩を流れ落ちていく。


「助けて下さったお礼を先に言わせて下さい。グラヴェール艦長」

「顔を上げてくれないか。もっと早く伺いたかったが、いろいろ雑事があって遅くなってしまったのは私の方だから」


 アドビスにうながされてリュイーシャは顔を上げた。

 大柄なアドビスは船室の天井に頭をぶつけないよう、軽く首を左によじっている。

 こういっては何だが、その様子はちょっと滑稽に見えた。


「すまない。船尾の長椅子に座ってもいいだろうか」


 視線が合うとアドビスは青灰色の瞳を細め、気恥ずかしそうに口元を歪めた。


「はい」


 リュイーシャは小さく笑んだ。

 確かにこの船室はアドビスには狭すぎた。このままずっと立っていたら、彼の首の筋がどうにかなってしまうだろう。

 アドビスは慣れた様子で身を屈ませ、四角い船尾の窓の下に腰掛けられる場所へと歩いていった。


「ごらんのとおり、私の背は馬鹿みたいに高いから。甲板を除けばここが船内で一番楽な場所なのだ」


 窓辺に座ったアドビスはほっとしたように息を吐いた。

 リュイーシャはその場に立ち尽くしたまま口元に手を添えた。


「ごめんなさい。ここはひょっとしてあなたのお部屋じゃ……」


 アドビスが立ったままのリュイーシャをまっすぐ見上げた。


「私はいつも甲板ですごしている。船内は狭くて苦痛なのだ。だから、貴女達が使ってくれる方がいい。それにここは出入口が一つで警備しやすく、窓もあるから閉塞感もあまり感じられないはずだ」

「でも……」

「私の船は決して大きくないが、それでも二百名の人間が乗っている。私の目の届かぬ所で、万一、貴女たちが危険な目に遭うことがあってはならない。貴女たちが望む場所まで、無事に送り届けるまでは……」


 リュイーシャはぎくりと身を強ばらせた。


「グラヴェール艦長、わたし――」

「私の名はアドビスだ。客人に肩書きで呼ばれるのはあまり好きではない。リュニスのリュイーシャどの」


 リュイーシャは窓を背にしてこちらを見つめるアドビスの前まで歩いていった。コーラル夫人が着替えのたしにしてくれと、持って来てくれた白い布の裾が、寄せては返す波の泡のように裸足の足に絡み付く。


「それでは、私のことはただのリュイーシャと呼んで下さい。アドビス様」


 アドビスの言葉を返すようにリュイーシャは淡々とつぶやいた。

 リュニス、という言葉をきいただけで脳裏に皇子ロードの顔が浮かんできた。

 島での平穏な暮らしに終焉をもたらした忌むべき男。

 リュニスという国を守るためにクレスタを犠牲にした男。

 リュニスという名はリュイーシャにとってロードと同一の意味をなす。

 その名を聞くだけで心の中がざわめき、島民が連れ去られていく光景がまざまざと浮かんでくる。

 彼等を守る事ができなかった。

 あの時感じた無力感がリュニスという名前を聞く度に蘇ってくる――。


「失礼した。リュニスは群島国。ひとくくりにした言い方は、貴女にとって違和感を感じてしまうのだな。非礼をお詫びする」


 アドビスはその場から立ち上がって恭しく身を屈めた。


「あ、いえ。そんなつもりじゃないんです」


 リュイーシャはともすれば落ち込みそうになる自分を叱咤して、アドビスに首を振った。


「でも、貴女の出身地はリュニス本島ではないはずだ」

「……」


 リュイーシャはアドビスから顔を背けた。

 目を閉じて、心を落ち着かせようと息を吐いた。

 言わなければならない。

 自分達はどこからきて、何故シグルスの船に乗り合わせることになったのかを。

 思いだしたくない、忌わしき島の記憶を呼び覚まさなければならない。


「まあ、貴女がどこの出身であろうと、私が今知るべき事ではないがな」


 アドビスの言葉にリュイーシャは思わず振り返った。

 アドビスは立ち上がった事で、ぶつけてしまいそうになる頭を庇うために、首を左に傾けている。


「今夜ここに来たのは、勿論貴女たちの様子が気になった事と、現在私の船がどこに向かっているのか、それを知らせようと思ってだ。レナンディ号を取り戻したので、海軍省から命じられた任務の一つが終わった。だから、現在船は北上してエルシーア大陸に向かっている」

「任務の……一つ?」


 アドビスは首を傾けたまま「ああ」と答えた。


「あと捕まえなければならない海賊が五人いる。けれど拿捕した船をエルシーアへ――母港のアスラトルへ回送するための航海士がひとりもいないのだ。十人乗せて来たのだが、この一ヵ月で全部出払ってしまった。だから航海士の補充のために、エルシーア最南端の港アノリアへ向かっているのだ」

「……」


 拿捕した船を回送するために、連れてきた十人の航海士がすべて出払った。

 それが意味するのは、アドビスは最低でも十隻の海賊船を一ヵ月で捕まえたということだ。


 リュイーシャはまじまじとアドビスの顔を見上げた。

 リュイーシャの視線を受け止めたアドビスは、どこか寂し気に鋭利な目を伏せ肩をすくめてみせた。

 私は一ヵ月で十隻の海賊船を捕まえた。

 そう自分の功績を自慢したのなら、彼はもっと誇らしい顔をしているはずだ。

 けれどアドビスはつまらない話をしたと後悔するように、リュイーシャから視線を逸らし、天井でぶらぶらゆれているランプを凝視している。


「ずっと、戦っていらっしゃるの? 国元を離れて。そしてこれからも海賊と戦うのですか?」

「……」


 アドビスの青灰色の瞳が一瞬大きく見開かれた。

 リュイーシャは自分の心の中に、再び金色の鷹が青い海をどこまでも飛んでいく光景が浮かび上がるのを感じた。


「命令、だからな。それに軍人は戦う事が仕事だ」


 ぽつりとつぶやいたアドビスは、ランプを凝視するのをやめてリュイーシャに背を向けていた。


「アノリア港には一週間で着く予定だ。もしも、貴女が行きたいリュニス領の島があれば、アノリアでの補給をすませたのちすぐに向かう。海図が必要ならハーヴェイに届けさせる」

「アドビス様」


 リュイーシャは紺碧の軍服を纏ったアドビスの広い背中に向かって呼びかけた。

 くるりとアドビスが振り返る。

 そこには先程見せた寂し気な表情が消えていた。

 アドビスは軍艦を指揮する威厳ある艦長に戻っていた。実年齢の割に年経た印象が強い青灰色の瞳が力強く光っている。


「私はできるかぎりあなたの希望を叶えるつもりだ。それだけは約束する。リュイーシャどの。それでは夜分失礼した」

「アドビス様、わたし……」


 アドビスはリュイーシャに一礼して部屋から出ていってしまった。


「リュイーシャさん、今宵はもう扉に錠を下ろしますがよろしいですか?」


 いつも部屋の扉を警備している海兵隊の青年が、アドビスを見送った後声をかけてきた。


「ええ……お願いします」


 リュイーシャは覚えたエルシ-ア語で返事をした。

 がちゃり。

 錠が下りる音が今宵はとても重々しく感じるのは気のせいだろうか。

 それにも増して、胸の間をすきま風が通り過ぎていくような寂しさを感じる。


「私が出過ぎたことを言ったから、気を悪くされたんだわ。きっと」


 リュイーシャは小さく溜息をついた。

 アドビスは海軍の軍人である。

 彼が言った通り、軍人の仕事は戦う事である。


『ずっと、戦っていらっしゃるの? 国元を離れて。そしてこれからも海賊と戦うのですか?』


 なんと馬鹿げたことを言ってしまったのだろうと思う。

 けれど同時にリュイーシャは、アドビスが垣間見せた彼らしくない弱気な一面を思い返していた。


 夢で見た金色の鷹はひたすら海を飛び続けた。

 まるで休む事を許されてはいないように。

 どこまでも広大な海を飛び続ける。

 羽根が海風でぼろぼろになり千切れても、鷹は高みまで昇ることができる風を探し飛び続けている。

 その印象は、獲物を求めて海上をずっと航海するアドビスと驚く程よく似ていた。



『明日甲板に出た時、アドビス様にお会いできたら謝ろう』


 リュイーシャは肩を落とし、先程までアドビスが腰掛けていた船尾の窓の下の場所へと歩いていった。

 窓の硝子がびりびりと震え、白い波がぶつかっては波飛沫を上げている。

 狭い隙間を通り過ぎる風のかん高い声が、窓越しからでもはっきりと聞こえる。


「――来る」


 リュイーシャは闇に塗りつぶされた窓をじっと凝視した。

 高らかに笑う風の声は、紛れもなく悪霊に成り果てたものたちのたてる魔詩(まがうた)。

 嵐はすぐそこまでやってきていた。

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