【12】フォルセティ号
外はすっかり日が暮れ、宵闇に覆われていた。
レナンディ号からアドビスの船――フォルセティ号へとやってきたリュイーシャとリオーネは、互いに手を繋ぎながら、アドビスの部下である若い士官の後をついて歩いていた。
彼の背はアドビスより頭半分ほど低く、灰色を帯びた金髪を首の後ろでひとくくりに束ねている。
くっきりと伸びた眉に誠実そうな翠の瞳。年は二十代前半だろうか。
青年はハーヴェイと名乗った。
ハーヴェイは上甲板のミズンマスト(最後尾)の後ろにある昇降口の扉を開き、そこにある短い螺旋階段を降りていった。
階段を降りた所には扉が一つあり、そこには白い剣帯を肩にかけ、水色の制服を纏った海兵隊員が銃剣を持って立っている。
ハーヴェイがうなずくと、海兵隊員は背にした扉から体をずらし移動した。
「お部屋をご用意いたしました。こちらをお使いになられるようにと艦長の命令です」
ハーヴェイは流暢なリュニス語を話した。
一瞬それに驚き、彼の顔を見つめていると、ハーヴェイが困ったように眉間をしかめた。
「あ、あの。私は何か変なことを申し上げてしまったのでしょうか? リュニスは東西に点在する島々の総称ですから、東海と西海じゃ言葉が微妙に違うんですよね」
リュイーシャはハーヴェイの顔を見ながら小さくうなずいた。
「あなたは他国の方なのに、何故私の国の言葉を? あの方も……私の言葉を聞いて、私の国の言葉で話しかけて下さいました」
「あ、ああ、そ、それはですね」
ハーヴェイは照れたように頭をかき、目の前の扉を開くため手を伸ばした。
「数年前からエルシーア海で暴れていた海賊たちが、南――リュニスへ逃亡するようになりまして、それを私達が取り締まっているんです。情報収集のためにも、リュニス語ができる人間が求められたわけで。ちなみに私は、母がリュニス本島の出なので、言葉は母から教わりました」
「まあ」
「さ、お二人ともお疲れでしょう。部屋にお入り下さい」
ハーヴェイに勧められ、リュイーシャとリオーネは中に入った。
室内はこざっぱりとしていた。
いや、はっきりいって『何もない』といったほうが正しいだろうか。
室内の奥は船尾の張り出した四角い窓が並んでいて、そこはちょうど腰を下ろせる長椅子にもなっている。そしてランプが載っている小さな円卓が一つと椅子が一つ。
床に敷物はなく甲板と同じ木材が張られており、壁紙もなく殺風景だ。
「まるで誰かが急いでお引っ越ししたみたいね」
リュイーシャの服の裾を掴んだままリオーネがつぶやいた。
「あ、す、すみません! 必要最小限のものしかまだ用意してなくて」
ハーヴェイの頬が見る間に赤く染まった。
「あ、そうそう。部屋は今、取り外しができる板で二つに区切ってあるんです。勿論外す事もできますが、どうなさいます?」
ハーヴェイの言う通り、部屋の中央は四枚の板で区切られていた。彼はその板をつかみ引き戸のように引っ張った。するとそれらは一枚目の板に重なるようにするすると折り畳まれた。
板で区切られていて今まで見えなかった部屋には、二組のハンモックが吊されている。
「うわぁ。すごい」
リオーネがリュイーシャから離れてハンモックへと駆け寄った。興味深気に帆布でできたそれを触り、よいしょっと、かけ声を上げたかと思うと、船の横揺れにあわせてその中へすべりこんだ。
裸足の足が空をかく。
「リオーネったら……」
リュイーシャは軽く溜息をついた。
妹はこの状況を楽しんでいるようだ。
リュイーシャは額に冷たくなった手を当て、いまだ慣れない船の揺れに戸惑いながらハーヴェイに頭を下げた。
「ありがとうございます。私達をあの船から連れ出して下さっただけでも、本当にありがたいことなのに。部屋まで用意して下さって」
「あ、いえ」
冒頭に『あ』と言ってしまうのはハーヴェイの口癖のようだ。
根はとても誠実そうな青年は、頬を赤らめながら優雅に一礼してリュイーシャに暇を告げた。
「必要なものがあればご用意いたします。部屋の警護も海兵隊員がしておりますのでどうぞご安心を。けれど無粋な軍艦ですので、ご不便をおかけすると思います」
リュイーシャは微笑した。
「私達のことはどうぞ気になさらないで。それから――あの方にもお礼を伝えて下さいませんか?」
ふと脳裏にアドビスと名乗った背の高い青年の姿が浮かんだ。
彼は『他にやることがあるので』と、リュイーシャ達を自分の船に乗せてから船内へと降りていってしまった。
直に礼を言いたいのはやまやまだが、軍艦の艦長というのは忙しいのだろう。だから、リュイーシャは大人しく部屋で待つ事にしたのだ。
「承知いたしました。グラヴェール艦長に必ず伝えます」
ハーヴェイは礼儀正しく頭を垂れ、『後から食事をお持ちします』と言って部屋を出ていった。
一人残ったリュイーシャは、ほうと溜息をつき、静かになったハンモックの方へ視線を向けた。
リオーネがすやすやと眠り込んでいる。
疲れていたのだろう。無理もない。
この数日間、考えられない事ばかり起きた。
信じたくないことばかりが起きた。
眠る事でそれらを忘れる事ができたらどんなにいいか。
リオーネの寝顔を覗き込み、やわらかな髪を何度かなでてから、リュイーシャもまた船尾の窓の前にしつらえてある長椅子へと腰を下ろした。
船はゆっくりとした周期で横揺れを繰り返し、時々床が持ち上がるように上がったかと思うと、ずうんと下がり、リュイーシャの平衡感覚を狂わせる。
窓の硝子にリュイーシャは額をつけて目を閉じた。不快感が少しだけ和らぐ。硝子の冷たさが水を思わせるようで心地良い。
――私は逃げたかった。なにもかもから。
だから自分の運命を風に委ねた。
シグルスと同行する気は最初からなかった。
あの男は父カイゼルが、異母兄ロードに殺されるのを、じっと冷酷に見つめていたのだ。
父の非業の運命を知りつつ黙って見ていたのだ。
ましてや海賊である彼の仕事を手伝う気もなかった。
寧ろ、あのままシグルスの言う事をきいていたら。
リュイーシャが風を操る力を目の当たりにした彼は、自由にするという約束など最初からなかったように振る舞っていたはずだ。
ロードから自分を無断で奪いとったように。
今日は味方でも、明日になれば敵となる。
シグルスとはそういう人間だ。
リュイーシャはふとシグルスがどうなったのか気になった。
アドビスはシグルスに奪われていたレナンディ号を取りかえすため、彼を追っていたのだと言っていたが。
その身を拘束したのだろうか。
あるいは死んだのだろうか。
レナンディ号の甲板にシグルスの姿はなかった。
少なくとも、アドビスの部下たちに殺された海賊の死体の中に、シグルスはいなかった。
「……もう、忘れましょう……」
リュイーシャは波の音に耳をすませ、三日月の島――クレスタの、海神の神殿で潮騒をきいていた日々を思い出そうとした。
けれど島を思えば思うほど、突き落とされるような深い濃紺の海と、苦い苦い悲しみだけが胸にせり上がってくる。
島に戻っても誰もいない。
父は埋葬されることなく、館の別邸で今も冷たい床にその身を晒し続けている。
島の人々はロードのせいで、どこか見知らぬ場所へと連れ去られた。
リュイーシャの覚えている島のありふれた日常は――。
心の奥にしまわれた思い出の中以外、もう、どこにも、ない。
いつしかリュイーシャは暗い眠りの淵に滑り落ちた。
その中で夢を見ていた。
遠く鳴り響く波の音と風の歌声に耳をすませながら、再びレナンディ号の船首甲板に立っていた。
――連れていって。
風よ。私を何処か遠くへ。
暗闇の中に金色の光が見えた。
風を呼べば呼ぶほどその光はまばゆく輝き、力強さを帯びて、リュイーシャの元へとやってくる。
光はやがて、荒ぶる風を翼に乗せて虚空を駆ける鷹の姿となった。
――私は、知っている。
金色の鷹の魂を、内に秘めたるかの人を。
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