【11】運命の風

 レナンディ号の右後方から突如激しい風が吹き出した。穏やかだった宵闇の海に、強風にあおられて白い鋭利な三角波が生まれていく。

 生気を失っていた帆は勢い良くそれをはらんだが、レナンディ号の甲板はぶつかってきた波のせいで大きく左右に揺れた。

 男達が叫び声を上げる。彼等の船もまた突風のせいで安定を失い、激しく船体が揺さぶられたのだ。


「ああっ」


 思ってもみなかった船の揺れに、リュイーシャは甲板へ半ば倒れるようにうずくまった。ざらついた甲板に両手を付き、崩れた体を支える。背に流していた金の髪が乱れ、顔にまとわりつく。

 それらを払いのけながら、リュイーシャは目の前の光景に愕然となった。


「どうして……?」


 帆が風をはらめば船は前進すると単純に思っていた。

 けれどレナンディ号の帆は折角起こした風をうまくはらんではいなかった。

 雷鳴のような音を立てて、帆が波打ちながら激しくばたついている。

 こんな状態で船は前進しているのだろうか。けれどそれよりももっと恐ろしい光景に、リュイーシャの目は釘付けになっていた。


 マストに対して垂直に取り付けられている帆桁から伸びた上げ綱が、甲板を鞭のように打ちつけ、狂ったように跳ね回っているのだ。

 上げ綱は人力で大きな帆を上げることができるよう、木製の滑車がついている。中にはリュイーシャの頭ぐらいある大きなものがある。


 しかもそれらが強風のあおりを喰らって、ぶらぶらと振り子のように揺れていた。

 一つや二つではない。百以上の滑車がめくら一方に揺れている。これらが万一落下すれば、人間の頭蓋など容易く割れてしまうだろう。

   

 風を止めなければ。

 甲板に座り込んだリュイーシャは、せめてその強さを弱めようと顔を上げた。が、背後でびりびりと帆が破ける大きな音に驚き、思わず振り返った。

 灰色の布の切れ端が上空へ飛んでいく。 

 舳先に上げられていた三枚の三角帆が、風に耐えきれず千切れ飛んだのだ。

 けれど帆が引き裂かれただけではすまなかった。

 それらの帆の上げ綱は、舳先から十歩ほど離れたフォアマストの前の綱止めの棒に、横一列に巻き付けられ固定されていた。けれど帆と一緒に、綱止めの太い棒も引き抜かれ、上空へ舞い上がったのである。


 リュイーシャは恐怖のあまりその場から動くことができなかった。

 棍棒のような太いそれが、まさにリュイーシャの頭上めがけて落下してきたのだ。

 ガツン!

 最初の一本がリュイーシャの目の前の甲板に落ちて前方へ跳ねた。

 ビシッ!

 次の一本が右舷の船縁を掠めてぶつかり、その衝撃で真っ二つにへし折れた。

 折れた破片がくるくる舞い、リュイ-シャめがけて飛んでくる。


「――――!」


 リュイーシャは目をつぶり体を竦ませた。

 うなる破片の音のみがしんとした静寂の中で響き、ふと、死を意識した。


 シグルスを追跡してきた者達を利用して、双方を戦わせたのはこの私。

 だから報いを受けるのだ。きっと――。

 けれど待てども破片がリュイーシャの体に突き刺さる気配はなかった。

 その代わり、耳慣れない言葉が降ってきた。


<じっとしていろ>


 リュイーシャは目を開いた。

 耳に聞こえた言葉は異国のものらしく、何と言ったか理解できなかったが、心に響いた声はそう聞こえた。

 落ち着いた深みのある男の声だった。


 今の声は一体何処から?


 顔を上げると目の前には広い背中があった。

 まるでリュイーシャを庇う盾のように、片膝を甲板についた見知らぬ男がそこにいた。

 男は裾の長い濃紺の軍服を身に纏い、左腕を少し曲げ、それを前方に突き出した体勢で、リュイーシャに顔を向けている。軍服の襟足にかかる濃い金髪は、後方へ無造作にかきあげられており、その横顔は通った鼻梁が猛禽の類いを彷佛させるように鋭利であった。

 青白い宵闇の中、きらりと男の瞳が光った。

 シグルスより若く、けれどシグルスよりどこか年経た雰囲気を持った青年の目。


 何故こんな船にリュイーシャがいるのかわからない。

 そう言いたげに、不思議そうに、軍服を纏った青年はじっとこちらを見つめていた。

 その時リュイーシャは気付いた。

 彼の左腕には自分に突き刺さるはずだった木片が、肘の少し上の辺りに食い込んでいることを。

 リュイーシャがそれを見ている事に気付いた青年は、唇を一瞬歪めて顔色を変える事なく、何事もなかったように、木片を右手でむずと掴んだ。そして一気にそれを引き抜くと、誰もいない後方へと投げ捨てた。


<ここに座って動くんじゃない>


 青年の言葉はやはりリュイーシャにはわからなかったが、それでも彼が何を言っているのか心では感じる事ができた。

 リュイーシャはうなずいた。


 木片を受けた左腕の傷は大丈夫だろうか。

 リュイーシャの心配を他所に、青年は軍服の裾を翻して立ち上がった。そして跳ね回る上げ綱に近付くと、動じることなく、それらを捕まえては手際良く船縁近くの綱止めへと巻き付けていった。

 一本、二本。

 そして後ろの甲板に向かって何事かを命じるように叫んだ。


 青年と同じ色の軍服をまとった男が二人いて、一人が舵輪にとりつき、もう一人が緩みかけた上げ綱を再びしっかりと結び直している。

 甲板はリュイーシャならまともに立っていられないほど左右にぐらぐらと揺れている。けれど彼等はあの金髪の青年が命ずるまま、着々と乱れた帆を整え、上げ綱を綱止めに巻き付けていく。

 整然と作業に励むその姿には賞賛を贈りたくなる。


 そこでリュイーシャは我に返った。

 風を止めなければ……。

 リュイーシャは心から自分の行為を悔いた。無知さを悔いた。


 ――私は、逃げたかった。

   シグルスから。

   海賊から。

   彼等を追う謎の船から。

   今の自分の置かれた境遇から。

   何もかもに背を向けて、どこでもいい。

   とにかくここから離れたかった。



 リュイーシャは舳先の手前の甲板に座り込んだまま、そっと天を仰いだ。


 ――ありがとう。もういいわ。

   『――駆ける者レナンディよ』



 風の勢いはみるみるなくなり、リュイーシャの頬を撫でるそよ風へと変わっていった。

 リュイーシャは頬に手を添え息を吐いた。

 全てはもうお終いだ。

 船を動かす目論みは失敗し、今度はシグルスを追っていた連中の虜となるのだ。

 なんだかとても疲れてしまった。

 何よりも心が一気に磨耗してしまった感じだ。

 けだるい疲労感に身を任せ目を閉じる間際、真っ黒な空に青く輝く星が見えた。

 

<おい、大丈夫か?>

   

 それは星ではなかった。

 誰かがリュイーシャの肩を揺さぶっている。

 塞がりかけた目蓋をなんとか開いてみると、あの軍服の青年がリュイーシャの顔をのぞきこんでいた。

 どことなく父カイゼルを思いださせるような、優しい光が青灰色の瞳に宿っている。青年はリュイーシャのことを気遣うように眉間をしかめながら、穏やかな口調で語りかけてきた。


<見た所、シグルスの仲間ではなさそうだな。あの男に捕まっていたのか? 他に捕えられている者はいるのか?>


 青年はかなり背が高いのだろう。リュイーシャの肩を遠慮がちに支えるその手は若木のように長細くてとても大きい。

 リュイーシャはふと海に抱かれている時に感じる安心感を目の前の男から感じとった。例えるならそれは、何事にも動じず、大波がぶつかっても存在し続ける雄々しき巌――。


「あなたは……だれ……?」


 リュイーシャは掠れた声でそれだけを青年に訊ねた。

 青年は一瞬金の眉をひそめ、リュイーシャの顔を黙って見つめ続けた。


「リュニスの、者か。貴女、は」


 息を飲んだのはリュイーシャの方だった。

 少しつっかえた言い方だが、青年はリュイーシャと同じ言葉で答えたのだ。

 視線が合うと青年ははにかんだように唇を歪ませた。

 その時だけ、落ち着いた印象を受ける瞳が、照れたように細められた。


「リュニスの西海語を話すのは、随分と久しぶりだったから。私のいう意味が、わからなかったら、聞き返してくれないか」

「お話……よく、わかります」


 リュイーシャは肩に載せられた青年の手に自らのそれを重ねた。


「支えて下さってありがとうございます。もう……大丈夫……」


 青年はリュイーシャの顔を心配げに覗き込みながら、意味を察したのか触れていた肩からゆっくりと手を離した。まるで壊れ物を扱うように、慎重な仕種で。リュイーシャのことを気遣っている様子が傍目でもうかがえた。


「けれど顔色が悪い。どこか怪我は?」


 先程より流暢になった青年の言葉に、リュイーシャは思わず「大丈夫です」と頭を振って答えた。うっすらと微笑する。

 だが次の瞬間、そんな自分にリュイーシャは恐ろしさを感じた。

 まだこの青年が自分の味方になるか、それとも敵になるのかわからないというのに。

 心の奥底でははや気を許しかけている自分がいる。

 いろんなことが一度に起きたせいで、今の自分は正しい判断が下せない、危うい精神状態にあるのだろう。

 溺れる者は藁をも掴む。

 今の苦境から逃れたいばかりに、後先考えず、手近なものに片っ端から救いを求めてしまう。

 それがどれほど危ない事か。

 シグルスの件で嫌と言うほど思い知らされたのに……。

   

 そんなことをぼんやりと考えていたリュイーシャは、ふと青年の左手から、鮮血が細い川のように伝い甲板へ滴り落ちていることに気が付いた。

 銀の飾り縁で彩られた軍服の袖口が、引き裂かれたようになっている事にも。

 そう。この青年はリュイーシャの命を身をもって助けてくれたのだ。


「ごめんなさい。私のせいで、あなたが怪我を」


 青年はそっと右手を左腕に添えた。ふっと唇の端で笑う。


「腕を掠めただけなので心配することはない。それよりも仕立てたばかりの軍服の袖口の方が、悲惨な事になっている」


 青年は溜息をつきながら、破れて穴の開いた袖口を見やった。


「まあ、こちらも大事ない。エルシーアへ帰るまで、しばらく本部へ呼び出される事もないからな」

「エルシーア……?」


 青年はゆっくりとうなずいて立ち上がった。

 思った通り、船のマストを思わせるような、見上げるように背の高い男だった。


<ハーヴェイ! 風が止んで来た。裏帆をうたせて一時停船だ>


 青年はリュイーシャに背を向けて、こちらへやってくる軍服を着た士官にエルシーア語で命じた。


<了解しました。ウェッジ航海長に伝えます! グラヴェール艦長>


 青年は士官の返答を確認して、やおら右舷の船縁へと寄った。

 どの索がどの帆に繋がっているのか。

 リュイーシャでは到底わからない、幾つもある上げ綱の一つを掴み、猛烈な勢いでそれを引っ張る。

 頭上で木材が軋む音がする。

 どうやら帆の角度を変えているようだ。

 リュイーシャはそれをじっと見つめていた。

 あの青年が何者であるか。

 一つだけ確かに言える。

 それは『船乗り』だということ。



 リュイーシャは船乗りといえば、島に真珠を買い付けに来る商人しか知らなかった。けれど彼等は厳密にいえば、自分の船を動かす水夫を雇って航海しているにすぎず、本物の『船乗り』ではない。

 リュイーシャが知る『船乗り』は、父カイゼルのみだ。

 リュニス本国の島から遠く離れた三日月の島クレスタへはるばる航海してきた父は、子守唄代わりにその時のことを話してくれたものだ。


 この人は『船乗り』だ。

 潮を読み風を読み、船を操る『船乗り』だ。


 膨らみ過ぎていた帆は風が抜け、ばたばたと再び音を立てて鳴りだした。

 風上に舳先を立てたレナンディ号は、船足をみるみる落としていく。

 リュイーシャは船の揺れが今はそれほど酷くなく、何も支えがなくても立ち上がれるほど収まったことに気が付いた。


「あなたは……」


 リュイーシャは立ち上がった。

 一番前のマストに上げられた、三枚の四角い帆の向きを変えた青年は、船縁の綱止めの棒にぐるぐると上げ綱を巻き付け固定している所だった。

 その手際の良さについ目を奪われていると、振り返った青年と目があった。

 青年は作業を終えて、再びリュイーシャの方へ歩いて来た。

 無造作に後ろへかき上げられている髪を、金色の獅子の鬣のようになびかせながら。


「私はエルシーア海軍のアドビス・グラヴェール。このレナンディ号を我が海軍から奪い、逃走していた賊を追ってここへ来た。貴女は?」


 リュイーシャは名乗った青年――アドビスに向かって腰を折り頭を垂れた。

 今はこの青年に自分とリオーネの運命をゆだねるしかない。

 見知らぬ女のために、己が傷つくことを恐れず、命を助けてくれたアドビスに。

 彼が高潔な魂を持つ者と信じて、再度その正義を信じてみるしかない。 

 

「……私の名はリュイーシャ。それから、船倉に妹がいます。どうか私達を助けて下さい。お願いです」

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