【10】相撃ちの罠

 一方、霧を発生させてシグルスの目をくらませたリュイーシャは、リオーネと共にレナンディ駆ける者号の船倉へと移動していた。誰にも気付かれることなく。

 追尾してくる船を振り切るため、シグルスの手下達は総員が甲板へ召集されていたので、船室には誰も残っていなかったからだ。

 リュイーシャは先程まで入れられていた船倉に戻ると、きょろきょろと辺りを見回した。

 大丈夫だ。誰もここにはいない。


「さ、リオーネ。もう一度だけ樽の中に入って」


 シグルスが用意した衣装箱の後ろには、リュイーシャとリオーネ、二人がなんとか一緒に入れるぐらいの樽が置かれている。


「で、でも姉様」


 蓋を開けると樽からは木の腐った臭気に加え、酸っぱい酒の臭いが漂ってきた。両手で鼻を押さえて、リオーネはさも嫌そうに眉をしかめる。


「お願い」


 リュイーシャの押し殺した声にリオーネは渋々うなずいた。固く強ばったその声からリュイーシャの緊張感を察したのだろう。

 リュイーシャは妹の体を抱えて背の高い樽の縁に手をかけさせると、中に入るのを手伝った。


「リュイーシャ姉様も早く」


 樽の中でリオーネが不安を隠しきれない様子で見上げている。


「ええ」


 樽の縁に手をかけて体を持ち上げ、下にいるリオーネにぶつからないよう注意して中に入る。


「姉様。一体どうなってるの? どうなるの、私達」


 リオーネの問いにリュイーシャは黙って首を振った。

 今はじっと待つしかない。上の騒ぎが収まるまで――。

 リュイーシャはリオーネの肩に手を回してその体を自分の方へ引き寄せた。


 握りしめた妹の手はすっかり冷えきってしまっている。

 どうしてこんなことになったのだろう。

 リュイーシャは自分の両手でリオーネの手を包み込み、冷たくなったそれを温めてやった。甲板で海風に当たったせいで冷えたのではない。


 リュイーシャもまた、先の見えない不安に心がおののくのを感じていた。

 形振り構わずいっそ泣きわめけば、気持ちがすっきりするかもしれない。

 でもそれは危険な行為であった。

 自分達の存在は決して知られてはならない。海賊たちにも、そしてシグルスを追ってきた者達にも。

 リュイーシャは叫ぶ代わりにぎゅっと唇を噛みしめた。



 ◇◇◇



 どれくらい時が経っただろう。

 暗闇の中でリュイーシャは天井(甲板)からの音に耳をすませていた。

 甲板で戦闘が起きたのは確かだ。

 霧で海賊達の視界をきかなくさせ、その後徐々に風向きを変えて、彼等が怖れている追跡船の方へ向かうように仕向けた所、思惑通り鉢合わせする結果になったからだ。

 剣と剣がからみ合う金属音や、負傷した人間の叫び声は、船倉まで延々響き渡っていた。

 しかしそれが少し前から途絶えた。


「リオーネ」


 リュイーシャはそっと妹へ声をかけた。リュイーシャにもたれる形で座っていたリオーネの目蓋が静かに開く。


「私、外へ出て様子を見てくるわ。だからリオーネはここで待ってて」

「姉様」

「私はまだ……やることがあるの。でもそれが終わったらすぐ戻ってくるから、リオーネはここでじっとしてて」

「リュイーシャ姉様っ!」


 リュイーシャはゆっくりと立ち上がった。用心のため顔だけ出して周囲を見回す。けれど船倉には誰も降りてきてはいないようだ。

 今のうちだ。

 リュイーシャは樽の縁に手をかけて体を持ち上げると外に出た。


「リュイーシャ姉様……」


 弱々しく呼ぶリオーネの声にリュイーシャは小さく溜息をついて樽の中をのぞきこんだ。


「黙ってここに隠れているのよ。私が戻るまで。いいわね?」


 リオーネをひとりぼっちでこんな樽の中に入れるのは忍びなかった。けれど自分がいなくなった後、誰が船倉にやってくるかわからない。

 リュイーシャは傍らに落ちていた樽の蓋を取り上げた。


「蓋を閉めておくわ。すぐに戻るから、ここにいてね。約束よ?」

「……うん……」


 今にも泣き出しそうなリオーネに向かって、優しく微笑しながらリュイーシャは樽の蓋を閉めた。

   

 ――ごめんね、リオーネ。

  あともうちょっとの辛抱だから……。


 リュイーシャは船倉の暗闇の中で、どきどきと鼓動を刻む己が胸に手を当てた。その高まりは正気が保てなくなるのではないだろうかと思うくらい、どんどん強くなっていく。


 ――落ち着いて。

  焦らないで。そっと、甲板の様子を見に行くの。


 リュイーシャは手探りで船倉から外に出る扉へとたどり着いた。

 それを開けると人ひとりが通れるくらいの細い通路が伸びている。そこをまっすぐ歩いていくと、上の甲板に上がるための梯子へたどり着く。

 この通路にも人の気配はなかった。リュイーシャは梯子まで歩み寄ると、それにとりつきゆっくりと上がっていった。


 船倉の上の甲板はシグルスの手下達の居住区になっているようだ。甲板の真ん中には太いマストが柱のように突き抜け、船壁には細い綱で編まれたハンモックが、二つに折り畳まれた状態でずらりと吊り下げられている。


 リュイーシャがいるのはちょうどレナンディ号の真ん中あたりの場所で、マストの後ろには後部上甲板へ行くための開口部が開いている。ここも梯子が立て掛けられており、その時リュイーシャは人の気配に気付いた。


 聞き慣れない言葉がして、誰かが梯子からこの下甲板へ降りてくる。リュイーシャは咄嗟に回れ右をして、前部――船首側に向かって走り出した。

 船室をまっすぐ走ると、目の前にだらりと灰色の帆布がタペストリーのように垂れ下がっている場所へと出た。

 リュイーシャは振り返ることなくその布を持ち上げて中へと入った。

 とにかく今は姿を誰にもみられたくない。

 身を隠したい一心で飛び込んだ部屋だが、リュイーシャは戸惑った。油のきつい臭いと湿った布の臭いが同時に押し寄せてきたので、息が一瞬できなくなってしまったのだ。


 けれど暗がりに目が慣れてくると、沢山の帆布や長細い木材がそこかしこに積まれているのが見えた。どうやらここは予備の帆などをしまう倉庫のようだ。

 カビ臭い臭いに辟易し、新鮮な空気を求めて辺りを見回すと、四角い光が前方の床を照らしているのが見えた。倉庫から出てその光に誘われるようにリュイーシャは近付いた。

 船首甲板へ出るための開口部が頭上にあった。都合良く梯子も立て掛けられている。


「……」


 またもや後方で人の話し声がした。さっき聞こえた人声と同じだ。

 リュイーシャは迷うことなく梯子にとびつき上へと上がっていった。


   

 ◇◇◇



 黄昏の光は弱くなり、宵闇が辺りを包み込もうとしていた。

 うねる海面と水平線の境目だけが、白っぽく光っている。

 船首部の開口部からそろそろとリュイーシャは這い出した。咄嗟に槍のように突き出た舳先の根元へ背中を押し付けて身を隠し、甲板の様子をうかがった。


「……!」


 人が倒れている。ここから少し離れた、丁度船の真ん中あたりの甲板に。

 一人や二人ではない。見た所十数人。ある者はうつぶせに。ある者は船縁に寄りかかるように。

 彼等はシグルスの手下達だろう。もっとも、彼等の姿は甲板に出た時ちらりとしかみなかったが、雰囲気でそれと知れた。


 おそらく彼等は死んでいるのだ。微動だにしないその体を、白い服に濃紺のズボンをはいた数人の見慣れぬ男たちが、戸板に載せ、船縁から海に向かって黙々と投げ込んでいる。

 リュイーシャは思わず両手で口を覆い、出てきた嗚咽を飲み込んだ。額から冷たい汗が流れ落ちる。彼等はリュイーシャの目論みのせいで死んだのだ。

   

 ばしゃん。

 甲板に倒れ伏していた最後の一人が舷側から暗い海へと投げ込まれた。

 白い服を着た男達は、その作業を中央のマストのそばで見守っていた、背の高い士官の命令で、自分達が乗って来た船に帰っていく。シグルスの船と彼等の船の間には、細長い板が渡されて、自由に行き来ができるようになっているようだ。


 今、レナンディ号の甲板に残っているのは背の高い軍服の男が一人。

 そして後は、下の甲板に降りているのが数人か。

 リュイーシャは早まる鼓動を必死に抑えながら、ちらと前方のマストへ視線を向けた。

 追跡を振り切るため、レナンディ号は三本のマストにすべての帆を広げていたが、今それらはだらりと力なく垂れ下がっていた。

 風は微風で、帆のすそを小さくはためかす程度の強さしかない。

 リュイーシャはやおら立ち上がった。


 ――今だ。


 右手を頭上へ高々と差し上げ、あらんかぎりの声で風を呼ぶ。

 この風に乗って逃げるのだ。

 何もかもすべてから。


駆ける者レナンディよ――今こそそなたの翼で飛ぶ時が来た!』

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