【7】隻眼の男

『銀の海獅子』号のフォアマストの檣楼に、右目を黒眼帯で覆った男――シグルスは立っていた。

 膝丈まである黒衣の裾を後方から吹く海風になびかせ、銀細工の凝った意匠が施されたベルトには、それに合わせて作られた揃いの短剣が吊されている。


 一見傭兵を思わせる格好だが、その殺伐とした雰囲気を和やかにする生き物が右肩に止まっていた。つぶらで黒い瞳をぱちぱちと瞬かせながら、黄色い小さなくちばしで、シグルスの襟足にかかる黒髪を梳くようについばむ。


「痛っ!」


 シグルスは舌打ちすると、肩に止まらせていた白い鳥に向かって右手を伸ばした。


「こっちへ来い! 全くお前は……いつもいつもつっ突きやがって。俺の耳をなんだと思ってるんだ」


 シグルスは毒づきながら右手の甲に止まらせた鳥をながめた。

 可愛いやつだが、こいつは肩に止まると何故かシグルスの耳たぶをついばむ。ふにゃりとした感触が好きなのかどうかはしらない。けれどこの鳥にとってシグルスの耳朶は格好のいい玩具のようなのだ。


 鳥は不機嫌になったシグルスの顔を見ながら、まるっこい頭をちょこんと傾けた。額から後頭部にかけてくるんとカールした飾り羽が、風にあおられて揺れている。


 何か悪い事でもしたでしょうか?

 そう言いたげにに、鳥はシグルスの顔をじっと見つめ続ける。

 黒水晶のように煌めく邪気のない美しい瞳で。


「そんな顔で俺を見るな。くそっ」


 シグルスは眉間に皺を寄せながら唇を歪めた。そして小さく自嘲した。

 動物はいい。

 一度心を許した相手を決して裏切ることがない。

 俺とは違って。


「さてお前に仕事だ。フルール」


 シグルスは左手で鳥を優しく掴んだ。親指と人差し指で鳥の首を押さえ仰向かせる。黄色い水掻きのついた二本の足首には、シグルスの小指ほどの太さの革筒が取り付けられている。

 シグルスは上着のポケットに右手を突っ込み、小さく丸めた紙を慎重に取り出した。それを筒の中に入れ、しっかりと封をする。その後、大人しくしている鳥を、両手で挟み込むように持ち替えた。


「レナンディ(駆けるもの)号へ帰れ。――それ、行け!」


 シグルスは鳥を空へ放った。

 白い羽を羽ばたかせて鳥は『銀の海獅子』号の帆に影を落とし、北へと飛び去った。それを残された左目で追いかけて、シグルスはげんなりと肩を落とし、安らぎを求めるように輝く水平線へと視線を移した。


「さて……あの頑固で麗しき巫女姫の機嫌を伺いにいくとするか」


 クレスタの風の守人。海神の巫女。

 リュニスの海に生きるものなら一度は聞いた事があるその存在。

 クレスタの側を通る度にリュニスの船乗りは、北の岬の先端にそびえる海神の神殿に、その麗しき姿がないかマストに登って目をこらした。


 昔より風を操るその力を得んと、クレスタを訪れる船はいくつもあった。

 だが巫女に許された船でない限り、島を守るように吹き荒れる風のせいで近付く事すら叶わなかった。

 先代の巫女は風を操る技も容姿にも優れ、海神の娘とも呼ばれていた。島を通る船の中で、邪な意識を持つ人間がいるかどうか。それを島にいながら感知することができたという。


 だがあの娘は、まだそこまで己の力を使いこなせてはいないようだ。

 真珠の買い付けに来た本国の船。それを素直に信じ、風の守りを解いてロードの船を招き入れてしまったのだから。


「おかげで俺にもその恩恵が巡ってはきたがな」


 シグルスは再び溜息を吐くと、マストの静索に手を伸ばし、高所におののく事なく甲板へと降りていった。

   



   ◇◇◇




 ――返して下さい。

 私にはもう、リオーネしかいないのです!


 リュイーシャの声はロードのそれにあっさりと打ち消された。


『妹はすっかり憔悴しておる。薬師に診せた方がいい。お前の待遇も案ずることはない。男共のいる船倉へ放り込んだりはしない』

『私がいないとリオーネは不安がります。あの子の側に私もいさせて下さい!』


 だが願いを乞うリュイーシャの声を無視して、黒い眼帯の男がリオーネを抱えて甲板から消えた。リュイーシャはそれを追おうとしたが、再び腕をロードに掴まれた。


 リオーネと引き離されてしまった。

 今頃あの子はどうしているだろう。

 私の事を心配し、寂しさと恐ろしさのせいで泣いていないだろうか。

 泣いたせいでぶたれたりはしていないだろうか。

 傷つけられたりしてはいないだろうか。


「……」

 リュイーシャはけだる気に目を開けた。リオーネと引き離されて連れてこられたのは、上甲板から二つ階段を降りた船尾側の小さな部屋。ロードの船は第二甲板と第三甲板に大砲が備え付けられている軍艦であるが、皇室専用艦ゆえに客室もいくつか作られていた。


 四角い小さな窓が一つあり、そこから差し込む陽の光のせいで、朝か夜か、時間を知る事ができた。室内は赤地に金泊で細かな模様が描かれた壁紙が張り付けられていて、天井には小さいながらも水晶を加工して作られたランプが吊り下げられている。リュイーシャが体を横たえている寝台は、絹にくるまれたふかふかの羽布団だ。


 壁際には小型の船箪笥が備え付けられていて、ロードはそこから好きな服を着れば良いと言った。クレスタに来る前に女の客を乗せていて、ここは彼女が使った部屋だという。身を整える鏡や櫛もそこに入っている。足りないものがあれば遠慮なくいえばいい。本国までの航海は長い。お前の好きに使ってくれ。


 しかしリュイーシャはずっと寝台に伏せていた。月の光のように輝く髪を梳る事なく乱れるに任せ、箪笥はおろか、運ばれてくる食事にも一切手をつけなかった。

 身動きしないその様は壊れかけた人形のようだった。


 リュイーシャが食事をとろうとしない。水も飲もうとしない。

 その知らせを聞き付けてロードが昨晩部屋にやってきた。クレスタを離れて二日目の夜だった。


『私の願いはただ一つ。リオーネと一緒にいさせて下さい』


 リュイーシャはそのために食事を断つことにしたのである。

 唯一できるロードへの抵抗だった。


『お前を心配させたくなくて言わなかったが、妹は心労で疲れきっている。薬師の目が届く所に今はいなくてはならん。よくなったらここへ連れてくる。だからお前も食事をしろ』

『……』


 リュイーシャは返事をするかわりにロードへ背を向けた。

 この男の言う事は信用できない。

 いや、この船に乗っている者すべて――。



 三日目の夕日が沈もうとしている。

 黄昏の光が赤い室内をさらに赤く染めていく。

 意識が太陽と共に沈みこむ――。リュイーシャは再び目蓋を閉ざした。

 もうどうなってもいい。

 そんな思考にこの身を任せたくなる。

 食事を断っているせいだろう。気力が日に日に萎えていくのは――。

 その時、規則正しく扉を二度叩く音がした。誰かが来たようだ。


 けれどリュイーシャは答えなかった。

 リオーネに会わせてもらえるまで、誰の言う事にも耳を貸す気はない。

 ガチャリと錠を外す音がした。おもむろに部屋の扉が開く。新鮮とはいえないが、するりと風が動くのが感じられ、こつこつと長靴の足音が板床の上で遠慮がちに響くのが聞こえる。


「やれやれ……また食べてないのか。そんなに船の食事は口に合わないか?」


 食器をがちゃがちゃといわせる音がして、長靴の足音はリュイーシャが寝そべる奥の寝台へとやってきた。

 ロードではない。この声はあの眼帯の黒衣の男だ。

 リュイーシャは身じろぎし、わずかな期待をこめて目を開けた。


 いない。

 あの男一人だけだ。

 男は腕組みをして憐れむようにリュイーシャを見下ろしている。

 リュイーシャは再び男に背を向けた。さっさと出ていけといわんばかりに。


「海神の巫女。お前さんの気持ちはわからなくもない。父親を失い、生まれ故郷から離され、妹とも引き離されたんだ。さぞや悲しいことだろうな」

「……」


 ぎし、と寝台がきしんだ。男――シグルスが腰を下ろしたのだ。リュイーシャは構わず背中を向けたまま微動だにしない。否――動けなかった。

 シグルスはやおら右手を伸ばし、枕の上に幾重にも広がり金の滝の様に流れ落ちるリュイーシャの髪に触れていた。

 この三日。梳られる事なく手入れがなされていない髪はもつれあい、本来の輝きを失い、鈍い光しか放っていない。

 けれどシグルスはその一房を手に取り恭しく唇を当てた。


「……このままロードの傀儡になるつもりか?」


 シグルスの低い声が問いかける。何か暗い底意ある言い方だった。


「あの男は皇宮に戻り次第長兄デュークを隠居させ、自分がリュニスの皇帝になるつもりだ。けれどそうすれば諸候の反発は免れず、リュニスは内乱の嵐が吹き荒れるだろう」

「私には……関係ありません……」


 リュイーシャは震える声で呟いた。


「それは無理な事だ、海神の巫女よ。お前も戦にかり出される。いや……」


 シグルスの声がさらに近くで――囁いた。


「妹を人質にとられれば、お前は望まなくとも風の力を戦で使わざるを得ない。ロードはそのつもりだ。だから妹をここへ連れてこない」


 ――いいのか。それで?


 リュイーシャの白い項に頬を寄せ、シグルスは淡々とした口調で語る。


「私に、どうしろと」


 たまらずリュイーシャは身を起こして壁際に背中をつけた。

 絶食しているせいなのか、それだけの動きで息があがる。肩を上下に弾ませながら、リュイーシャは眉間をしかめて青緑の瞳を細めた。


「怖がらせるつもりじゃなかった。すまない」


 シグルスはリュイーシャの髪から手を離した。

 けれど優し気な言葉とは裏腹に、シグルスの隻眼は鋭い光に満ちている。


「海神の巫女。ものは相談だが俺の船に来ないか? 勿論、妹も一緒にだ」

「……えっ?」


 リュイーシャはシグルスの顔を凝視した。

 この男の言う意味が理解できない。


「だって、あなたはロードに雇われた傭兵ではないの?」


 シグルスは寝台に腰掛けたまま、上半身だけリュイーシャの方へ体を傾けた。三十前のようにみられるが、その黒い瞳は子供のように無邪気な光に満ちている。ずっと無表情だったそれを感じさせない、人なつこい微笑が髭のない角張った顔に浮かんでいる。


「ロードに雇われたって所は合っている。だが俺は傭兵ではない。海賊だ」

「……海賊……」

「そう。ロードが次期皇帝となることに反対する領主や商人の船を襲撃し、痛手を負わせるのが俺の仕事。だがいい加減稼がせてもらったし、戦に巻き込まれるのはご免なのさ。血を見るのが嫌いでね。だから、ロードと今夜別れる。皇子様の了解は得ていて、俺のレナンディ号が迎えにきたらここからおさらばする手はずになっている」


 シグルスがじっとこちらを見つめている。

 リュイーシャはその黒い瞳の奥の真意を探ろうとした。


「あなただって、私の風を操る力を利用しようとしているのでしょう?」


 そうでなければ一緒に来いなど言いはしない。

 仮に下心があったとしても、何か理由があるから自分を連れていきたいと思っている。そう考えるのが普通だ。

 リュイーシャはシグルスの隻眼からそれを読み取った。

 くくっとシグルスの喉が鳴った。


「俺は賢い女が好きだ。わかっているなら話は早い。俺の船に来い。俺はロードと違ってお前の力を戦には使わない」


 リュイーシャは口元にうっすらと儚い笑みをたたえた。


「断ったらどうしますか?」


 リュイ-シャの冷たい笑みにシグルスは唇を歪ませた。


「困らせるなよ。悪いようにはしない。お前が望む場所へ船で送ってやって自由の身にしてやる。ちょっとだけ、俺の仕事を手伝ってもらってからな」


 リュイーシャはシグルスから顔を背けた。

 その申し出を受けるべきかどうか。先の見えない不安で心が大きく揺れる。

 この男が本気でロードから離れるつもりだということはわかるが。

 けれど本当に、リオーネと一緒に連れ出してくれるのだろうか。

 ロードに知られる事なく、別の場所に囚われているリオーネを助けるのは危険を伴うはずだ。


 ――妹と一緒に。


 もしもそれが自分を連れ出すための口実だったら。

 リュイーシャは口元に手を当て目を閉じた。

 それだけは嫌だ。絶対に嫌だ。

 リオーネと離れ離れになったら、自分は本当に一人きりになってしまう。


 たった一人で、もしも自由の身になれたとしても、ロードに王宮へ連れ去られたリオーネのことを考えたら、多分、自分だけ安穏と生きる事などできない。リオーネがロードの息子の花嫁にされて、万一内乱の犠牲にでもなったら――。

 それこそ自分はここから逃げるわけにはいかない。

 ここにいればリオーネを守ることができる。

 リュイーシャは顔を上げた。


「私は――行けない」


 ちっとシグルスが舌打ちした。いらいらとした口調で叫ぶ。


「何を迷ってるんだ? 本当にあの戦争バカ皇子のいいなりになるつもりか!?」

「あなたは、あなたは私さえいればいいはずです。本当に妹もここから連れ出してくれるのですか? ロードに見つかるかもしれない危険を冒してまで。それが信じられないから私は……」

「安心しろ。手立ては考えてある。妹も一緒に連れていく」

「本当に……?」


 シグルスは真っ向から見つめるリュイーシャの視線を揺るぎない瞳で受け止めた。


「本当だ」

「……でも、どうやって……?」


 シグルスの顔が再び困惑の表情に歪む。


「あのなぁ。少しは他人の言う事を信用しろよ? 連れ出してやると言ってるから、連れて行くんだろうが!」


 リュイーシャは頭を振った。

 両手でむき出しの肩を抱き、精一杯の気力をかき集めてシグルスを睨み付ける。


「どんな手立てで逃げるか。それを聞いて納得できたら同意します。だから――」

「どんな手立てだって? じゃあ教えてやろう」


 リュイーシャは息を飲んだ。シグルスの手がリュイーシャの肩を掴み、一気に自分の方へ引っ張ったのだ。その力もさることながら、絶食して体力が落ちているリュイーシャは、抗うこともできずシグルスの胸に顔を埋めた。

 同時に何かやわらかな布が鼻と口に押しつけられる。

 薔薇に酒を混ぜたような強い香りが一気に押し寄せ、頭の中が麻痺していく。

 リュイーシャは体から力が抜けるのを感じた。


「……強いていうなら、海賊式とでも言おうか? 巫女姫様」


 独りつぶやくシグルスの声がどこか遠くから響いている。

 リュイーシャの意識は薔薇の香りに誘われるまま、深い闇の中へと落ちていった。

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