【6】葛藤
『お前が守るものなんて、もう何もないんだよ』
ロードは嘲るように言い放った。
その言葉の意味を、島で起こっている異変を、リュイーシャは風の伝えてきた心象ではなく己の肉体の眼でついに見た。
ロードは鉄の枷のようにリュイーシャの手首を掴んだまま、そしてシグルスという黒服の眼帯の男はリオーネを肩に担ぎ上げて、昼間上陸してきた西の浜へと歩いていった。
弓なりに反った形の西の浜は、恐れと不安で青ざめた数百人の島人と、夜の影と一体になったような、リュニスの黒い軍服に身を包んだ男達で溢れていた。
真夜中の暗き空がそこここと無気味な赤い光に染まっている。
島民に恐怖心を煽らせるためか。山の稜線にそって建てられた彼等の慎ましやかな家屋から白い煙と火の粉が舞い上がっている。
リュイーシャは島民達の『なぜ』と問う声が、頭の中一杯に響き渡るのを聴いて唇を噛みしめた。
私だってそう問いたい。
何故?
なぜ……!
「男は一番艦へ。女と子供は二番艦だ!」
抜きはなった軍刀を手に、黒髪の将校らしき男が無理矢理連れてこられた島民たちを選別している。男は向かって左側の小船へ。女と子供は右側のそれへ。三十人ほど乗せた時点で、船は沖合いに錨泊している軍艦と商船に向けて続々と海へ漕ぎ出していく。
「おとうさん! おとうさん!」
商船へ向かうその船から五才ぐらいの小さな男の子が、母親の腕の中で叫んでいた。この子供だけではない。家族と引き離された誰もが互いの名を呼び合っていた。
「いやっ! 離して! オルウェン」
「メリージュ! ……くそっ!」
ロードに手首をつかまれたまま、遠巻きに浜を歩くリュイーシャは、ひと組の若い男女が別々の小船に乗せられる所を見た。長い髪を三つ編みにした少女と、背の高いがっしりとした体つきの精悍な青年。
どんなことがあっても離すまいと、二人は互いを抱きしめ手と手を繋ぎあっていた。その二人の頭上で刃の鋭い光がきらめいた。
「オルウェン!」
剣の柄で脳天を叩かれた青年が砂浜に倒れ伏す。嗚咽混じりに青年の名を呼ぶ少女を黒い軍服の男達が後ろから羽交い締めに抱きかかえ、ずるずると右側の小船の方へ引きずっていく。リュイーシャはその光景から目を逸らせた。
オルウェンとメリージュ。二人は先月結ばれた若い夫婦で、特にメリージュは島長の館で女中として働いていた娘だった。
年が一つ違いだったせいで、リュイーシャはメリージュと仲がよかった。彼女が恋人オルウェンについて楽しげに話すのを、勘弁してよと思いながら聞いてあげたりしていた。そのメリージュの青い瞳がリュイーシャの姿を捉えていた。
『助けて。リュイーシャ様!』
血を吐くような、悲愴感に満ちた彼女の想いが、悲しみが、怒りが、リュイーシャめがけて矢のように放たれた。
――私に何ができると言うの?
リュイーシャは足元の砂に足をとられよろめいた。前のめりに倒れかけたその体を、ロードが咄嗟に腰に手を添えて支える。
「奴等を無視しろ。あの連中は海の藻屑になっても構わんが、お前はリュニスの国政を左右する大事な身なのだ」
リュイーシャは自由な左手で腰を支えるロードの手を掴みそれを離した。
「皆、私の大切な人達です! こんなことをして、皆をどうするつもりなのです?」
「うるさい。こっちへ来い!」
「……っ!」
ロードはリュイーシャの右手を強く引っ張った。リュイーシャは衣を空いている左手で掴み、裾が足に絡まらないようにしながら後ろを振り返った。
『リュイーシャ様。カイゼル様。一体どこにおられるのです!』
愛するもの、かけがえのない家族と引き離された島民達が、暗い海に浮かぶ小船から絶える事なく声をあげている。
島民の声はいつしか自分の名と、島長である父のそれへと変わっていた。
姿を見せない自分達に、僅かな期待と大きな不安に怯える心を感じる。
『どうしてこんなことになったの?』
『我々が何をしたというんだ』
『リュイーシャ様。海神に頼んで、こいつらを風の力で追い払って下さい!』
『――海神の巫女よ。どうか嵐を起こして、島から引き離そうとする奴等の船を沈めて下さい!』
『私達を――守って下さい! いつもそうして下さるように!』
――私は、巫女。
この島を守る約束の元に、青の女王さまの御力の一部を使う事を許された巫女。
私の力は島の皆を守るためにある。
でも……。
西の浜の一番奥に、一隻の小船がカンテラの明かりで闇を滲ませながら浮かんでいた。恐怖と絶え間なく続く島民達の叫び声のせいで、ぐったりとしたリオーネを担いだシグルスがすばやく船に乗り込む。
リオーネの身を案じるリュイーシャも、ロードに手を引っ張られ、引きずられるようにして船に乗せられた。
座席代わりの板に腰を下ろすと足元に何かが当たった。視線を落とすと柔らかな布で作られた白い袋がいくつも船底いっぱいに乗せられているのが見える。足で再び触れてみると、それは小さな豆が入っているのか、ざらついた音を立て、玉のような凹凸の感触がした。
これは。
リュイーシャは目を見開いた。
「銀の海獅子号へ向かえ」
「了解しましたロード様。櫂、立て」
舳先に座る黒い軍服の士官が命じると、十数人の水兵達が一斉に櫂を握りしめた。
「入れろ。漕ぎ方、始め!」
小船が波にうねる夜の海へ滑り出た。けれど隣に座るロードは、リュイーシャの手をしっかりと掴み、いまだ離そうとしなかった。
『巫女さま。どこにいらっしゃるんです?』
『いつものように、私達を災いから守って下さい!』
リュイーシャはうつむき目を閉じた。
目を閉じても暗闇には空を焦がす赤い炎が見える。自分の名を呼ぶ数多の声が取り囲むように響いている。
『お前が守るものなんて、もう何もないんだよ』
リュイーシャは目を開き、前方を眺めるロードの横顔を見つめながら、胸の奥に汚く黒い染みが広がっていくさまを感じていた。
染みは床に倒れた父カイゼルの顔となった。
愛するものと引き裂かれる島民の嘆きと叫びとなった。
足元の袋に入っているのは真珠。
島民達が一日に何度も海に潜って、苦労の末にようやく獲た大切な財産。
染みは容赦なくその輝きをも穢していった。
あなたはこの島のものを、何もかも奪ったというの?
奪えたと思っているの?
リュイーシャはぶるっと身を震わせた。唇をきつくきつく噛みしめて、自由な左手で右腕をぐっと握りしめた。胸の内からせり上がる黒き染みはリュイーシャの意識をも塗りつぶそうとしていた。目の奥で白い星がちかちかと瞬いている。
私なら、できる。
海神の御力の一部を使う事を許された、唯一の存在である『私』なら。
皆を助ける事ができるだろう。
簡単なことだ。
念じれば良い。
その力を使い風を呼べば良い。
リュニスの皇子が乗ってきた船が沈む程の嵐を呼べば良い。
今ならまだ間に合う。
みんな海に投げ出されるかもしれないが、彼等ならきっと島へ泳ぎつくことができる。何よりも皆がそれを願っている。
このまま船で見知らぬどこかへ連れていかれるくらいなら……いっそ。
心臓の鼓動が狂ったように早さを増し、急かすように胸を打つ。
リュイーシャは目をしばたいた。額に冷たい汗が浮かんでそれがすっとこめかみへ流れ落ちていった。
――何をしているの。
早くしないと船が出ていってしまう。
皆が離れ離れになってしまう……。
目の奥で瞬く星と心臓の動悸が重なった。けれど自由になる左手はそれを抑え込むように右腕を掴んだまま微動だにしない。
『――私しか皆を救えない』
脳裏に明確にその言葉が炎となって浮かびあがる。
しかし肝心の風を呼ぶための言葉が唇までのぼってこない。
『私が、やらなければ――』
リュイーシャは言葉を発するために息を吸おうとした。
けれど頬の筋肉がひきつって口が動かない。舌は麻痺し石のように重みを増す。
焦燥感を募らせながら、リュイーシャは辺りを見回した。
女子供ばかりを乗せた最後の小船が、月明かりに照らされて海に黒々とした影を落とす商船へ向かい進んでいくのが見える。
――早くしないと。小船が本船へと着いてしまう。
そして島民達の家族が離れ離れになってしまう。
何をためらっている。
考える事など何もない。
青の女王さまから許されたこの力で風を呼び、波に船を飲み込ませればいいだけ。
――私しか皆を救えない。
私しか皆を救えない……。
私しか皆を救えない。
私しか皆を救えない!
ぐるぐるとその言葉のみがリュイーシャの頭の中を物凄い勢いで駆け巡る。
私しか皆を――。
私、は……!
『そなたもエルウエストディアスの王と同じ過ちを犯すのか?』
リュイーシャは思い出したかのように息を吸い、吐いた。視界が左右に揺れるのは、小船が波に揉まれているせいだけではない気がした。
目眩がする。
果てしない闇の中にどこまでも落ちていくよう――。
その中でひやりとした風が、リュイーシャの耳に囁いた。
『海神の嵐はすべてを飲み込み何も残さぬ。誰も助からぬ』
『守りの力を破壊に使う事は許されてはおらぬ』
『海神との誓いを忘れたか?』
『巫女の力を人の命を奪うことに使えば、エルウエストディアスの王のように、そなたもまた海の底の闇に落ちよう。未来永劫果てぬ暗き海の底へと』
風は不意に聞き覚えのある声へと変わった。
やわらかな優しさに満ちた女の声へと。
『リュイーシャ』
――さま……。
母、様。
左手に帯びていた瑠璃色の指輪がぼんやりと明滅していた。
母の後継者となった時に身に着けた『巫女の指輪』――きりきりとそれが人差し指を締め付けてくる。まるで語りかけてくるように。
『それがあなたの心からの願いなら。あなたが本当に守りたいものならば』
『何も恐れることはありません。願いなさい』
『あなたのかけがえのないものを、守りなさい』
――ルシス母様!
リュイーシャは出てきそうになった嗚咽を咄嗟に飲み込んだ。
規則正しく船を漕ぐ櫂の水音で我に返る。目の前でちらついていた白い星は消え失せ、どきどきと打っていた心臓の鼓動も収まりつつある。
その時、視界が不意に暗くなった。
右手前方に見えていた商船の姿も消えた。その代わりロードの乗ってきた皇室専用艦が威風堂々とした姿を見せていた。リュイーシャの乗った小船はこの船の左舷側に向かって進んでいた。間近に迫った黒塗りの軍艦の船体は切り立った崖のように高くそびえており、その船の作る巨大な影に入ったのだった。
「ロード殿下!」
「殿下がお戻りになられたぞ!」
小船が黒塗りの軍艦の側に寄ると、遥か高みの甲板から黒服の近衛兵が誰何を降らせた。
「船には乗った事がないんだろう? 巫女殿は?」
じっとりと冷や汗を額に浮かべたリュイーシャは、ロードの歪んだ笑みを半ば薄れかけた意識で眺めていた。
「椅子を下ろしてくれ。船に不馴れな客人がいるんでな……おや、どうした巫女殿。さては小船に揺られたせいで酔ったか? 先程までは嫌になるほど気丈であったのに、顔がすっかり青ざめてしまっているではないか」
顔を覗き込もうとしたロードからリュイーシャは身をよじってそれを避けた。長い月影色の髪がヴェールのように顔を隠し流れ落ちる。
「……皆をどこに連れていこうというの? それを教えて下さい」
理由を問う声はあっけないほど簡単に出せた。
風の名を唇に乗せようとした時は、喉の奥に物が詰まったように苦しく、息すらもろくに吸い込めなかったというのに。ふんとロードが不快そうに鼻を鳴らした。
「少なくとも嵐に怯える暮らしからは逃れられる。皆、俺に島から連れ出してもらったことをありがたく思うようになるだろう。もっとも、そのために働いてはもらうがな」
「働くって……」
目を見開いたリュイーシャは思わずロードの方に向き直った。ロードは冷めた目でリュイーシャを一瞥した後、仕方がないという風に肩をすくめた。
「男は俺の私兵として加える。だが多くの兵士を抱えると装備や食費に莫大な金がかかる。だから真珠と女子供は売りさばいて軍資金に補填する。すべてはリュニスの治安を維持するためだ」
ロードはようやくリュイーシャの右手から手を離した。その白い手首にはロードに掴まれてできた赤い指のあとがついている。
リュイーシャは顔を上げた。
まばたきすると熱い雫が目の淵から溢れて頬を伝った。
わからない。
そのために何故クレスタの民がこんな目にあわなければならないのか。
そのために父は死ななければならなかったのか。
島の人達の家族が離れ離れにならなくてはならないのか。
『それがあなたの心からの願いなら。あなたが本当に守りたいものならば』
再び胸の鼓動が早さを増した。
『何も恐れることはありません。願いなさい』
『あなたのかけがえのないものを、守りなさい』
――私の守りたいもの……それは、何?
クレスタ?
島の人達?
私たちの島の生活?
「クレスタに一番の犠牲を強いたことは心から詫びよう」
夜の静寂にロードの声が重々しく響いて溶けた。
紫苑のマントが目の前で揺れたかと思うと、隣に座っていたロードが立ち上がった。額に戴かれた皇族の証である金の飾り環が、月の光を受けて鈍く光る。その下でリュニスの第二皇子ロードは、目の前にそびえる軍艦のマストをなぞるように見上げていた。
「だが……俺は守らねばならないのだ。このリュニスという国を」
カイゼルに良く似た翠の瞳が、じっと虚空を睨んでいる。
中央の一番高いマストに掲げられている旗を。
黒地に銀糸で獅子の顔を持ち魚の尾が生えた神獣が縫い取られている――リュニスの国旗を。
「そしてお前が流した涙は必ずそのために報われる。俺の私兵となった島の男も、女や子供らもな。国の為に働き生き長らえれば、再び会える日も来よう。俺はそういう国にリュニスを作り直す」
リュイーシャはロードから顔を背けた。
唇までのぼりつめた風の名を、無理矢理喉の奥へ飲み込んだ。
『海神の嵐はすべてを飲み込み何も残さぬ。誰も助からぬ』
冷ややかな風が海面に白い小波を立てて通り過ぎた。
ロードの言う通り、生きてさえいれば、襲いかかる嵐をなんとかやり過ごし、再び元の穏やかな生活へ戻る事ができるのかもしれない。
リュニスで次期皇帝の座を巡り内乱が起きてしまえば、辺境のクレスタといえど、その火の粉を浴びず平穏と過ごす事はできない。
今の政治に不満を持つ領主の一派が、クレスタに住む父カイゼルを何とか自分達の味方につけようと、軍艦を何隻も引き連れてやってくるのは目に見えている。
遅かれ早かれ、クレスタにも内乱という嵐はやってくる。
リュイーシャは力なく瞳を閉じた。
――私にそんな嵐を鎮める力はない。
私は、なんと驕り高ぶっていたのだろう。
すべてを……守りきろうと思っていた。
私が、守れると思っていた。
けれど、今は……。
皇室専用艦の槍のように伸びた舳先の海に、総帆を上げて進む商船の姿が見えた。目蓋を開かなくても風がその出港を報せてくれた。
だから見える。
クレスタの女性と子供を乗せた中型帆船は、月明かりで滲んだ海に向かい徐々に速度を増して東へと去っていく。
例え風の力を操って、かの船の行き足を止めたとしても。
それ以上私は何もできないのだ。
――ごめんなさい。
ぎしぎしとロープが擦れる音がする。
「ようし。そのまままっすぐ下ろせ」
目を開けると軍艦からロープで結び付けられた小さな椅子が、ゆっくりと小船に向かって降りてくる所だった。
軍艦のマストには帆を張るための帆桁が張り出しているが、甲板に近い一番下のそれの先にロープをひっかけて、三人がかりで引っ張っている。
「さあ巫女殿。これで我が『銀の海獅子』号へ乗ってもらおう。何、恐れる事はない。わが水兵達は熟練揃い。決してお前を落しはしない」
――そんなことをすれば、猫鞭を嫌と言うほど喰らわせてやるがな。
ロードは小さく付け加えた。凄みを帯びた声色で。
リュイーシャは小船から立ち上がり、背もたれのついた木の椅子へ腰を下ろした。白く輝く水平線に小さな船影がまだ見えている。
「いいぞ。あげろ。ゆっくりだぞ!」
――みんな。ごめんなさい。
リュイーシャは海を渡る風に自らの言葉を乗せた。
ひゅううう……。
物悲しさを帯びた風はそれを届けるべく、消え往く船に向かってまっすぐに東の海を駆けていった。
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