【5】長い夜
「何故殺したの! どうして父を! あなたは何をしに島へ来たの!?」
「どうして、か」
くぐもった笑いを口の中で漏らし、ロードは紫のマントの裾を揺らして立ち上がった。部屋の中の照明が小さなランプ一つだけなので、ロードの顔は暗い影で縁取られており、彼がどのような表情をしているかまでリュイーシャには良く見えなかった。
「どうして、だなんて。問題はそれではない」
ロードはリュイーシャの問いを一笑し、血濡れた短剣を黒檀の机の上に突き立てた。その卓上には数時間前、父が兄へふるまってやるのだと嬉しそうに見せてくれた細長い素焼きの酒壷があった。
ロードは壷を手に取ると、水を飲むように直に口を付け喉を潤した。
「カイゼルが何者であるか。それが一番の問題なのだ」
「あなたの言う意味がわからない。父が一体何をしたというのです。あなたの……あなたの弟なのに……!」
リュイーシャは恐ろしさよりも怒りで震える唇で答えた。
「弟。ああそうだ。カイゼルは可愛い弟だった。幼い頃はな。俺と母親は違うが、父親はこの五百の島を統べるリュニス群島国の皇帝だ」
ぎらりとロードの目が熱を帯びた。穏健な父カイゼルとは違い、この腹違いの兄皇子はその態度から察する事ができるように、力で物事を、人の心を、自らの思い通りにしようとする人物だ。
リュイーシャはロードの肉食獣のように凄んだ目を覗きそれを感じた。
「父は皇位継承権を放棄して、クレスタの民になることを本国に告げたと言っていました。父はもう皇子じゃないはずです!」
ははは!
ロードが乾いた笑い声を上げた。
「ああ。そうだったらどんなに良いか! けれどカイゼルにリュニス皇帝の正当な血が流れている事実は消えはしない。その証拠にわが父が、皇位継承権第一位のデュークと二位の俺を無視して、カイゼルを次代の皇帝にすると公言した。父は諸島の領主を皇宮へ呼び、しかも俺とデュークは反論する間もなくその場で立ち会わされ、それが正当な遺言であるという証人にされたのだぞ!」
カイゼルの血にまみれた赤黒い右手を握りしめ、ロードは唇をわななかせながらリュイーシャの顔を睨み付けた。
「俺の悔しさなどお前のような小娘にはわかるまい。デューク兄上は虚弱だった母上の体質を受け継いだせいで、名家ハイランドの姫君を娶ったが子ができなかった。けれどリュニスの不安定な内政を、病に伏した父上の代わりに執り存分に支えてきた。そして俺は軍部を強化し、諸島の領主達がよからぬ気を起こさぬよう自ら先陣に立って、武力を誇示して皇宮を守ってきたのだ。ずっと! それなのに!」
ロードがぎりと歯ぎしりする音がはっきりと聞こえた。
「お前の父親は! あの放蕩者は! 一体奴は国の為に何をした? 独り気ままに諸国を船で外遊していただけじゃないか! おまけに奴は自分が国を背負う皇子としての立場を、島の女のためにあっさりと捨てた外道なのだ!」
「……」
リュイーシャは未だすすり泣くリオーネを抱え、ロードが口角から唾を飛ばしながら苛々と部屋の中を歩き回る姿を見つめた。
あの眼帯を着けた黒服の男も、部屋の一角で影のように立ち、その様をじっと眺めている。
「だからといって……」
ロードが憤慨する気持ちはわからなくもない。
いや、それならばなおさら。
――こんなことになるなんて。
リュイーシャはともすれば眠っているだけのように見える父の顔を一瞥して唇を噛んだ。
「あなたが私達の父の命を奪う権利などない。父は皇子という身分を捨てた。皇位を継ぐよう通達が来たって、父は絶対に応じなかった。遺言なんて無視すればいい! あなたが皇帝になりたければなればいい! 父様を……あなたの都合で殺す事はなかった!」
「なんだと!」
ロードは紫のマントをひらめかせ、リュイーシャに蔑んだ視線を投げた。
こうして見てみるとカイゼルとロードは面差しがよく似ていた。年は五、六才離れているみたいだが、同じ焦茶色の髪に彫が深い二重の翠の眼。日に焼けた肌。行動力があり威風堂々とした態度。母親は違うが、どちらもリュニス皇帝である父親の方に似たのだろう。
リュイーシャはリオーネを抱く手に力を込めた。
ロードがリュイーシャの前に立ったのだ。低く、唸るように笑いながら。
「物事はそんな簡単にいくものではないんだよ。カイゼルが皇宮を去り、辺境のクレスタへ住み着いたことは、群島の領主達は皆知っている。あいつがそもそも外交を担当していたから、懇意になった領主もいるだろう。だからこそ困っているのだ! 父がお隠れになった後、俺やデューク兄上のやり方に不満を持つ者が、カイゼルを次期皇帝として擁護するため動き出すだろう。遺言として正式に決定すればなおさらだ! そうすればリュニスに内乱が起きる」
ロードがマントの裾を揺らして膝をついた。
揺らがない翠の瞳がリュイーシャを一直線に見つめる。
「父はまもなく死ぬ。いや、もう死んでるかもしれん。だから俺は内乱の種を潰しに来た。父がカイゼルを後継に選んでも、奴が死んでいればどうしようもない」
ロードは意味ありげに唇を歪ませた。
不快なものを見るように眼を細め、ぐっと拳を握りしめながら。
「……父はカイゼルの母だけを愛していた。軍船を操り諸島を回るしがない一軍人の女を」
そして低く呟いた。
「シグルス」
その時、じっと部屋の片隅に立っていた眼帯の男が動いた。
「嫌っ! 姉様っ!」
眼帯の男シグルスが、不意に背後からリオーネの肩を掴んだのだ。
「やめて!」
リュイーシャはリオーネを抱える手に力を込めたが、シグルスに無理矢理振り解かれ、その勢いで再び床に体を伏した。嫌がるリオーネの口元を覆い、その体を抱えたシグルスは背後の扉まで後ずさる。
リオーネは恐怖のあまり顔を一層青ざめさせ、虚空をただ見つめている。
「妹をどうする気!」
リュイーシャは立ち上がった。長い金髪を乱しながら、シグルスに向かって踵を返そうとした時ロードに腕を掴まれた。
「……つっ!」
「随分くだらん話をしたが、カイゼルの娘であるお前達も無視できない存在なんだよ」
リュイーシャは目を見開きロードを凝視した。
ロードは小馬鹿にするように鼻で笑い、リュイーシャの手首を掴んだまま自分の方へと引っ張った。
「お前達も正当なリュニス王家の血を受け継ぐ者だ。だから一緒に来てもらう。カイゼルは流行病ですでに死んでおり、お前達だけが島にいたということにするためにな。それにカイゼルの娘なら、俺の息子の妃にすれば内乱を防ぐことができるだろう」
「……私、は」
ロードは目をすがめ再び鼻で笑った。
「もっとも、お前はカイゼルの母に似過ぎている。泣きも叫びもせずに俺を正面から睨む。こんな強情な女はどんなに器量がよくても俺はご免だ。息子の妃には、妹の方が従順でいいかもしれん。美人になりそうだしな。なあ、シグルス」
眼帯の男は声を立てず、無表情のまま、ただ小さくうなずいただけだった。
ははは。
乾いた笑いを立てて、ロードはリュイーシャの腕を引っ張った。
「さあ行くぞ」
「……嫌です!」
リュイーシャはそれに抗った。軍人でもあるロードの握力は強く、握られた手首が痛みに軋んだ。
「私は――巫女です。クレスタを離れるわけには……いかない!」
「それがどうした」
「私がいないと、島のみんなが――」
シグルスが扉を開けて先に外へ出た。
ロードもリュイーシャを引きずって後に続く。
「お前が守るものなんて、もう何もないんだよ」
リュイーシャはロードの肩を掴み唇を震わせた。
母屋から声が聞こえたのだ。
あれは確かに女中頭メルジュの叫び声だ。
その他にも館にいた女中たちの狂乱する声と、荒々しい軍靴が床を鳴らす音も。
そして風が運んできた。
いがらっぽい、喉に絡みつく不快な臭いを。
白い煙が霧のように中庭を包み始めている。
島長の館は火に包まれていた。
いや。その背後の丘陵に立つ島民達の家屋からも火の手が上がっていた。
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