【4】凶刃

 島で何か恐ろしい事が起こっている。

 嫌な予感は確信へと変わった。

 湿った風が海から吹いてくる。じっとりと重いそれは、島民達の声を徐々に強まらせ、数を増しながらリュイーシャの耳へと訴えかけてくる。


 風は様々なものを運ぶ。

 まずは形のない『先触れ』を。

 そして『音』を『声』を――『香り』を。


 先程歩いた白い地面の一本道を戻り、リュイーシャはカイゼルやリオーネが住まう島長の館までたどり着いた。夜の静寂の中で仄かな花の香りが辺りに漂っている。館の門扉のそばに植えられた対のシオンの木が、子供の拳ぐらいの大きさの花を幾つも咲かせて見頃を迎えていた。


 シオンは黄昏の時間になると角笛の形に似た花を咲かせ、早朝には萎んでしまう。別名「夜の到来を告げる花」と言われる島の自生種だ。

 その柔らかな香りでリュイーシャは昂った心が少し落ち着くのを感じた。

 それは月光に照らされ青鈍色に光る島長の館が、ほんの数十分前、後にした時と同じように、静寂に包まれていたせいなのかもしれない。


 低い石垣で囲まれたその建物は、島民の住居と同じように岩山から切り出された石で組まれた平家である。けれど島を訪れた要人の宿泊所にもなっているので、母屋の裏の中庭には小さな別邸がある。

 この度島を訪れた商人達は母屋の客室に泊まり、リュニスの第二皇子ロードは別邸で休む事になっていた。


 生温い風はリュイーシャへまだ島民の声を運んでくる。

 泣き叫ぶ赤子の声が唐突に響き、頭が締め付けられるように痛んだ。

 リュイーシャはこめかみを抑え、そろそろと母屋の格子扉へと近付いた。

 黙って耳をそばたてる。けれど館からは何の音もしない。


 ――父様はまだ、島で起こっている異変を知らないのかも。


 もっとも、『声』さえ聞こえなければ、リュイーシャだってそんなこと思いもせずに眠りについていた。


 リュイーシャは母屋の扉から静かに離れた。そのまま壁伝いに館の裏へと回る。やがて中庭からもシオンの花の香りが密やかに漂ってきた。

 黒々とした木々の合間に父の兄が泊まる別邸の低い屋根が見える。格子がはまった四角い窓からは、黄色いランプの明かりがこぼれていた。

 双子の月が天頂を過ぎた深夜だというのに。

 どうやら父の兄ロードはまだ起きているらしい。

 いや。

 リュイーシャが神殿に戻ることをカイゼルに告げた時、父はお気に入りの酒が入った壷を手にして、兄皇子のいる離れへ行く所であった。


『ロードは酒が好きでね。私が船で諸国を周ると伝えたら、各領地の名酒をぜひ土産に送ってこいと言っていた。クレスタの幻の酒「月の雫」の話をしたら、早速だよ。こいつはいつかロードに飲ませたくて、私も飲むのを今まで我慢してきたんだけどね』


 父の顔には普段の快活な笑みが戻っていた。

 神殿での会見ではよそよそしく見えた二人だが、考えてみればそれは、十八年という長い年月がもたらした疎遠の結果だったのかもしれない。

 酒を酌み交わしていくうちに、離れていたせいで生まれた二人の距離は徐々に縮まり、今は互いの近況を話し合っているのだろう。

 それで二人はまだ起きているのだ。きっと。


 リュイーシャは踵を返し勝手口まで戻った。格子状に木を組んだ扉を開けて中へ入る。クレスタは絶海の孤島ゆえに、商人以外の他所者は滅多に来ない。

 よって島民の共通の財産である真珠の保管蔵を除いて、戸口に鍵を掛ける習慣がなかった。


 リュイーシャは辺りを見回した。台所の薄暗い土間にも人の気配はない。

 翌朝客人に振る舞うために用意してある野菜の入った籠がずらりと並ぶ中を歩き、リュイーシャはまずリオーネの部屋へと向かった。


 まだ幼い妹のことが心配だった。

 リオーネはリュイーシャと違い、風を操る『術者』の能力を有してはいなかった。けれど全く力が使えないわけではない。

 リオーネはリュイーシャ以上に風の意思を感じることができた。

 風の運ぶ『先触れ』の意味を予知として正確に読み取る事ができるのだ。

 リュイーシャですら不安に駆り立てられる島民達の悲愴な声が、リオーネに聞こえていないはずがない。


 母屋は色とりどりの糸で織られたタペストリーで部屋が区切られている。

 リオーネの部屋は台所から程近く、淡い草原色に染め抜かれた糸で織られたそれがかかっている。リュイーシャはタペストリーを静かにめくり部屋の中に入った。

 声をかける間もなくぱっと布団が跳ね上がって、白い寝巻き姿のリオーネが飛び出してきた。獣に追われた小兎のように。


「姉様っ、姉様!!」


 ぎゅっとリオーネが抱きつく。リュイーシャの腰に細い両腕を回し顔を埋めた。ぶるぶると小さな肩が小刻みに震えている。


「大丈夫、リオーネ。落ち着いて」


 リュイーシャはリオーネの肩に手を置いた。そっとやさしくさすってやる。


「で、でも姉様! みんなが、みんな、どこかに連れていかれようとしてるの! 聞こえるの。ほら! 姉様だってきこえるでしょ!? わたし、怖くて。姉様の所にいきたかったけど、外に出るのがこわくて……!」


 リュイーシャは黙ったまま跪いてリオーネの柔らかい白金の髪を抱きしめた。妹は心の底から怯えている。寝汗をかいたのだろう。すっかり体が冷えきっている。その冷気がじわりじわりと手のひら越しに伝わってきた。


「リオーネ、父様の所へ行かないと。まだ異変をご存知ないみたいなの」


 リュイーシャは優しく、けれどはっきりとした口調で囁いた。


「私、こわい。ここから動きたくない!!」


 リオーネの大きな新緑の瞳から一筋の涙がこぼれ落ちた。

 激しく頭を振って抵抗する。


「行かないで姉様! 側にいて!」

「リオーネ。駄目よ。島の人達が危ない目に遭っているというのを知っていて、それを無視することなどできないわ」


 リオーネは一層激しく首を振った。


「気持ち悪いの。すごく嫌な予感がするの。ここから出ちゃだめなの姉様! お願い、わたしと一緒にここにいて! リュイーシャ姉様!」


 リュイーシャは唇を噛みしめ静かに立ち上がった。

 リオーネは島民たちの声に怯えているのではない。そこからもたらされる『何か』を予見している。だから動きたくないのだ。

 残念ながら先見の力を持たないリュイーシャには、それが何かまでわからない。


「……リオーネ。ここでじっとしていれば、嵐はいずれ過ぎ去るかもしれないわ。けれど私達が風の『声』を聞く事ができるのは、みんなのために嵐を鎮める役割を与えられたせいだと思うの。だから、どんなに危険なことが待ち構えているとしても、私はこのクレスタの巫女として、風が伝えてきた異変を父様に知らせなければならない」

「姉様……!」


 再びリオーネが抱きついてきた。

 二、三度、青白く輝く髪をリュイーシャは撫でた。


「……いく。姉様がいくんなら、わたしも……」


「うん。私のそばから離れないで、リオーネ」

 大きくリオーネはうなずいた。



  ◇◇◇



 リュイーシャはリオーネと連れ立って台所の勝手口から外へと出た。

 二人はしっかりと手を繋ぎ、シオンの花が咲く裏庭へ、ロードと酒を酌み交わしているであろうカイゼル達のいる別邸へと歩いていった。


 ぎゅっとリオーネが強い力でリュイーシャの手を握りしめる。

 別邸の明かりは先程と変わらず窓から黄色い光がこぼれていた。

 リュイーシャは扉の前に立つと、意を決して軽く二度叩いた。

 息を潜めじっと耳をすます。

 けれど部屋の中から音は聞こえない。

 リュイーシャは眉をしかめ、再度扉を叩こうと、軽く右手を握りしめ拳を作った。

 その刹那。

 目の前の扉が音もなく開いた。

 はっと顔を上げると、黒尽くめの服を着た男が壁のように立っている。

 神殿で執拗にリュイーシャを見つめていた、野性味のある眼帯の男だった。

 男は無言で黒手袋をはめた手を伸ばし、リュイーシャの手首を掴んで、有無を言わず中へと引っ張った。


「ああっ!」

「きゃあ!」


 不意を突かれリュイーシャとリオーネはもつれるように床へ倒れた。

 竹で編まれた幾何学模様の敷布の上で、リュイーシャは身を起こし、ちらついた星を追い払うためゆっくりと首を振った。


 何? 一体何なの…?

  一瞬何が起こったのか理解するのに、ひと呼吸する程の時間を要した。


「これはこれは。誰かと思ったら巫女殿とその妹か」

「……あ……」


 けれどリュイーシャは頭上からの声を無視していた。

 何度も目をしばたき、違和感に息を飲んでいた。

 敷布の上に置いた自らの手に何かがついて滑る。指先を擦るとそれは赤黒い液体でリュイーシャの白い指を穢した。


 液体は細い川をつくってリュイーシャの所まで流れている。

 顔を上げ、その先を追うと紫のマントを纏った男が床に膝をつき、何故かこちらに背を向け横向きに倒れているカイゼルの顔を眺めていた。


 父は酔いつぶれて床で眠ってしまったのだろうか。

 男――カイゼルの兄ロードは、困ったように弟の寝顔を見ているようであった。 

 黒檀の机の上に置かれたランプの光が、ロードの額にはめられた金の飾環を鈍く光らせている。その光は同時に、赤い液体にまみれた彼の右手が、鋭利な短剣を握りしめている様も照らしていた。


「父様……っ! 父様ぁああ!」


 まさか。

 脳裏に過ったその事実をリュイーシャが認識する前に、リオーネが悲鳴まじりの叫び声を上げた。

 リュイーシャは咄嗟にリオーネの頭を抱えて自らの胸に抱いた。

 父の変わり果てた姿を見せたくなかった。

 今なら何となくだが、リオーネが部屋から動きたがらなかった理由がわかった気がした。妹は感じていたのだ。多分、この事を。


「どうして、父を? あなたの弟、でしょ……?」


 リュイーシャはリオーネを胸に抱いたまま青緑の瞳を見開き、カイゼルの傍らに立つ兄皇子ロードの顔を見上げた。

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