【8】再会

『……さま』

『リュイーシャ、姉様……』


 かすかな声がする。自分を呼ぶ声が聞こえる。

 それは助けを求める島民のものではなく、もっと身近で知った声だ。

 それに導かれるまま、リュイーシャは静かに目蓋を開いた。



「リュイーシャ姉様っ!」


 首筋に誰かが手を回して抱きついている。そちらへ顔をゆっくりと向けてみると、新緑の瞳に涙を一杯に溜めた妹リオーネの小さな顔があった。


「リオーネ!」


 リュイーシャは身を起こして、咄嗟に妹の華奢な体に腕を回した。

 ぎゅっと抱き締めるとリオーネもぐっと抱きしめ返す。


「よかった。無事でよかった」

「わ、私だって、姉様のこと、すごく心配してたんだから……!」


 リュイーシャとリオーネはお互いがそこにいることを確認し合った。

   



「ここはあの眼帯の男の船?」


 ようやくリオーネから腕を離し、リュイーシャは辺りを見回した。

 船に乗せられている事はわかる。船腹を叩く波の音が聞こえるし、上下左右問わず辺りはひっきりなしに揺れている。

 ここは船倉の一つだろうか。かびくさい湿った臭いが立ち込めている。

 低い木の天井に吊り下げられたランプがぎしぎし音を立てて揺れながら、橙の光をあちこちに投げかけている。その弱い明かりは、船壁に沿っていくつもの樽や木箱が積まれている様子を照らしていた。

 樽の一つはリュイーシャぐらいなら中に入る事ができるほど大きい。

 それにじっと視線をこらすと、リオーネが溜息をつきながら呟いた。


「あの片目のおじさんったら、私と姉様を樽に入れてこの船に運んだのよ」

「片目の……おじさん? 樽?」


 リュイーシャは一瞬それが誰かわからなかった。

 けれどシグルスの顔を思いだして、ああそうかとうなずいた。

 リオーネはまだ十三才。シグルスは三十前。

 幼いリオーネからみれば、あの男ははや『おじさん』と呼ばれる年なのだろう。


「そうよ。私、姉様の所に行きたいなら、どんなこともがまんしろっておじさんに言われたの。だからがまんしたわ。樽の中すごくお酒くさくて頭がくらくらして、吐きそうになったけど、姉様が一緒だったからがまんしたの」


 ああ、そのせいだろうか。

 先程から辺りに立ちこめる湿気た不快な臭いは。

 リュイーシャは急にきれいな水が欲しいと思った。

 清水じゃなくていい。海に飛び込んで泳げたらどんなに良いかと思った。


「あ、姉様、お腹すいてない? お水も少しだけど、あのおじさんが持ってきてくれたの」


 リオーネは後ろの暗がりから籐籠の包みを引っぱりだした。白い素焼きの水瓶と新鮮な果実の匂いがする。焼きしめた香ばしいパンの匂いもする。

 リュイーシャはそれを黙ったまま見つめた。

 絶食していたので急に空腹を感じたせいでもあるが、思いのほかリオーネがしっかりしているので安心したのだ。


 いや――妹は自分を心配させたくなくて、それで幼いながらも、何でもないように、気丈にふるまっているに違いない。

 昔からそうだった。

 ともすれば風や海の語りかける声に夢中になり、時が経つのを忘れ、海岸に出ずっぱりの自分を心配して呼びに来るのはリオーネだった。


「姉様。あのおじさんね、服もいくつか持ってきてくれたの。姉様の後ろに木の箱があるでしょ? あの中に入っているから好きなのを着ればいいって」

「うん……」

「食事が終わったら、姉様の髪、梳かなくっちゃ。すぐ元のきれいなお月さまの光みたいに光るようにしてあげる!」

「うん……」


 リュイーシャはリオーネの言うことに小さく返事をした。

 今はリオーネがやりたいと思った事をさせたほうがいい。

 その方が何も考えなくて済む。

 島で起こった数々の悲しみを思いださずに済む。

 そして何よりも、これから自分達がどんな風に生きていくのか、それを考えずに済む。




 リュイーシャはロードの船に乗せられ島を離れて以来、まともな食事を口にした。といっても、一度に沢山は食べられなかったので、葡萄の房から何粒かつまみ、水瓶の水を飲んだ。島長の館の裏に湧く泉のように新鮮な水だった。


 リュイーシャはかいがいしく世話を焼くリオーネに勧められるまま、彼女いわく『片目のおじさん』と異名をつけられた、シグルスの用意した服を物色した。

 その大半はきらびやかな生地で織られた、見たことのない異国の服だった。


 裾は大きくふくらみ、背中がざっくりと開いている。透かしの入った綺麗な布が幾重にもひだになってついていて、その見慣れない衣装の形にリュイーシャとリオーネは戸惑いを覚えた。


 クレスタの女性の衣装は、それぞれの家に伝わる独特の模様で染めた一枚の大きな布だ。それを何種類かある巻き方で体に巻き付け、お気に入りの石がついた宝飾具で留める。もしくは、布を肩から羽織って腰の所で、飾り帯びか紐で結ぶ。


 リュイーシャは結局箱の中にあった一枚の布を選んだ。異国の服は普段着として着るには華やかすぎて気がひけたのだ。

 艶やかな光沢を放つ瑠璃色のそれはマントなのだが、リュイーシャは手早くそれに身をつつみ、肌身離さずつけていた宝飾具で余った部分の布を肩で留めた。リオーネも体に合う大きさの服がみあたらなかったので、実はストールなのだが、薄緑色の手ごろな長さのそれを体に巻き付けた。

 シグルスが何か文句を言いそうだが、まあ、今はこれでよしとしておこう。

 薄暗い船倉で、リオーネとリュイーシャは顔を見合わせて微笑んだ。




「おい、起きてるか?」


 扉を叩く音がしたかと思うと、男のくぐもった声が聞こえた。

『片目のおじさん』――シグルスだ。


「……起きています」


 リュイーシャは咄嗟にリオーネを手元に引き寄せ、その肩を抱いた。

 目の前の扉がゆっくりと開く。右手にランプを手にしたシグルスが、リュイーシャとリオーネを見て、薄い唇に笑みを浮かべた。

 この隻眼の海賊は相変わらず黒衣をまとっている。ランプの光がなければ周囲の闇に溶けてしまっているだろう。


「離れ離れになっていた姉妹は、無事に感動の再会を果たしたと言うわけだな」


 リュイーシャは油断なくシグルスの顔を見つめていた。


「ロードの船ではないのですね。ここは」


 シグルスの笑みが嫌味ったらしく引きつった。


「疑り深いな。妹は実に素直でいい娘なのに。ああここは俺の船レナンディ号だ。ロードの船とは一昨日おさらばした」

「そう、ですか」


 リュイーシャはほっと息をついた。


「大丈夫よ、姉様。片目のおじさんは本当のことを言ってるわ」


 リオーネがリュイーシャの右手をそっとつかんだ。小さくうなずく。

 一体どちらが姉なのか。励まされているのは自分の方ばかりだ。

 ただ、リュイーシャは風の気持ちが読めるが、リオーネは人々の気持ちを感じる能力に長けている。そのリオーネがシグルスに気を許しているということは、あの男はロードのような人間ではないということだ。


「ありがとうございました。あなたは約束を果たして、私とリオーネを船に乗せてくれました」

「まあ、礼を言うのは構わんが、俺としては早速、海神の巫女姫さまにお願いしたいことがあってここへ来た」


 リュイーシャはきゅっと唇を噛みしめた。

 シグルスの顔が困ったように歪むのを見たからだ。


「甲板へ上がってくれ。妹も一緒に来ても構わんが……」

「行く! 姉様と離れたくないもん」


 リオーネがリュイーシャの右手を掴みながら叫んだ。



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