【2】来訪者

 リュイーシャの住む島・クレスタを訪れた商人の船は全部で三隻だった。

 うち二隻はありふれた三本マストの商船だったが、後の一隻は他を圧倒するぐらいの大きな黒塗りの軍艦で、船首には獅子の頭に魚の尾を持つ神獣シーリウスの船首像がついていた。

 そして華麗な彫刻がぐるりと施された軍艦の船尾には、黒地に銀の刺繍で神獣の紋章が縫い取られた国旗が翻っている。ただしこちらの神獣は頭に王冠を戴いている。まぎれもなくこの船は、本国リュニス群島国の皇位継承権を持つ者が乗る皇族専用艦であった。

   

 島には港がない。周りを珊瑚礁に囲まれているせいで、大型船は島に近付くと浅瀬にはまり、座礁して身動きがとれなくなってしまうからだ。

 よって本国から来た船は島から少し離れた海域で錨を下ろし、そこから手漕ぎの小型船に乗り換えて、唯一の上陸地となる西の浜辺へやってきた。


 通常の真珠の買い付けなら商船一隻で、五名ほどの商人に、荷物を運ぶ人足と水夫達。合わせて精々三十名ぐらいがクレスタに訪れる。

 けれど今回は通常の五倍の人数――百五十名がやってきた。

 その大半は黒と銀の軍服に身を包んだ、リュニスの軍人達だった。

 西の浜の半分が彼等の乗ってきた小型船で溢れた。他所者と滅多に交流する機会のないクレスタの島民達は、ただただその数に圧倒されていた。



 

 夜の帳が降りて海に星々の輝きが映る頃。

 島の北端にある海神の神殿で、島長しまおさである父カイゼルは、商人の一行と広間で会見をしていた。リュイーシャも父から少し後方に離れた所で、世話役の女達と共に並んで彼等を出迎えた。


 ふくよかな体をきらびやかな更紗の衣装に身を包み、絹布を頭に巻き付けた十二人の商人達の中には新顔なのだろう、幾人か見知らぬ者がいた。

 彼等を従えて、カイゼルの前に背の高いがっちりとした体格の男が歩いてきた。


 長靴の音を高らかに響かせ、暗紫色のマントに身を包んだ男はよく日に焼けており、何事にも動じない剛胆な目の輝きをしている。

 焦茶色の前髪を左右に分けそこから見える秀でた額には、金色の飾環がはめられていた。四十を過ぎた壮年の男は、カイゼルとそっくりな翠の瞳を細めて微笑した。


「久しいな、カイゼル。我が弟よ」


 リュイーシャが見守る中で、父カイゼルは一瞬瞠目し、惹き付けられたかのように目の前の男を凝視した。


「私の事を、まだ弟と呼んで下さるのですか」


 静まり返った神殿内で、カイゼルのかすれ声がゆっくりと響く。


「当然ではないか。俺はもちろん、デューク兄貴や父上も、お前のことを一日たりともお忘れではないぞ」


 ぐっとカイゼルの唇が引き締められた。

 まるで込み上げてきた感情を無理矢理飲み込もうとするかのように。

 父は愛するものを得るために、自らを育んた故郷と肉親を捨てクレスタの一員となったからだ。今は亡きリュイーシャの母――ルシスを得るために。



 ◇◇◇



『リュイーシャ。この巫女の指輪が海の水の色のように、綺麗で透明な青に変わったら――青の女王さまに託された、私の役目が本当に終わる時なのよ』


 母はリュイーシャと同じ海との絆が深いと信じられている青と緑――碧海の双眸を細めてうっすらと微笑した。

 妹リオーネを産んで亡くなった母は美しい人であった。そして海神に仕える巫女であり、海色の瞳を持つ故に『海神の娘』とも呼ばれていた。


 背が高く色白で、波濤のように光る銀髪を結い上げたその姿は、巫女姫と呼ぶに相応しい気品に満ちていた。

 その美貌は遠く離れた本国リュニスの皇宮にも噂が届き、それをききつけたリュニスの皇子自らが、妃として是非迎えたいと何度も島を訪れたくらいである。


 もっとも母は巫女としての役割を何よりも重んじていた。

 皇子が神殿の門を十度叩き、十度求婚しても、すべて断った。

 華奢な外見にそぐわず、とても強い人だった。


「また来ます」


 ある日めげないリュニスの皇子は、よりにもよって年に数度しか起こらない嵐の夜にやってきた。船は高波に襲われ沈没寸前。多くの人間が海に投げ出された。

 島の木々が折れ曲がり引き裂かれる嵐の中で、島民も皇子の一行も風の恐怖に戦くばかり。けれど巫女である母だけは、まっすぐに顔を上げ、荒れ狂う風を慰めるように、慈母のような穏やかな表情で対峙した。


『私は母様に命を救われた。あの時は本当にすごかったよ』


 リュイーシャの父カイゼルは、何を隠そう、島に通い詰めたリュニスの元放蕩皇子である。皇位継承権が第三位ということもあり、彼は見聞を広めるためという名目で、二年ほど船で各諸島国を気ままに巡る航海をしていた。


『南の孤島クレスタには、悪霊の起こす嵐を鎮める美貌の巫女姫がいる』

 好奇心旺盛なカイゼルは、その噂のみを信じて属国のクレスタまで赴き、そしてリュイーシャの母ルシスと出会った。

 カイゼルはルシスをリュニスの皇宮へ連れて帰るつもりだったが、巫女である彼女は島を出る事はできないと、頑に彼の求婚を拒み続けた。

 その結果、カイゼルは決意したのである。

 リュニスの皇子という立場を捨てて、この島の人間になることを。


 島を襲う風の恐怖は身を持って体験した。

 巫女であるルシスを奪う事は、ここに住む島民達の命を奪うのと同じ事である。

 クレスタを取り巻く海域は他に例を見ない特殊なもので、そこから島にはもう一つの異名がある。


 それは『風の生まれる場所』。

 島はさまざまな海流が流れ込む中州のような位置に存在し、海流同士がぶつかって生まれた風が、まさにクレスタを横断して吹き抜けていくのである。

 東西南北を問わず、この海域で生まれた風は必ずクレスタを通る。

 島の木々をなぎ倒し、大津波を発生させ、島民の住居と命をも飲み込む凶悪な嵐が年に何度も襲ってくる。


 それ故に島民達は海神と交流でき、かつ、風を操る能力を持つ者を「巫女」として島の守りの任に就かせた。

 風を操る能力に長けた者――ほとんどが女性――が生まれるのは、海神と契約し、その魂を捧げる事を約束した代償のおかげ。

 けれど海神・青の女王の心は海の色のようにうつろうのか、島長しまおさが選んだ巫女の後継者と契約を結ばず、その命だけを奪う年もあった。


 島民達は最初こそカイゼルを遠巻きに見るようにして、よそよそしい態度で接していた。しかしこの元皇子は驚くほどの早さで島の生活に順応していった。

 島では真珠を内包する緋扇貝がよく採れる。この真珠を時折立ち寄るリュニス本国の商人達へ売ることで、島は貴重な外貨を稼いでいた。


 真珠を得るためには緋扇貝を採らなくてはならない。だがこの貝はかなり深い所まで潜らなければ採れなかった。二時間潜って十個がやっとという重労働である。

 カイゼルは泳ぎがとても上手かった。緋扇貝も島民の誰よりも沢山採った。


 カイゼルは本国の港湾で、他の群島の領主達と王宮を繋ぐ窓口の役目をしていたので、クレスタの真珠が恐ろしいほどの安価で買い叩かれていることを知り、相応の値で取引できるよう要請した。

 おかげで島民たちの生活は格段に潤った。

 船を持ち本国へ行く者も出たし、儲けた金で真珠の養殖を行う島民もいる。

 ――あれから十八年。

 リュニスの皇子という立場を捨て島に帰化したカイゼルは、今は島民中に慕われて島長しまおさとしての職務に励んでいる。



 ◇◇◇



 リュイーシャは思った。

 島に帰化する決断に至ってからも、父の心には影のような後ろめたさが常につきまとっていたのだろう。再会した兄を見るカイゼルの顔からは、いつもの陽だまりのような快活な表情が消え失せていた。


「私にわざわざ会いに来て下さったのですか? ロード兄上」


 覇気のない声で呟いたカイゼルに、男――彼の兄皇子ロードは右腕をゆっくりとあげ、筋張った肩を覆うように手を置いた。


「お前が一方的に出ていってしまったからな。だから来るしかないだろう? でも、俺とお前は兄弟であることに変わりはないし、父上もお前がいつか本国に戻ってくれると信じておられる」

「それは――」


 眉間に深い溝を作ったカイゼルを見て、ロードはその肩をなだめるように軽く叩いた。


「誰もお前を呼び戻しに来たとは言ってないだろ! この十八年の間、一度だって無理強いしてお前を本国へ連れ帰ろうなどしなかった。あの父上がお前の気持ちを尊重して、それを絶対にお命じにならなかったからだ。俺が今回ここへ来たのは、商人達がクレスタへ真珠の買い付けをしに行くというので護衛のためだ。ひょっとしてお前は、俺の顔を見るのも嫌だというのか?」 


「い、いや。そうではありません」

「なら歓迎してくれたらどうだ? 十八年ぶりに会ったというのに」


 ロードはこの時初めて沈痛な面持ちでカイゼルを見つめた。


「……申し訳ありません。兄上。私とて、あなた方を一日たりとも忘れた事はありませんでした」


  カイゼルは強ばった顔をようやく緩めて、兄皇子に向かって微笑した。


「歓迎の支度は整えてありますとも。まさかこんな多人数で来るとは思ってもみなかったので、料理の支度が少し遅れておりますが。下の私の館の方へ宴席を設けてあります。キルト、まずは商人の皆さんをお連れしてくれ」

「はい。カイゼル様」


  リュイーシャの隣にいた亜麻色の髪の女性が、カイゼルに呼ばれて商人達の方へ歩いていった。


  彼等が出ていった後、神殿にはロードの護衛のために三人の近衛兵と、全身黒尽くめの上、右目に黒い眼帯をした痩せぎすの男が残った。

  黒と銀の揃いの軍服を纏う宮仕えの近衛兵とは対照的な、野性味のある若い男である。若いといっても恐らく三十前ぐらいに見受けられるが。

  リュイーシャは先程から、この男の視線が絶えず自分に向けられていることに気付いていた。

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