【1】三日月の島


 鮮やかな空の青が鉛色の雲に覆われようとしている。

 それは嵐の予感。

 人気のない砂浜でリュイーシャは一人、水平線の彼方を見つめていた。


 月影色の長い金髪は結う事なく背中に流れ、抜けるように白い肌が頬だけほんのりと赤く染まっている。波打ち際でたたずむその姿は、切り立った崖に一輪だけ楚々と咲き誇る白百合のようであった。


 薄暗い雲の隙間から一筋の光明が白い波頭を見せる海上を照らしている。

 何かが光った。

 はっと息を詰める。

 同時に胸の鼓動がどくんと大きく弾んだ。


「――金色の……鷹……?」


 大きく翼を広げたかの鳥は、まるで挑む様に黒い雷雲の塊の中へと自ら突き進んで消えていった。鳥の行方を目で追いかけていたリュイーシャはふと我に返った。

 からからと乾いた笑い声が頭上で響いている。


「風よ。お願いだから海を荒らさないで。今日は本国から船が来るの」


 だが呼びかけは空しく周囲に響いただけだった。湿り気を帯びた風はリュイーシャをからかうように吹き抜けていく。

 リュイーシャは小さく息を吐いた。風は必ず意思を持っている。

 悪意もあれば好意もある。悲しみを伝えてきたり、子供のように構って欲しいと訴えてきたりする。


「仕方がないわね。今日はどんなうたが聞きたいの? 唄ってあげるから、今日はそれで帰って」


 頬にまとわりつく髪の一筋を指で振り払うと、リュイーシャは目の前の海と同じ青緑の瞳を細めて笑みを浮かべた。

 潮騒の音と共に寄せては返す波が、珊瑚が砕けてできた染みひとつない純白の砂浜に泡の花をいくつも咲かせている。リュイーシャは裸足のまま、衣の裾をたくしあげることもせずに、透明な碧い海の中へ静かに入っていった。


 丸い盆をいくつも広げたような珊瑚礁の合間をゆっくりと歩く。

 赤や黄色、冴えた青色をした魚達がすぐ集まってきた。水の中で揺れるリュイーシャの白い衣へ、じゃれつくようにちょんと突いては離れていく。

 足を濡らす海の水はそれほど冷たくない。

 少なくとも、この浅瀬までは。


 リュイーシャは膝まで海に浸かる場所で立ち止まった。

 その先には吸い込まれるように深い深い群青色をした海が広がっている。

 まるで誰かが巨大な銛で海を穿ったように。

 この暗くて青き深淵は、海神「青の女王」の住処へ続く場所だと古代より言い伝えられている。そのため、かの神に仕えるリュイーシャ以外の島民は決してここに近付かない。


 潜る事は勿論、その昏き青を一目でも見れば、心臓を鷲掴みにされるような苦しさと、潮のように押し寄せる悲しみに圧倒され、ついに気が狂って岬から身を投げてしまう者が今までに何人もいたという。


 ここは海神の深い嘆きが沈む場所。リュイーシャは心の奥底まで染み通るような、悲しみの色に満ちた群青色からそっと視線を引きはがした。


「そうね。今日はこの詩にしましょう」


 灰色の雲は頭上で渦を巻き、駄々っ子のように甲高い笑い声をあげている。

 喜んでいるのか、リュイーシャの長い金髪を一陣の風が舞い上げた。

 頬に両手を添えてその長い髪を一緒にすくいあげたように。

 乱された髪が雲間から射す僅かな陽光を浴びてきらきらと輝く。

 その光の中でリュイーシャは瞳を閉じたまま、唇に柔らかな微笑みを浮かべた。


『海の色は何故青いのか』

『海神の一番深い悲しみが、今も癒される事なく消えないから』


 リュイーシャは歌い始めた。つま弾かれる琴の音のように辺りの空気を震わせ、響き渡っていくような、そんな透明な声で風に歌いかけた。



~その昔、エルウエストディアスという国があった。

 一夜にして城は海中に没した。

 新王の呼び寄せた黒き破滅の風が大津波を起こし、

 無垢なる多くの人々と共に、かの国を海へ攫っていった……。



 びょうびょうと風が音を立ててリュイーシャを取り囲む。

 渦を巻いた空は厚い雲の壁を作り、海もどうどうと咆哮を立てて浜に次から次へと波の固まりを押し寄せていく。

 けれどリュイーシャは荒れる海の中で歌い続けた。

 吠える風と海を恐れる事なく歌い続ける。

 右手を天に向けて挨拶でもするかのように差し上げると静かに目蓋を開いた。

 どこまでも続く海の青と島の緑を合わせたような、碧い瞳が空を仰ぐ。



~海には数多の悲しみで満ちた。

 海神・青の女王は真珠の腕を広げ、それらの悲しみを自らの内に取り込んだ。

 エルウエストディアスの民の魂は幾千幾万の光となって浄化されたが、

 青の女王でも一つだけ救えないものがあった。

 それは終わりなき闇の底に落ちた王の魂。



 まるで歌に聞き入るように、風がその強さを意図的に弱めつつある。

 それを感じたリュイーシャは、左手もゆっくりと上げると、己の胸に風を招き抱きしめた。



~王の魂は今もまだ、己の罪を償っている。

 青の女王は一番深い悲しみを胸に抱き続けている。

 審判の角笛が高らかに吹き鳴らされるその時まで。

 すべての赦しが得られるその時まで……。

   



 ふわり。

 リュイーシャの衣の裾を名残惜しげに揺らし、風が逃げた。


「――そう。もう行ってしまうのね」


 頭上には明るい陽の光が降り注いでいた。

 重苦しく垂れ込めていた灰色の雲は彼方へと消え去った。 嵐が来る気配はもはや存在しない。海もまた鮮やかな青色を取り戻し、リュイーシャの瞳のように輝いていた。ほう、と小さな吐息を漏らし、リュイーシャは何気ない仕種で後方を振り返った。


「姉様。リュイーシャ姉様!」


 石英の砂浜を駆けてくる小さな姿を目にして、リュイーシャは再び唇にやわらかな笑みを浮かべた。


「やっぱりここにいらしたのね!」


 肩まで伸ばした淡い白金の髪を揺らし、息を弾ませた十三才ぐらいの小柄な少女が、くるぶしまでかかる薄緑色の更紗の裾を乱し、砂浜に足をとられながら一生懸命駆けてくる。


「あらあら、リオーネったら。何もそんなに急がなくても、私がいつもここにいるのは知ってるでしょう?」


 海から浜に上がったリュイーシャは、五つ年が離れた妹をやんわりとした視線でたしなめた。どちらかといえばのんびり屋でおっとりしている妹が、浜まで駆けてくる事は滅多にない。


「それは知ってるけど、だって、早く姉様にこれを見せたかったんですもの!」


 リオーネは大きな新緑色の瞳を輝かせ、リュイーシャに向かって両手を突き出した。


「あら。これ……」

「そう。神殿の裏の崖に咲いていたのを見つけたの」


 リオーネの小さな両手には、島ユリで作られた花冠が載っている。

 大きく開かれた五つの白い花弁から、蜜のほんのりとした甘い香りが漂った。


「ほら姉様。髪につけるからしゃがんで」


 リオーネは年の割に小柄で、リュイーシャの胸ぐらいまでの背丈しかない。


「わかったわ」


 リュイーシャは膝をついた。するとリオーネが小さな唇をむっとさせて、リュイーシャの乱れた前髪を手櫛でそっと梳いた。


「姉様また風とお話してたんでしょ? 朝整えてさしあげた髪がぐしゃぐしゃになってる」

「あらそう? ごめんねリオーネ」


 リュイーシャはどちらかといえばあまり手先が器用ではない。島の同じ年頃の娘達は、長く伸ばした髪に花を編み込んだり、色とりどりの綺麗な布で作られたリボンを結んだりしているが、正直言うとあまりそうやって身を飾るのは好きではない。


 もとい、リボンを結んでも結局風に飛ばされて無くしてしまうのだ。

 けれどそれを最近お洒落に目覚めた妹は見逃してくれない。

 リュイーシャ姉様みたいに、早く長い髪になりたい。

 一生懸命肩口まで伸ばした白金の髪を、リオーネは毎日のように引っ張っている。


「できたわ。うふふ、やっぱり姉様に似合うと思ったの」


 両手を合わせて満足そうにリオーネが微笑む。まだ子供である妹は、姉を思い通りに飾る事ができて、それだけでとても幸せなのだろう。


「ありがとう。今度は無くさないようにするわね」


 白い島ユリの花と細長い緑の葉は、確かにリュイーシャの長髪によく映えた。


「姉様はこの島を守る巫女姫なんだから、もうちょっとそれらしい振る舞いをしてくれないと。そうそう。父様が姉様を見つけたら神殿に戻るようにって。今日は本国の商人が挨拶に来るから、一緒にいて欲しいって言ってたわ」

「……そう」


 リュイーシャは左の耳の上で潮風に揺れるユリの花に手を添えた。目の前の海と同じ青緑の瞳を一瞬だけかげらせる。水平線の彼方に白い帆影が見えたのだ。


本国リュニスからの船が来たの?」


 同じように船影に気付いたリオーネが呟いた。


「行きましょうリオーネ。父様がやきもきして私の帰りを待ってるでしょうから」


 リュイーシャは溜息をついて海に背を向けた。緩い登りになった珊瑚の砂浜を素足のままで歩く。踏みしめた砂がきゅっきゅっと鳴いた。

 空は何事もなかったように晴れ渡り、海はその青さを鏡のように映してどこまでも広がっている。

 一つ。二つ。

 数を増した船影は、この三日月の島クレスタを目指して確実に近付いていた。

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