第7話・隠秘

翌日の見慣れた教室。変わらぬ君の姿が在った。

椅子に深々と腰掛けて、黙々と書冊に視線を這わせる君は、昨日の夢現に微睡む姿の影も無い。

然し、あの逢瀬に揺蕩う君が脳裏に焼き付いた今、言の葉を封じた君の姿に高鳴る鼓動は、意外な一面を覗かせた君に抱いた思慕の結果だ。以前に抱いていた感情に重なった想いは、存外に大きかった。

「おはよー」

君に差し向けられた挨拶への返答は無い。ただ視線を合わせて、首を下げる。君は、クラスメイトが良く知る君だった。

「おう」

「ああ、おはよう」

内耳に響いた声の主は、僕の数少ない友人の一人。往斗は、僕の机の前に立って、僕を見下ろして居た。

「いずみ」

朝の挨拶を済ませるや否や、嫌らしい面を湛えながら、僕の真横に寄った。

「お前。今、椎名のこと見てたろ」

無遠慮さの滲み出た声量で指摘する往斗。僕は、書冊を仕舞い終えた鞄を、往斗に押し付けた。

「お。いずみも遂に、椎名推しの仲間入りか?」

何処から湧き出るのか。然して、僕の友人二号が、ボウフラ宜しく湧き上がっては、僕の背後から這い寄り、往斗とは反対側の机の脇に腰を据えた。

「やめておけよ。お前には無理だ」

肩を竦めて、無理と首を左右に振る往斗。追従する洋二は、嘲笑の意を醸す表情で、僕を見据えた。

「何を根拠に……」

「顔だ」

「性格だ」

瞬く間を与える慈悲も無く、僕の友人と思しき有象無象は臆する事なく告げる。その言葉に反応したクラスメイトの数人から、堪えた笑いが漏れ出した。

そこまで堪えたのならば、せめて最後まで抑えて欲しかった。

「言ってろ」

ぶっきらぼうに、僕は一蹴した。

そうだ。この会話は、君の耳に届いて居るのだろう。意味さえ理解して居るのだろう。

僕が君に見合うか否か。僕が判断する事では無い。あの逢瀬が、僕の果敢無い幻夢の生み出した虚実では無いのならば、判断する権利は君に在る。そして君は、確かに選んでくれた。

その事実が、雑念の割り込む余地も無く、僕の心を満たした。

「悪いことは言わんから……」

「さっきの悪言の贅を尽くした罵詈雑言の数々を忘れたとは言わせない」

悪怯れた様子も無く、往斗の都合の良い頭は他所を向いて、聞く耳は両の手で塞がれる。

「何のことかな」

洋二も同様、僕の文句の矛先が差し向けられる前に、外方を向いた。

「その都合良く機敏な頭、交換して欲しいよ」

僕は溜息一つ、意地の悪い表情が張り付いた二人を追い払った。

大人しくも騒々しく、自席に戻る二人を尻目に、漸く訪れた暫しの静寂に浸る。だが、僕には静寂に揺蕩う暇は無かった。

今日の二限目に待ち構えている公民の課題を取り出して、僕はペンを手に取った。

昨日の今日だ。凛々しく聳え立つ課題を憂う前に、今日の朝方に至る迄、課題の存在さえ僕の前頭前野から排斥されて居た。

当然の結果とは納得して居たが、期限は無情に迫る。止まれぬ時間に流される僕も止まれないのだ。

そうだ。やらねば、やられるのだ。

ペンをノートに押し付けて、いざ課題に取り掛ろうと意気込んだ刹那のこと。ふと、机上に細い影が落ちた。

環境の変化に釣られて、意図の無い儘、無意識に見上げた先。陽光を遮った影の持ち主は、外ならぬ君だった。

君が、僕の席を横切る間際に落とした影。無表情な儘、見慣れた後ろ姿を眺める暇に、僕の心臓は激しく脈打った。経験の無い出来事に、動揺の色は抑えられない。

如何にか平静を装い、動じぬ姿で在ろうと教書に手を置いた時、視界の隅で往斗と洋二が、僕の様子を眺めて笑って居る姿が在った。

「……」

僕は、阿呆二人に中指を突き立てて、教書に向き直った。

そして、僕は見つけた。机上に影を落とした君の落し物。差出人に宛てられた、小さな落し物。僕は動揺を抑えて、握った拳に落し物を包み込んで、席を立った。

一枚の紙。丁寧に折られたノートの切れ端を、僕は駆け込んだ化粧室の個室で開いた。


ーーお昼、屋上で待ってるねーー


記されて居た簡潔な要件。それは、長い一夜の逢瀬を語った端的な一文だった。

目から脳へ伝達された文言を噛み砕いた僕は、個室の薄い壁に凭れた。

安堵感と湧き上がる幸福が、胸中を駆け巡る。妄言に取り憑かれた訳では無かったと、不安の根源に居た君自身が証明してくれた。

昼は毎日のように、教室に居なかった君が、立ち入り禁止の屋上に居たこと。以前は想像さえ出来なかった姿さえ鮮明に想像できる。僕の知る君ならば、然して異常では無いと思えた。

だから、僕は笑う。込み上げる情動に従って、笑う。滲んだ視界さえ情動が故の感情の発露だと、僕は笑った。

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