第6話・発露

帰路を辿る影二つ。月華の明光が頼りの遊歩道を行く、二人の陰影が伸びる。視界を遮る遮蔽物も無い田舎の直線歩道だ。いま暫くの間、僕たちは帰路を違える時まで、隣に並んで家路を辿ることと相成った。

時偶に、他愛の無い話柄に満開の花が咲き、良い塩梅で沈黙が訪れる。夏を間近に控えた今、夜半の静寂を搔き消す虫たちの協奏曲。喧騒も見方次第では、美しい旋律に変わるのだ。

僕たちの間に会話が無ければ、周囲の環境に溶け込み、非現実とさえ紛う現実に浸っては悦に入る暇。突然、君は「ふふ」と笑った。

「どうしたの?」

「ううん。ちょっと思い出し笑い」

草履の音を響かせて、君は静寂に揺蕩う。揺れる髪の隙間から覗く表情に、僕の心は揺蕩う。

「ね。いずみくん」

君の呼び掛けに、僕は「うん」と答える。

「いずみくんが、私を誘った理由……なんて言ったか覚えてる?」

「え?」

矢継ぎ早に言葉を連ねる君の問いに、僕の胸中の早鐘は鳴り響いた。

好意を示した勇気が霧散した過去。潰えた勇気が故に絞り出した言葉は、未だ良く覚えて居た。

「君の為人が、気になったから……」

君は、「そうだったね」と笑った。

満ちる静寂。地平線の彼方。遥か三十八万キロメートルの距離に在る望月を眺めて惚ける君は、どんな意図を抱えて居るのだろう。

草履が打ち鳴らす音。靴と砂利の擦れる音。時の渓流を示すかの如く、規則的に響き渡る空間に在るのは、僕と君。ただ二人。

「じゃあさ」

君は、虚無に向かって囁くように言の葉を紡いだ。そして、君の草履の音は止んだ。


「読唇術って知ってる?」


麗らかな声。その声は、時の渓流さえ塞き止めた。

振り返る勇気を振り絞る余裕なんて、僕には無かった。満月の月影さえ霞む月色に埋め尽くされた脳裏は、途方も無い虚無に至る。

その虚無に落ちた頭で、唯ひとつだけ。僕は、理解した。君が辿り着いた理解について理解して仕舞った。

「口の動きってさ。耳には聞こえない言葉でも……」

「ま、待って!それって……」

無意識に振り返って、僕は君の言葉を遮った。でも、淡い月明に映えた、人待ち顔で立つ君の姿は、宛ら幻影のようで……。

「嬉しかったよ」

無垢な微笑が、立ち止まった空間ごと切り取られた一枚絵のように、ただ只管に美しかった。

手の届かない距離。でも、声は届く距離で君は揺れる。

そうだ。此処に、君は居た。

「本当は、いずみくんの口から聞きたかったんだよ?」

無垢な微笑も意地悪な表情も映える君に絆された僕は、きっと惚けた阿呆面を晒して居るのだろう。僕に与えられた行動の幅は紙縒ほど細く、焦燥感と高揚感、羞恥心が複雑に交錯した胸中が生み出した魔物は、僕の脳裏に浮かんだ言葉の断片さえ啄んだ。

「もう一回、言って欲しかったなぁ」

目を瞑り、後ろ手を組んで揺れる君。

「ご、ごめん……」

情けない話だ。答えるべき言葉は一切合切、脳裏に浮かぶ気配も無かった。

君に魅せられた僕は、ただの腑抜け。本能的な感性に依る君への思慕は、僕の誠の心だ。自分自身の心を欺く術は持ち合わせて居ない。

向かい合う身体。然れど、僕の目線は落ち着き無く、君と虚空と望月の間を彷徨う。

「顔、赤いよ?」

「それは、まぁ……」

手の届かない距離から、僕の表情を覗き込む君。僕の嘘偽りは、もはや無意味なのだろう。もう、捏ねる嘘も残っていない。捏ねる嘘は、君に奪われて仕舞った。

そうだ。僕が嘘を吐く前に、君は僕の本音を見つけ出しては、造作も無く拾い上げた。

心の奥底に仕舞い隠した想いさえ汲み取る君は、僕の心を読めるのだろうか。女子とは、斯く言うものなのだろうか。

思い悩む暇さえ与えられない。悶々とした感情に振り回されて、君の悪戯な遊び心に弄ばれて、僕は心身諸共に磨耗して居た。

だが、僕は此の期に及んで漸く噛み締めた。

君は、僕の恋情に気が付いて居るのだ。それ以上も以下も無い。それが全てなのだ。

事実とは非情で残酷な概念だ。事実は姿形や意志を持たず、自ら知られる為にノコノコと歩いて来る訳でも無い。ただ、流されて来るのだ。僕自身の意志とは関係なく、ただ此処に在るのだ。

僕が、君に寄せる恋情。その恋情の切っ先が指し示す先には君が居る事実を、君自身は知っている。その事実に触れた僕が、抱える恋情の矛先である君に視線を合わせることが出来ないのは、至極当然なのだろう。

「私は?」

「え、え?」

唐突に話を振られて、正直な心は戸惑った。

当の僕の声帯は、自分の意思とは無関係に引き締まる。焦燥感に急かされて君を見遣れば、自分自身の巾着を持った手で、自分自身を指差す君が居た。

「私の顔」

「椎名さんの顔……?」

「うん。赤くない?」

僕自身の火照る顔を差し置いて、君の顔が赤いと指摘するのは気が引けた。加えて、僕の色覚がトチ狂っているので無ければ、君の頬は、月影の白を宿した珠玉のように見えた。

「赤い……のかな?」

僕は、答えた。

「赤いよ。きっと赤い」

君は、答えた。白砂のように蒼白な顔色で、君は答えた。

「どうして」とは、僕には聞けなかった。顔が赤いと紡いだのは、何かしらの理由が在るのか。君は、君自身の表情に変化が無いことに、気が付いて居るのだろうか。気が付いているのならば、何故、君の顔が赤いか否か、僕に問うたのか。

数刻前は、只管に触れたいと願った君の心に触れて仕舞うのが、今は怖かった。

期待している訳では無い。いや、期待が無いと言えば嘘だ。だが、過度な期待は身と心を滅ぼし兼ねないと、僕は知っていた。

そうだ。蓋を開けて見れば、感情の起伏に富んだ、揶揄い好きな君が居た。悪戯に心が擦り減る暇さえ幸福と羞恥の坩堝に溶け込んだ僕には、現状を瓦解させる勇気なんて無かった。

「……」

だが、気に掛かるのだ。知れば知るほど、殊更に知りたくなって仕舞うのだ。言葉で語らない君とは異なる雰囲気の君を見て居れば、斯くも当然のことだろう。

君と初めて会った日、僕は君の存在を知った。それから、君の外面を知った。明くる日、君との逢瀬の味を知った。やがて、君の声を知り、内面を知った。

そしていま、君の心の深淵を知りたくなった。

過去の僕が知り得なかった心の深淵に、恋情が芽生える余地が在るのか。僕の知らない君は、まだまだ隠れて居るのだろうか。僕は、知りたくなって仕舞ったのだ。

自分自身、難儀な性分だと思う。面と向かって言葉を交える機会など滅多に無い僕が、有ろうことか意中の女子と視線を通い合わせて、君に問いを投げ掛ける。此の儘、切り取られた空間と関係に甘んじて生きるのか。将又、更に高次に在る未来を掴み取る為に、美しい一枚の絵から抜け出すのか。

だが、僕も所詮は此の地に芽吹いた命だ。単なる男だ。男なる生き物は皆、こんなものだろう。

僕の意志の枠外で無常を刻む鼓動。握った拳に感じる湿った汗は、心に巣食う感情を映す鏡。聞きたいことなんて、幾らでも在った。

緊張の弦が張り詰める中、無常に刻む時間だけが無情に過ぎて行く。思い返せば、思い悩んだ日々は、何時も斯く在った。散々、僕は待った。待って、待って、只管に待って、漸く得た逢瀬では無いか。

踏み出したのならば、淡々と前に進めば良いのだ。立ち止まっている時間には、もう浸り過ぎた。

もう、逆上せて仕舞ったよ。

「し、椎名さん」

静寂は喧騒。虫の音は讃える喝采。僕は、擡げた足を踏み出した。

「椎名さんが、僕の誘いに乗ってくれた理由って……何なのかな」

拒む障壁も無い。君と僕の間には、もう何も無い。そして、僕は踏み出した。

「そうだね」

静かな声。透き通る音色。君は、その場で立ち止まって、組んだ後ろ手を解いた。

「好きじゃない人と、お祭りなんて行かないよ」

その言葉の真意を汲み取る余裕なんて、疾うの昔に枯れ果てていた。

「え……?」

「フェアじゃないよね」

困り顔の君が、淡々と紡ぐ言葉は、処理能力の欠けた脳裏に蓄積されて行く。ただ、呆然と立ち尽くす僕の目を見て、君は……ただ笑った。


「いずみくんのこと、好きだよ」


たった一言。それは僕が望んだ、たった一言の想いの証明だった。

君の声を搔き消す音も無く、虚空を流れ流れて、それは僕の心に触れた。

「……」

僕は、すっかり言葉を忘れて仕舞っていた。

君の言葉が脳裏で反復されて、湧き出る僕の言葉さえ遮る。物理的な距離も心理的な距離も狭まった事実に触れた今、容積の小さな僕の心は、遂に四散した。

「だから……いずみくんの言葉が、嬉しかったんだ」

君の好意を語る言葉が如何に重たいものか。君の外見に抱いた恋情と、君の想いに抱いた恋情。知り得た君の欠片の一つ一つに抱く恋情。君を知れば知る程、僕の恋情は高次に向かって駆け上がる。そして漸く、溢れ出る好意が脳裏を埋め尽くした。

いま、口を開いて仕舞えば、溢れ出る想いの奔流は塞き止められないのだろう。

「いずみくん」

草履の音が響き渡る。一歩、また一歩。触れる音は、君との距離を物語って居た。

君が醸し出す不可思議な雰囲気。僕の意志に触れて、僕の所有物さえ束縛する。そして、此処には君が居た。僕の眼前に、君は居た。

「もう一度、聞かせて」

囁く声。気さえ狂れる程に甘美な色艶に満ち満ちた声。吐息さえ間近に感じる距離で、君は囁く。

「あなたの声で、もう一度……」

「好きだよ」

「え……」

縋るような表情から一転、君は唖然とした表情を浮かべた。

「また、聞こえなかったのかな」

自制心の欠如した僕は、溢れる思慕の儘に、華奢な君の肩を掴んだ。息を吐く間も無く、君の身体は僅かに跳ねた。

もはや、僕の意志が依る場所が曖昧だった。

僕の行動が、僕の意志に依らないのかも知れない。いや、此れさえ僕の意志なのかも知れない。

浴衣の生地を超えて、君の体温が僕の掌に伝わる。初めて、僕の方から触れた君の肢体。その事実に、僕の心臓は痛い程に荒れ狂って居た。

でも、もう止まらなかった。止める事なんて、出来なかった。

「初めて会った時から、ずっと……」

君の澄んだ目に映る僕の表情は見えない。でも、此処から君の表情は良く見えた。

その表情に奥に据える感情は、決して読み解くことは叶わない。でも、盈虧の気配も無い月桂さえ僕の背に遮られた君の表情に浮かぶ頬の朱が意味する感情は、きっと僕の過剰な自意識が見せた錯覚では無いのだろう。

「顔、赤いね」

僕の言葉に、君は視線を逸らした。

「……当たり前だよ」

僕の影を縫って差し込んだ月影に曝された君の瞳に、暗い深淵の底を見る。その深淵の奥底に宿る僕の姿は、互いの意識に、君と僕が存在し合う証明。

「でも、ありがと」

素直な君の言葉が、僕の鼓膜に触れた。

流線を描いた目を細めて、君は顔を綻ばせる。

「ずっと……初めて会った時から、聞きたいと思ってた」

そっと、君は僕の視界から消え、硬直した腕は、誰も居ない空間を掻いた。

張り詰めた空気さえ消し去る感触。僕の胸元に触れた、軽い圧。虚空を掻いた僕の腕が抱き留める形で、君は僕の胸元に凭れて居た。

「……」

言葉は希薄。在るのは、腕の中の感触だけ。腕で抱えて、触れることは無かった掌の行き場は、自ずと定まった。

張った腕を引き寄せて、僕の掌は、君の背に触れた。

「いずみくん。心臓、うるさいよ」

「そりゃあね……」

煩いと言う君が、此処から離れることは無かった。

僕の衣服と君の浴衣の衣擦れの残響に浸る余韻。此処には、他愛の無い会話さえ無い。だが、僕は永遠さえ厭わない。この時間が在り続けるのならば、僕は時の停滞を望んだ。

何れ、止まらぬ時の警鐘が語り掛けるだろう。それまでは、こうして居よう。

間も無く、僕の思考は、君に溶けて消えた。

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