第4話・開花
それからの僕の記憶は曖昧だった。ずっと、問答に耽っていたのも知れない。
意識の片隅に巣食う君の存在が、僕の意識の前面を覆った事実は此処に在る。ただ、それだけ。君との邂逅を果たした日から数ヶ月が経過した今宵、漸く溢れる思慕は堰を切った。
後戻りの出来ない場所まで来て仕舞ったのだろう。想い到った強い感情を忘却の彼方に追い遣る方法に、思い及ぶ可能性は無かった。
ただ、君の形貌を眺めて居る幸福を噛み締めた、桜雲の舞う春。それから、寡黙な君の声を聞きたいと願った、雨雫の滴る梅雨。何時しか、君との逢瀬を望んだ、玉雫が肌を伝う初夏。
そして、淡い月白が降る今宵。遂には、今生の離別さえ君と添い遂げたいと願って仕舞った。
輪廻は廻る糸車。斯くして尚、因果は付き纏うのだろう。廻る因果は君との逢瀬。悠久の輪廻は巡り、幾度も君との邂逅を果たせるのならば、永遠さえ君と添え遂げたいと思えたのだ。
神が求める理想的な存在を創造する過程で生まれた、制御の利かない感情に左右される人類。恋情が制御の利かない感情たる所以など、理解の及ばないものと信じて止まなかった。
だが、道理だ。いま僕は、君への恋情を確信した。
淡い恋情を自覚する機会は、幾度も在った。昨晩の瞑想に耽った暇が記憶に新しいが、君の姿を眺めては空想の羽を羽搏たかせた過去も然り。
恋情を恋情と理解する為には、僕が感じていた感情から汲み取れる程度の好意の欠片では、途轍も無く足り得なかった。恋情の輪郭は、常日頃から視界の片隅には存在して居たが、僕の知識量や経験では、不明瞭な輪郭しか摑み取れなかったのだ。
いま、漸く恋情の形を見た。掴んで仕舞えば、なるほど。呆気の無いものだ。
恋情は、飽くまでも感情だ。数多の感情に内含される、心が持つ機能の一種だ。そこには、言葉で語られた知識では理解が遠く及ばない、『自分自身が恋情を抱く経験』と、『自分自身が抱く感情が恋情と確信した自覚』が必要だったのだ。
恋情を知り得ず恋情を抱く経験が、恋情を恋情と知る手段とは、僕が抱く感情を言の葉に託す為の語彙が不足して居るのかも知れない。
恋情を抱き、苦悩に悶絶する間は、好意の対象を想い、その容姿や表情、声が脳裏を離れることは無いと、文献を読んだことは在った。
きっと、正しいのだろう。いま、思い返した僕の人生は、文献の記述を点々と辿る人生だった。
だが、当時の僕が、僕自身の状況について、恋情と理解して居たか否か。答えは、断じて否。恋情とは思い至らず、悶々とした感情程度の認識だった。
恋情が恋情たる所以。それは、当人の意識の問題なのだろう。自分自身が抱いている感情が、恋情で在ると確信した時、悶々とした感情は恋情への昇華を果たす。そこに、恋情を定義する外因的な知見は必要ない。恋情は、当人の感じた感情の程度を図る指標の一種とも言えるのかも知れない。
だから、僕の感じた恋情は、いま抱いている君への思慕。そこに他者の指標は必要ない。
そうだ。僕は、君に恋をして居たのだ。
「……」
見晴らしが良い、神社の境内から逸れた雑木林。開けた平地が一望できる場所。此処に、僕と君は居た。
ちらほらと疎らな人影が、月影に照らされる叙情的な光景。小規模ながら、縁日の終わりを締め括る花火大会が開催される前に、良い場所を確保しておこうと思ったが、良い場所には人が寄り付くもんだ。
比較的に人影の少ない坂付近に聳える常緑樹の根元に、僕は腰掛けた。
「大丈夫?」
浴衣で座る場所では無いのだろうか。僕が腰掛けた場所の隣を見据えて、暫く難しい表情を浮かべて居た君に、僕は声を掛けた。
問答する言葉を持たない君は、無言で首を横に振り、意を決して僕の隣に腰掛けた。
周りの男女ペアや複数人の男連中の会話が聞こえる最中、僕と君は終始無言だった。
とは言え、この静寂さえ心地が良い。火照った頬を撫ぜる夜風が揺らした、君の袂と髪。時折、君の浴衣の裾が触れる距離に僕は居た。
切り取られた刹那の間に、僕と君を隔てる隙間は無い。原子さえ、僕たちを別つことは出来ない。
そして、時偶に香る夜風の便りは、仄かな君の匂い。夜風の芳香に紛れて、それは言葉の無い君を語る。なんと表現すれば良いか、言葉に余る芳香。本能的な幸福を想起させる香り。煩悩を必死に押し込める僕の身体は正直だ。心臓の音が、只管に喧しかった。
「あと数分かな」
気が付けば、腕に巻いた時計の指針は七時二十八分を指し示していた。夏至を超えた七月下旬の今宵は、仄暗い満天の星空と仄かな望月の月華が覆う。さざめく有象無象の喧騒に掻き消された静寂は、決して喧騒と相容れない孤独な概念だ。
周囲の有象無象は、花火大会の開催を今か今かと待ち侘びて居るのだろう。だが、夜空に咲く大輪が待ち遠しい……とは、僕は思わなかった。
寧ろ、この時間を切り取って、時間の渓流から隔絶された空間に在りたいとさえ思う。
時間は、須く流れる。時間は、人間の意志など意に介する余地も持たない。いま、花火大会が始まって仕舞えば、それは君との逢瀬に告げられた終幕の鐘に等しい。
漸く掴んだ逢瀬。まだ、終わらせたくは無かった。
幸福が増える程に苦悩は増えて、苦悩が潰える前に、次の苦悩は降り積もる。然し、今が幸福である事実は揺るぎ無い。
虚空を見上げて、間近に在る君の気配に幸福を感じる暇。僕が抱いて居た君の印象を塗り替えた逢瀬。無口で、感情表現に乏しく掴み所の無い級友と思って居た君は、存外に、身体と表情で感情を示した。言葉で語らぬ少女は、表情で言葉以上に語る。僕に抱かせた君の印象は、今日一日で、如何程も塗り替えられた。
静寂に揺蕩う君は、虚空に視線を彷徨わせ、膝を抱えながら前後に揺れていた。言葉を抱く君の胸中に渦巻く言葉は、何を語っているのか。その言葉を、僕は君の口から聞きたかった。
その刹那の閃光。虚空を彩る大輪が咲いた。
周囲に散在する若者が「おお!」と、感嘆の声を上げた途端に、あらゆる雑踏の音を掻き消した大輪の咆哮。命を賭した叫声は、空間さえ揺るがす渾身の一撃だった。
円弧を描いては、落花飄々と虚空に溶けて消えて行く大輪を眺めて、僕も「おお……」と声を漏らした。
果たして、君は夜空に咲く花を眺めて何を想うか。咲く普遍的な美しさか、散る侘び寂びの美しさか。
二発目の蕾が茎葉を伸ばす魂の飛昇。徐々に開花の時が迫る中、僅かに覗いた君の瞳に映る白の光点。君は、思い馳せる。君は、大輪の開花を待つ。僕の視線を感じる素振り無く、微動だにしない。夢中なのだろう。周りの状況など、見えてないのだろう。
「きれい」
君は、呟いた。
たった一言。時は一瞬。されど、遥かな時間さえ待った瞬間。君は、呟いた。
二度目の衝撃。体を貫く、強烈な振動さえ希薄な刺激。僕の視線を、君から逸らすことは適わなかった。
「……」
そして、君は気が付いた。
油断して居たのだろう。唐突に口元を押さえて、現状を確認するかの如く僕を見た。
停滞した空間に、僕たちは在った。喧騒から隔絶され、花火の咆哮は鳴りを潜める。呆然と君を見据える僕は、一体どんな表情を浮かべて居るのだろう。
絞り出せる言葉は無く、夢幻の境に在ると錯覚した心の混乱が、僕の感情を掻き乱した。
ただ、この感情を誤魔化す術は無かった。
此処に在る僕たちは、互いに無言。僕の視線は君に向き、君は視線は虚空を彷徨う。
やがて、君は小さく溜息を吐いた。
「もう、誤魔化せないね」
君は、観念したかのように言葉を紡いだ。
それは、管楽器の旋律を彷彿とさせる声。繊細な声音が振動させた空気が、僕の鼓膜に触れる。驚愕とは、今の僕自身の感情を指すのだろう。
「……初めて聞いたよ」
「入学して、初めて喋ったから」
然して、次から次へ語られる言葉。夜空の大輪の咆哮とは比べ物にならない程、僕の心を揺るがす音色。通い合う視線と言葉の応酬に、僕は感動さえ感じて居た。
「油断してた」
君は肩を竦めて、自分自身を嘲笑するかの如く笑った。
無口な君に感じた好意とは異なる好意。言葉を紡ぎ、微笑を湛える君への思慕は、止め処なく溢れる。同一人物を相手に、言葉の有無で感じる印象とは、斯くも変わって仕舞うのか。
「でも、どうして……」
問うことが正しいか否か。僕が判断する為の材料は、切れ端の一片さえ無い。だが、僕は知りたいと願った。願って仕舞った。
だから、僕は問うた。
大輪の種が飛翔する音が鳴り響く中で、君は沈黙の海に沈む。膝を抱えて、空を翔る光点を見据えて、何事か思惟に耽る。その端正に整った横顔に、僕は恋患って居た。
「いずみくんは、友達はいる?」
刹那、僕の心臓は跳ねた。油断して居たタイミングで語られたのは、聞き慣れた僕の名。大輪の砲声さえ搔き消えた、聞き慣れぬ君の言葉。
僕の名前、知って居たのか。
浮かれて舞い踊りたい欲を抑えて、僕は言葉を模索する。
「多少は、居るかな」
「じゃあ、仲のいい友達はいる?」
君の問いの真意。僕の問いの回答に係る質問なのだろう。
だが、その問いが意味する真意とは、皆目見当も付かなかった。
「仲の良い友達……数人くらい」
僕は、指折り数える友人の顔。良く遊ぶ友人は、片手の指で収まる程しか居ない。
然し、君は満足そうに「そっか」と頷いた。
「私は、友達はたくさんいるんだ」
君は空を眺めて、癖の付いた髪を梳く。
「でも、ほんとに仲のいい友達はいない」
穏やかな表情を浮かべた君の横顔。仲の良い友達が居ない現実。それは、酷い苦痛の味を想起させた。
然して、君は僕を見据えて、有ろうことか屈託の無い笑顔を晒した。
「それが好きなんだ」
それは、呼吸さえ止まる程に優美な姿だった。
表情で語り続けた君は、表情に加えて言葉で語る。外見では理解できなかった内面は、表情では語られることの無い、君の胸中に抱えた想いの吐露。漸く聞いた、君の内心の発露だった。
「じゃあ……君は友達と程好い距離を保つために?」
君は、「うん」と小さく頷いた。
「そっか」
僕は、納得した。そして、同時に嬉しかった。
君の声を聞いたこと。君の内心に抱える想いの奔流を聞いたこと。延々と待ち侘び続けた理想が、現実として此処には在った。
何てことは無い。静寂を纏う君は、普段から友人に囲まれて居た。好奇から寄り付く人も居るのだろう。でも、無口な君に話し掛ける「友人」は、確かに居たのだ。
側から見れば、それは前者の人間ばかりの印象が強かった。
然しだ。君から見れば、それが殊更に良い関係だったのだ。
一発入魂の如く咲き誇り、須らく生を散らす小玉の花を眺めて、僕は長々と息を吐いた。
やがて、生の息吹の終焉を聞く暇に、君は口を開いた。
「ね」
「うん?」
僕は呼応する。
「私も、質問していい?」
首を傾げて、囁くように問い掛ける君。僕は、「もちろん良いよ」と返した。
深呼吸一つ。束の間の静寂。切り取られた刹那に感じた、本能的な焦り。僕は、君の様子に胸の緊縛を感じた。
「いずみくんは、なんで今日、私を誘ったの?」
直前に感じた予覚に準ずる質問。僕の緊張は、突如として極限に達した。
「それは……」
僕は、回答に窮した。
いや、回答なんて此処に在った。数ヶ月以上の短い永遠を、胸の内に抱え続けて生きて来たのだから、今更になって回答を模索する必要なんて無かった。
然し、眼前の君に言葉で伝える勇気を用意する暇なんて無かった。
好意を伝えて仕舞えば、僕と君の関係に大きな影響を与えて仕舞うのだろう。良い方に転べば万々歳。悪い方向に転べば、君と僕の関係に修復の利かない溝が入って仕舞い兼ねない。
この関係の命運を握るのは僕だ。いま此処で、運命の糸を手繰り寄せた結末を見る勇気など、絞り出せるものか。
「……」
でも、君は望んで居た。月桂を照り返す君の目が語って居た。僕の真意の吐露を、僕の想い人は待ち望んで居た。
僕が抱える胸中の恋情の正体に気が付いて居るか否か。世情に疎い君のことだ。恐らく、質問に特別な意味など無く、純粋な興味が故に他意なく聞いたのだろう。
僕が、君の胸中の想いの吐露を望んだ過去と同様、君が望んだ真意。だが、君は真摯な態度で、僕の問いに答えた。
双方の回答の比重なんて、個人の裁量で比較する術は無い。人の感情の軽重を客観的に計る指標など存在しないのだろう。
月が森羅万象を平等に照らす世界で、僕は平等で居られない訳が無かった。
拳に握る汗。背筋を伝う雫。いま伝えないで、いつ伝えられるのか。勇気など、出して仕舞えば呆気ないのだろう。
夜空の大輪が咲き乱れた世界で、青白く煌めく君の凛とした表情を見据えて、静寂なる空間に在る僕は、震える口を開いた。
刹那、際立った大輪の咆哮が響き渡った。
「好きだから」
大輪の咆哮に追従して紡いだ言葉。僕の思慕の吐露。夜空の大輪に負けぬ程に大きな想いの奔流。僕は、確かに伝えた。
然し、君の表情は翳った。
夜の静寂さえ淡い、暗々とした影を落とす君。その表情が抉った僕の心臓は、しめやかに止まった。
「ね」
刹那、目眩が襲った。僕の肺は、呼吸さえ覚束ない。此処から、一目散に逃げ出して仕舞いたい衝動に駆られる。
だが、君は言葉を紡いだ。
「も一回、言って」
「え……?」
「あれの音で、ちょっと聞こえなかったから……」
言葉を紡いだ君の細い指が指差す先には、既に虚空に消えた花火が残した白煙。それは、予期した最悪の事態を打ち消した事実だった。
直後、僕の口から安堵の溜息が漏れた。
然し、ほんの数秒程度の出来事の為に擦り減らした精神は完膚無きまでに疲弊し、緊張の糸は断ち切れて仕舞った。
「き、気になったからさ……君が、どんな人なのか」
再度、君に真意を伝える為の精神力は、此処には残って居なかった。もう、あの勇気を絞り出すタイミングは、僕の中には存在し得なかった。
若干、不思議そうな表情を浮かべた君。然して、納得したかのように笑った。
「そうだったんだ」
君は膝を抱えて、虚空に語り掛けるように言葉を投げる。
「みんな、不思議に思うよね」
再び、嘲笑を醸す微笑を浮かべて、君は笑う。
その言葉に、僕は内心で叫んで居た。今日の誘いは、好奇が故の誘いでは無いと、ただ必死に叫んで居た。
然し、決して空間を震わせることの無い叫声は、大輪の咆哮の如く飛び出すことは叶わなかった。
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