第3話・逢瀬

七月十日。約束の日、手紙に記した待ち合わせの場所に、僕は居た。

祭り会場の神社本殿前の灯篭付近。今更だが、馬鹿な選択だったと自責の念に駆られる。幾ら田舎とは言え、年に一度の縁日に出向く人間の数は多い。午後一時を跨いだ神社の境内は、只ならぬ雰囲気に酔った人間で溢れ返って居た。

この環境で、僕が椎名さんを見つけることは簡単だろう。だが、椎名さんが僕を見つけることは、決して容易いことでは無い。

容姿端麗な想い人を有象無象の群から探し出すことは容易だが、有象無象の群から単一の有象無象を探し出す難度は、想像に難く無い。君が、僕の顔を覚えて居ると断言できる根拠は無い。

約束の時間が迫り、僕は灯篭の付近を眺め回して、君を探した。

その刹那、そっと肩に触れる感触が、意識の前面を覆った。

勢い良く振り返る先。見慣れた、決して見飽きることの無い姿が在った。

「椎名さん」

意志の範囲外で漏れた声に、君は頷く。その姿に、僕は自分自身の目を疑った。

「椎名さん、浴衣……」

失礼とは理解しつつ、普段の制服とは毛色の異なる和装を、僕は指で指し示す。変わって君は、自分自身の浴衣を一瞥し、腕を真横に伸ばした。

上腕の形に沿って流線を描く、空色の布地に桃、青、紫の鮮やかな紫陽花が咲いた浴衣の袖。重力に逆らうこと無く垂れる袂。無造作に整えられた、ミディアムショートの緩い癖っ毛。心倣しか柔和な表情と、一挙一動に漂う純真無垢さ。

調和した美を表現する課題が課された日、きっと僕の答案には、君の名が記されて居るだろう。

高鳴る心臓は、僕の誠の心を映す鏡。自分自身の感情に嘘を付くことは出来ない。

今だって、そうだ。

想像の中の君と対峙する機会は、数えられる代物では無いが、現実に居る僕と君の逢瀬が叶った今、高鳴る心臓の早鐘は、鳴りを潜める気配も見せなかった。

今日のために、散々シミュレートした計画なんて、現実では役に立たない。僕の脳内を埋め尽くす感情が、綿密に練った計画を忘却の彼方へと追い遣った。

どうすべきか。思考が纏まらなかったのだ。

如何ともし難い状況の中、両腕を広げて、浴衣の袂を上下に揺らす君の姿を脳裏に焼き付ける暇に、君は不思議そうに小首を傾げた。

僕が先導すべきなのだろう。なに、簡単な話だ。「行こうか?」と一言、君を誘えば良い。

……と、言葉に思い起こすことは簡単だ。此処から、いざ行動に移すために必要な勇気が、どれほど重たいものか。君を縁日に誘った、あの日に思い知ったさ。

君の存在を感じては、手汗を握り潰してばかりの僕を見て、君は暫く僕の目を見据えた。

蒼穹を宿す瞳。暗い蒼の奈落の底で惚ける、僕の姿。魂さえ君の意識に溶けて仕舞い兼ねない蒼。君は、そっと手を伸ばした。

「え?」

微かな風圧を感じた腕に視線を向けた刹那、君は僕の左腕の袖を摘んで居た。突然の出来事に塞き止められた喉は、一切の声を通さない。混乱の渦中に在る脳が、現状を理解する前に、引かれた袖に追従するように身体は動いて居た。

「し、椎名さん?」

僕の問いに対する反応は無い。でも、指先で摘んだ袖を離す気配は無く、僕自身の手が届く距離に君は居た。

それは、酷く不思議な感覚だった。偶像のような、美の象徴に過ぎなかった君が、僕の間近に居る奇跡のような逢瀬。君が踏み締める一歩一歩の草履の音さえ、僕に語り掛けて居るような錯覚。多幸感と焦燥感。そして、喉と胸を締め付けるような息苦しさ。

君の手に触れて仕舞えば、楽になれるのだろうか。

僕の傍に居る君の遠い背中を眺めて、僕は感情を心の奥に仕舞い込んだ。

連れ立って、人波を潜り抜ける道中。君は、立ち止まった。

「……どうしたの?」

背後から眺める君の表情を窺うことは叶わないが、長い睫毛が、陽光を照り返す艶やかな褐色の髪の隙間から覗いていた。

君の視線の先に在るのは、恐らくは屋台。境内の参道に沿うように立ち並ぶ出店は、この時期の風物詩と言える。

「行ってみる?」

自然と口から溢れた言葉。君は此方を振り向き、小さく頷いた。その君の隣には、誰も居ない。今ならば、僕が占有できるのだろう。

決意一つ。君の横に向かって、僕は一歩を踏み出した。

その瞬間、僕自身の右腕の袖を摘む君の右手が、僕の決意を揺さぶった。

……どうしようか。

悶々と思い悩む暇が在る訳でも無く、君の澄まし顔を見据えて仕舞えば、高鳴る動悸が追い打ちを掛けた。

人生の長い道程。奇跡的な偶然の結果、君と交えた日から、僕の人生に満ち溢れる決意と決心。寿命を削って、決意と決心を固め、勇気を振り絞り、僕は君との邂逅の機会を得た。

ならば、今更になって臆することは無いのだろう。あの時と同じように、君を誘えば良い。

「ねぇ……」

上擦った声が漏れる。僕の喉は、他所の人間の意志を宿して居るかの如く、僕の意志の範囲外で震える。冷や汗さえ滴る刹那、立ち止まることは出来なかった。

「この手さ……こっちの袖に変えない?」

一言を告げた間は、悠久の停滞。騒々しい喧騒さえ静寂。音の止んだ世界で、静寂に揺蕩う君は静かに僕を見詰めた。

時は一瞬。そして君は、そっと僕の右の袖から指を離した。

然し、君は僕から視線を逸らした。その視線の先に在るのは、境内に沿って軒を連ねる屋台。

僕の心臓は跳ねた。

心地良い焦燥感から一転。急激な血圧の低下と背中を伝う冷や汗、湧き上がる吐き気。選択を誤った可能性が、脳裏を埋め尽くす。

「し、椎名さん……」

縋るような情けない声を絞り出す僕を見て、君は何を思うか。でも、咄嗟に取って仕舞った行動に、僕が抗う術は無かったんだ。

君の言葉を待ち、君の意思表示を待つ暇。真夏を間近に控えた初夏の陽気に、身体を震わせる僕。君は、再び此方を振り向いた。

それから、柔和な表情を浮かべた君の右手が、そっと僕の方に差し向けられて居ることに気が付いたのは、景色を彩る君と人波の変遷を、暫く眺めた後だった。

宙に浮いた君の手は、何を待っているのか。君は、言葉には出さない。でも、夢のような逢瀬に夢のような現実が、信じ難い事実として在った。

「……」

明確な意志で以って、此処に在る君の右手を見据えて、僕は陽光に煌めく銀灰色の手を取った。

そっと触れた刹那、感じた君の体温。僕の体温を塗り替える熱量が、君の体温を語る。だが、触れた事実を捨て置き、湧き上がる衝動が在った。

触れて仕舞えば、楽になれるのだろう。そう、漫然と思い描いて居た。

思えば、自分自身が感じて居た胸の狭窄感の逃げ道を用意しておく為に、ある種のバイアスが掛かって居たのかも知れない。

人の心とは、誠に度し難い。自分自身の心さえ僕の管理の及ぶ範囲には居ないらしい。

掌に乗せた小さな君の手を、僕は掌で覆った。

震える親指で触れた手の甲。僕の掌に引っ掛かる君の細い指。浴衣の袂から覗く、艶めく君の手首。扇情的と言っては、下世話な表現なのかも知れない。だが、君は扇情的だったのだ。その容姿は、俗世とは隔絶された世界に存在する、途方も無い存在と思えた。

「っと……」

僕が君の手を取り、君が僕の手を握り返したと同時に、君は不意に歩き始めた。

人波を擦り抜け、真っ直ぐ向かう先の見当は付いた。

「金魚掬い?」

その問いに、君は頷く。

果たして、金魚を飼育する為の設備を持って居るのだろうか。費用も手間も掛かる。貴重な時間さえ削って、金魚を飼育する覚悟は在るのか。

思うことは、人の数ほど溢れた。だが、何れも愚問なのだろう。妙に勇んで草履の音を響かせる君の様子を見て、掛ける言葉は引っ込んで仕舞った。

やがて、屋台の手前で立ち止まる君に追従するように、僕は立ち止まった。

君の横に並び立ち、眼前に据え置かれたビニール製の水槽を眺める。極彩色の小柄な金魚が、木漏れ日の差し込む水槽の中を縦横無尽に泳ぎ回る様子が見て取れた。

「いっぱいいるね」

立ち替わり、君の様子を眺める。水面が弾いた陽光が、君の肌の上で揺らめく。酷く興味津々な様子で、水槽を凝視する君は、金魚を初めて見るのだろうか。

湧き上がる疑問に回答を求める訳では無く、ただ君の夢中な様子を見据える暇。君の新鮮な表情を脳裏に焼き付けた。

「おう、ねえちゃん。一回やってみないかい」

麗らかな世界に浸る暇に響いた、威勢の良い声。見上げた先に居たのは、眼前の水槽を挟んで向かい側の店主。水溶性の薄い紙を貼ったポイを掲げて、快活な笑顔を浮かべて居た。

だが、当の君は酷い焦り様で、主人の顔を一瞥。然して、縒れた鼻緒一本が支える草履とは思えぬ速度で、後方へ駆け出した。

「おおお?」

突然の出来事に、僕は引っ張られるが侭に出店から遠ざかる。背後を見遣った瞬間に目の合った店主に向かって、「また来ます!」と声を掛けることが精一杯だったが、店主のサムズアップが、彼の人柄を物語って居た。

君の様子を間近から眺めて、先刻から抱えて居た、君に係る疑問。

君は、人に慣れて居ないのか。人が苦手なのか。人が苦手だから、人に慣れて居ないのか。

確信が持てる想像は、飽くまでも可能性に過ぎないが、人に慣れて居ないことは事実なのだろう。

程なく、君は立ち止まった。

肩を上下に揺らして、乱れた呼吸を整える君。

「だ、大丈夫?」

僕の問い掛けに、君は肯定の意を示した。

君が首を振る所作は、何時の間に見慣れて仕舞ったのか。肩を揺らしながら、忙しなく周囲を見渡す君の一挙一動から、次の行動を予測する僕。

然し、君への心配は杞憂。今日の計画を立てる必要も、恐らくは無かったのだろう。

目に留まる出店を見つけたのか、束の間の休息から一転。何の予備動作も無く、僕の手を引いて一歩を踏み出す君は、宛ら子供のように見えた。

然して、君が足を止めた場所は……。

「かき氷」

君は頷くこと無く、プラスチック製の容器に裁断された氷が盛られ行く様子を、食い入るように眺めていた。

別段、かき氷が食べたい訳では無いのだろうか。先程から、僕と同世代の連中に取っては、知識を付けた場所さえ曖昧な常識の範疇に在る物事に対して、格別の興味を抱く様子が見受けられた。

箱入り娘と言うのだろうか。学校生活では、そのような素振りは見せなかったが……。

とは言え、このまま呆然と立ち荒んで居る訳に行くまい。人様の迷惑と言えば迷惑だ。

僕は、チノパンに捩じ込んだ財布を取り出して、メニュー表を一瞥した。

「すみません。いちご一つ」

「あいよ!300円ね!」

僕たちの注文を待ち侘びて居たのだろう。威勢の良い店主は、野太い声を張り上げた。

「椎名さんは?」

僕の視界の端で、僕の一挙一動を刮目して居た君の身体が強張った。

「どれがいい?」

財布を持った手で、僕はシロップの後面に置かれたメニュー表を示す。聞き慣れた名が連なるメニュー表だが、果たして君が選ぶ味は何か。

暫くの間、メニュー表を眺めて沈黙して居た君が、おずおずと指し示した先には、僕の予想と相違ないメニューが記されて居た。

「ブルーハワイ、一つ追加で」

「あい毎度!」

僕の頼んだ品を削る間に、手際良く君の分の容器を準備し始める店主。僕は、名残惜しさを噛み締めながら、君の手を離した。

開いた財布に残る札は三枚。全て、野口の旦那だ。

僕は、なけなしの野口を一枚引き抜き、今生の離別を惜しむ心の儘、君の分の氷を削る店主に差し出した。

「毎度!四百円の釣りだ」

店主は、僕の手から千円札を受け取り、予め用意して居た四百円を、僕に手渡した。

その儘、僕たちは商品の完成を待つ。

「……」

二人の間に会話は無い。然らば、静寂に潜む僕らを取り巻く周囲の環境音を強調させた。

活気に溢れた若人の喧騒。自然の摂理の下で生きる木々の騒めき。諸々が鼓膜に語り掛ける、夏を間近に控えた初夏の風情。無情な時の流れは、悠久を流るる緩やかな渓流。束の間の活気に溢れた、木漏れ日の落ちる境内で、僕と君は互いの時間を共有して居た。

此処で、君は何を想うか。この逢瀬を由無し事とは思わず、多少は楽しめて居るのだろうか。

僕は君を見遣った。

ふと、通い合った互いの視線。涼風に揺れる浴衣の裾が語る、無常の時に相反する君は、視線を逸らさない。斯く言う僕は、所詮は小心者の末裔だ。君から視線を逸らして、溢れる羞恥心の源泉を断ち切る為に、削り氷の様子を眺める他に無かった。

その瞬く間を置いて、失念して居た事案を思い出したかのような素振りで、君は我に返った。

俊敏な所作で、腕に下げた巾着を漁り始める君の行動。大方の察しは付いた。

「いや、いいよ。これは僕の奢り」

僕は、君の行動を制した。

懐は、宛ら宇宙。只管に寒い。でも、僕の方から誘った手前、崩落する寸前の男としての脆い尊厳の形は保った儘で居たかったのだ。

「あいよ、お二人さん!」

君が、僅かな逡巡の影を落とした瞬間、タイミング良く、店主の声が掛かった。

その手に在る、見慣れた飽きることの無い代物。店主から、綺麗に器に盛り付けられた鮮烈な紺碧と躑躅色の削り氷を受け取り、片方を君に差し出した。

「はい」

君の眼前に据えた零度の息吹が、火照った掌に浸透する感覚。程良く心地が好い。

暫しの逡巡の末、漸く君は手を伸ばした。

僕の手から器を受け取る間は一瞬。然して永遠のような一瞬。僕の眼前に立つ君が口を開いた瞬間、僕の意識を覆う時間は停滞した。

「……」

然し、君は口を閉じた。

逡巡に逡巡を重ねる君の胸中に抱える想い。僕が汲み取ることは叶わない。きっと、森羅万象を司る神さえ知り得ない理由が在るのだろう。

然して、君の双眼に僕の惚けた面が映り込んだ。そして、僕の双眼に映り込んだ君の表情には、儚い笑顔が咲いた。

その隔絶された美の権化。言葉を仕舞い込んだ少女の微笑を湛える姿を見る機会なんて、僕の理想が渦巻く空想の世界にさえ存在しなかった。

紡ぐ言葉さえ虚空の彼方に消え失せて居た。

蒼穹に漂う入道雲にも負けぬ白砂の如き白に埋め尽くされた、僕の大脳新皮質。言葉さえ纏まらない思考回路が導き出せる回答など無い。美を尊ぶ誠の心に抗う術は無く、ただ君を見据えては想い焦がれる時間が過ぎて行った。

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